プロローグ:呼吸のはじまり

 その人と初めて会ったのは、ジムの受付を抜けた先の、ストレッチゾーンだった。


 静かな空気に似合わず、彼の声はよく響いた。

 明るく、軽やかで、でもどこか“丁寧に人を距離に入れない”ような響きがあった。


「姿勢、いいですね。お医者さんとか……?」


 言い当てられて驚いた顔をしてしまったのを、今でも覚えている。


 俺は穂村、内科医。

 常に冷静で、誰にも深入りせず、日々を“こなして”きたつもりだった。


 けれどその日、彼——蓮の視線と声に、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。

 体の奥で、今まで聞いたことのない音が鳴ったような気がした。


 たった数分の会話。

 なのに、まるでずっと前から知っていたような、不思議な温度を持った人だった。


 ——その日から、俺の呼吸は少しずつ変わっていった。


 誰かの存在で、自分が変わるなんて思っていなかった。

 それが恋かもしれないなんて、なおさら。


 でも、蓮と出会ってしまったから。

 もう以前の静かな呼吸には、戻れなかった。


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