朝と夜の歩き方
花恩-はのん-
第1話
目が覚めると香るこの匂いが嫌いだ。
くらくらするほど甘ったるいこの香りが嫌いだ。
玄関の大きな姿見の横。
シューズラックの上にいつも置いてある『LOEWE 001』
ムスクの香りは信じられないくらい甘いくせに柑橘類を思わせるフレッシュさともスパイスのようとも思えるような刺激が仄かに鼻腔をくすぐる。
朝 をイメージして作られたなんてきっと嘘なんだと思う。
今何時なんだろう。
寝起きの倦怠感を振り払うようにして頭を持ち上げると、ベットが軋む音が僅かにたつ。
ん。と隣から微かに聞こえる声にふと目線を落とすと端正な横顔がほんの少し歪んでいる。
寝顔まで綺麗だ。
なんて考える私はどうしようもなくこの人に惹かれているのだろう。
ただ不平等ささえ感じさせるその綺麗な顔を、少しでも歪ませてやったという事実は、今の
ベットのわきにあるデジタル時計が指し示す時刻は朝の6時過ぎ。
まだ余裕があるなとは思うものの朝の時間というのは無駄にできるほどゆっくりと進んでくれない。
「用意しなきゃ」
呟くと余計に実感が湧くもので、いまだに起きる気配のない彼を起こさないように気遣いながらベットから脱出する。
下着を履き終えたころには覚醒したといって差支えがないくらいに目も覚めていた。
顔を洗って、歯を磨いて。
朝ごはんでも食べようかと、昨日の夕方に買っておいたお気に入りのパン屋さんのメロンパンを袋から取り出したとき。
「おはよう」
という声が背中から降る。
「おはよう、私はあと30分くらいで出るね」
答えながらメロンパンに齧りついた。
「了解、なら用意できたら教えてよ、送るね」
「わかった。…ありがと」
その会話だけで彼はリビングから出て行った。
すっかり用意も終わりそろそろ出る時間。
彼を呼びにリビングから出ると、水の流れる音が聞こえてくる。
まさかなとお風呂場に続く更衣室のドアを開けると、案の定シャワーヘッドから勢いよく水が出る音と一緒に風呂場の電気が付いているのが見えた。
「ちょっと
思わず声をかけてしまう
「もうそんな時間? 悪いまだ用意掛かりそうだわ」
「私もう出ないと間に合わないから行くね、お風呂出たら鍵だけ掛けてね」
「悪い、また埋め合わせするよ」
「いいよ別に。怒ってるとかじゃないし、こちらこそ長く居座ってごめんなさい。おじゃましました」
「ん、また連絡するよ」
リビングに戻りかばんを手に持つ。
本当に出ないとまずいのは頭の片隅で分かっているけど、どうも脳がうまく機能していないような、ぼーっとした感覚に襲われる。
足元を見るでもなく見つめる。
どこを見ているのか、ちゃんと立てているのか。
何もわからないけどとりあえず頭が回らない、そんな感覚。
それでも考えているのは彼のこと。
上の名前は知らない、聞いたことも無い。
二重のぱっちり目はアーモンドみたいな形で猫のように吊り上がっている。
吸い込まれそう。だなんて思ったことがあったっけ。
よく通った鼻筋に薄い唇。綺麗に出るEラインは横から見る彼の顔を一層好ましく感じさせた。
歳は私よりも4つ年上で22歳らしい。
出会ったときからずっと変わらない黒髪はサラサラしていていつまでも触っていたい手触り。
吸い込まれそうな瞳も、真っ黒な髪の毛や雰囲気までも、なにもかもがその名の通りどこまでも夜を思わせる。
送ってくれるって言ったのにな。
そう一人ゴチたところで何も変わらない。
彼の態度や接し方、私が彼を好きなこと。
なにひとつだって変わりやしない。
なんて考え込んでいたことに気付き慌ててスマホを見ると時刻は8時を過ぎていた。
「やば、早く出なきゃ」
ひらりと揺れるスカートを翻し玄関へと急ぐ。
とりあえず今は何も考えたくなかった。
「おじゃましました」
まだシャワーの音がする廊下で呟くように声に出す。
聞こえることはないと分かっていても、返事がほしかった。
ここ2年と少しですっかり履き慣れたローファーに足を通すのと同時に勢いよく鍵を捻った。
ドアノブに手を掛けながら大きな姿見を見やる。
なんの気なしに視線が吸い込まれた隣のシューズラックの上には、今日も『LOEWE 001』が置いてある。
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