③  6月15日

 なぜにきのうの日記が書かれてないって? 

 しれっと忘れたのさ。まじでうそついた。まいにちなんて書けるけなどないのにしめんどうだったから。ついでに最初は手書きだったけれど、前回からパソコンで書いている。母親が使っていた古いMacをもらった。あのひとはパソコンを使った仕事をしているらしいがそれはどうでもいい。

 パソコンは楽だな。それにしたって書く(あ、いや打つか?)ことがストレスになるのならやめたらいいのにな罪悪感が湧くくらいならやめるべきかもしれないし、それはどうだかしかしわからない。論理的思考なおれ。要するに理屈っぽいのだ。

 日曜日という日は実に憂鬱だ。だってあすが学校があるとおもうと肩が重たくなるからだ。性急すぎだろうか。

 だからといって学校が嫌いというわけではない。むしろ好きな部類に入っている。多分。昔は大の嫌いだったから先入観がさっちしてしまうのであろう。あーヤダヤダ。

 いまある全てを観察すればその人物の実態が見えてくるようになった。かといって霊視しているわけでもなく心をよめるエスパーになったのではない。

 ひとの行動はまず本能から始まる。いい変えれば本能という記憶から始まる。

 さらに根本的には周囲の環境に左右されてくるとおもう。要するに環境から本能が作られることになるとおもうのだ。

 次に偶然によって得られた経験がそいつの糧になるときもあれば読書をすることによって経験になることもある。

 そしてその経験はそいつ(まあおれか)特有の人格となりさまざまな色を持ってひとつの個体となる。

 いったいだ。いったいおれはなにを書いているのかさらっと見返してみても理解ができかねる。つまり自分でも理解してないのかもしれないが、この原石を保存しておきたくなった。ふと。

 おれが保存したくなったことがもうひとつ。

 インプットないしアウトプットはありえない。なぜならば無いものを引き出そうにもそこになかったらもともこもないからだ。最初の命題に戻るが、インプットされてアウトプットされたいまを見ればそいつ(まあおれ)対しての理解が深まるとおもうのだが。推測で手取り早く収集する前に観察という行為は大事だと感じるのだ。

 こうした哲学的ことをなぜおもってしまうのか。いまこの瞬間までひどく不気味で不思議だった。 

 が、いまはなんとなくわかる。それはおれが事実そうした環境になったためだ。

 環境とはアウトプットがつくる芸術だ。

 ため込むだけではいけない。そとに出していかないと。たまにふとおもうし、なんならいまはっきりとわかった。

 この世界はなにかとてつもない力が動いているし、なんとなくおれしか理解できない原石を保存したところで世界のどこかで起こっている戦争が終わるわけでもないし、まだ宿題もしてないし、飯だって食ってないのだ。

 いまの非常事態は空腹だし、おれは17歳だし、ラーメンを食いたいし憂鬱で理屈っぽいのだからしょうがないだろ? なぁ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

憂鬱の手記 藤村 綾 @aya1228

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ