狂気猫

縞田童

狂気猫

 猫用おやつのチューブが、右のポケットに3本。

 左のポケットには、生涯の相方である引っ掻き傷だらけスマートフォンと、薄っぺらで貧相な財布の2つだけ。

 他に身に着けているものは、つばの大きい日除け帽子とサングラス、そして顔半分を覆うほど大きな白いマスク。


 そんな格好で何をしているのかというと、人気のない寂れた街を彷徨い歩き、狭くて薄暗い路地裏を見つけては、その奥を覗き見る。

 奥までくまなく視線を巡らせて、何も気配がないことに落胆し、また薄暗い路地を探して彷徨い歩く、という行動を繰り返している。

 自分でも、不審者が不審なことをしているように見えるだろう、と自覚はしている。

 しかし、これでも社会貢献の仕事―――猫探しのアルバイト中の身なのである。


 夢であった小説家への転身をようやく果たしたものの、ここ最近は鳴かず飛ばずで、財布は薄くなる一方。

 糊口を凌ごうとした中で見つけたのが、この猫探しのアルバイトだった。

 仕事内容に対して報酬がそれなりに高く、友人からは「闇バイトじゃない?」と茶化されもした。

 しかし、どれほど怪しかろうと、後ろ暗かろうと、懐事情の問題の方が切実だった。


 一見、不審者にしか見えないこの格好にも、キチンとした理由がある。

 季節はまだ春先だというのに、近年稀にみる異常気象とやらで、眼を焦がさんばかりの日差しが降り注いでいる。

 照り返した紫外線から繊細な視神経を守るには、帽子だけでは心許なく、サングラスまで身に着けざるを得ないほどである。

 さらに、何処かで発生した大規模な感染症の流行により、マスクを身につけなければ、気ままに外出すらできない。

 学校でも、オフィスでも、コンビニでも、あらゆるところでマスク姿が溢れ返っている。


 この猫探しアルバイトも、例にもれずマスクの着用が必須とされている。

 その理由について調べてみると、今探しているある特徴を持った猫が、くだんの感染症の原因となっているウイルスを媒介する生き物なのだという。

 このウイルスに感染した猫は、『狂気猫』などと物騒な名前で呼ばれているらしい。

 その猫を見つけ次第、保健所だか回収業者だかに通報して、捕獲しに来るまで逃がさないようにするというのが、このアルバイトの内容である。

 自分は大して猫好きでもないが、猫と言えば狭くて薄暗い路地裏にたむろするものだろう、という見当は付けることはできる。

 我ながら安直な考えだが、ともかく猫がいそうな薄暗い路地裏を、そこらじゅう見て回ることにした。

 簡単に見つかりはしないだろうな、と思いつつ路地裏を覗き見ては、期待と失望を繰り返すこと、数十分もした頃―――




 ―――意外と容易に、見つけた。

 見つけてしまった。

 身体は痩せてガリガリだし、毛はボサボサで薄汚れているが、まさしく『狂気猫』である。

 狭い路地裏で小さく縮こまりながら、怯えた目でこちらを見つめてくる。

 とりあえず、警戒させないように身をかがめながら、右のポケットを探る。

 それを見た『狂気猫』は、ヨロヨロと身体を起こして、逃げ出そうとするかのように身構えてしまう。

 ここで逃がしてしまうと、厄介なことになる。

 こんな時こそ、とっておきの猫用おやつチューブの出番だ。

 右ポケットから1本を取り出し、細長いチューブからにゅるりと飛び出した赤い肉を見せつける。

 途端に、肉の芳醇な香りが漂い、思わず涎が出そうになる。

 『狂気猫』がそれに気を取られている隙に、左ポケットからスマートフォンを取り出す。

 スマートフォンのロック画面を解除し、このアルバイトのためにインストールしておいた通報専用アプリを立ち上げ、ある画面を表示する。

 『狂気猫』の細かい特徴が、チェック項目としてずらりと並べられているチェックシートである。

 面倒ではあるが、これをすべてチェックしてからでないと、通報ボタンをタップできなくなっている。


□ 前脚が2本、後脚が2本―――チェック。

□ 頭部には耳2つ、目が2つ、鼻が1つ、口が1つ―――チェック。

□ 耳は……


「お―――」

 視線をチェックシートから上げると、いつの間にか『狂気猫』が立ち上がり、スマートフォンを凝視していた。

 そして、何かを悟ったのか、大声で始めた。


「お願いします、通報しないで!

 通報したら―――通報されたら、あいつらに殺される!

 あのウイルスのせいだ!

 あれが流行してから、あいつらも、世界も、どんどん狂ってしまった!

 他の人たちが捕まってからずっと一人で!

 だから、お願いします!

 どうか―――」


 『それ』は、ガリガリの身体からは想像できないほどの声量で、まるで意味を持つかのように抑揚の効いた鳴き声を喚き続けている。

 明らかに興奮していることに気付いて、『それ』に逃げられる前に急いで通報するためにチェックを再開する。


□ 耳は楕円形で、顔の両側に2つ―――チェック。

□ 瞳孔は明所・暗所にかかわらず常に円形―――チェック。

□ 左右の前脚にそれずれ指が5本ずつ―――チェック。

□ 長く鋭い牙および爪なし―――チェック。

チェック、チェック、チェック……




 全てのチェックを終え、通報ボタンをタップする。

 次の瞬間、『それ』が滅茶苦茶な鳴き声をあげながら、こちらに突っ込んできた。

 強行突破するつもりか、と思わずこちらも行く手を塞ごうとする。

 目の前まで迫ったところで、『それ』は何処からか取り出したスプレー缶を、こちらに向けて噴射した。

 噴射された液体は、サングラスやマスクのおかげで大方は防げたが、それでも鼻腔には柑橘系特有の刺し貫くような痛みが襲う。

 堪らず、サングラスもマスクも帽子も取り払い、吹き付けた『それ』に向き直り、睨みつけた。


 ヴゥァァアアアァァンンヴオオォォォォンンン


 何処からか、大きな獣の唸るような音が響いてくる。

 それが、自分の喉から発せられた音だと、数舜遅れて気付いた。

 全身の毛穴が開き、体毛が逆立って身体が膨張していくのが分かる。

 『それ』は、顔を気の毒なほど青くして、眼を見開いたまま固まっている。

 その見開かれた眼の中、小さな瞳に写り込んだ自分の素顔が、どういうわけか細部まではっきり見ることが出来た。


 裂けそうなほど大きく開いた赤い口の中に、鋭く長い牙が並んでいるのが見える。

 暗闇で妖しく光る双眸に、縦にぱっくりと割れたような細長い瞳孔が見える。

 天を刺し突くつののように、頭の上にピンと伸びた大きな2つの耳が見える。


 自分は一体いつから、こんな顔をしているのだろうか。

 いつから光に過敏になり、帽子とサングラスを欠かさなくなったのだろうか。

 いつからあの赤い肉に、食欲をそそられるようになったのだろうか。

 目の前の『このヒト』は、いつから猫などと呼ばれるようになったのだろうか。

 いったい、いつから―――


 そこで、ぐらりと意識が揺らいだ。

 噴射されたスプレーの効果か、頭に浮かんだ膨大過ぎる疑問の処理に、頭がついて行かなかったのか。

 倒れそうになる身体の横を、『あのヒト』がすり抜けて駆け出していく。

 しかし、その行く手を、黒塗りの大きなワゴン車が急停車して阻んだ。

 『あのヒト』は、ワゴン車から出てきた集団に、あっという間に取り囲まれてしまった。

 集団は、様々な色や模様―――縞模様やブチ模様の作業着に、顔半分を覆うほど大きな白いマスクを身に着けていた。

 作業着の集団は、何とか逃れようと暴れる『あのヒト』を、無理矢理ワゴン車の中へ押し込み、バタンとドアを閉めた。

 その光景を、朦朧とする意識でただ眺めていると、集団のうちの一人が、ふとこちらに目を向ける。

 その双眸は、自分と同じく、縦にぱっくりと割れたような細長い瞳孔であった。

 そこで、意識は完全に途切れた。




 目が覚めたのは、すっかり日が暮れた頃だった。

 気怠い身体を起こしながら、冴えない頭で何があったのか思い出そうとする。

 たしか、猫探しのアルバイトをしていて、『なにか』を見つけて、通報したが、逃げられそうになって……

 あっ、と思い立ち、慌ててスマートフォンを立ち上げる。

 銀行アプリで口座の残高を確認すると、本来の報酬よりも少ない金額が振り込まれていた。

 小遣いとしては多いが、貯金には心許ない、そんな額。

 どうやら、捕獲は間に合ったようだが、逃がしそうになったことで、幾ばか差し引かれたようだ。

 やるせない気持ちでため息をつきながら、ゆっくりと立ち上がり、フラフラと家路につく。


 明日はどうするべきだろうか……

 このアルバイトを続けるべきなのだろうか……

 そんな考えに頭を悩ませながら、路地裏を抜けだすと、闇夜の街の空気が全身を包み込んできた。

 夜道に吹く涼しげな風が、程よく体表を撫ぜるようで心地がいい。

 光を失った街灯が立ち並ぶ宵闇の路が、今日はやたらと煌びやかに見える。

 先程の諸々の悩みなど吹き飛ぶようで、とても気分がよくなっていく。


 そうだ、と頭の中にある考えが芽生える。

 行き詰っていた小説の、新しいアイデアが浮かんできた。

 この体験こそ小説に書き起こし、世に広めるべきではないだろうか。

 このアルバイトで体験した、あの不可思議な出来事の真相を。

 このアルバイトで探している、謎めいた『あの』存在の正体を。

 だからこそ―――


 ―――明日も『狂気猫』を探さなければ。

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