猫の国

山本薩埵

猫の国

 ニャンコシューニャは人間の飼い猫だった。この家の中が世界のすべてだと思っていたし、この生活をすることに、なんの疑問も抱かなかった。

 人間がくれる餌を頬張って、気に入らなければ人間に当たり、人間より自分は立場が上だと思っていた。

 ニャンコシューニャは、そのときは人間につけられた名前があり、ニャンコシューニャという名前ではなかった。

 ニャンコシューニャは人間には、ソラと名付けられていた。広い空も知らずに、その名を背負っていたのである。

 あるとき、ニャンコシューニャは、広い空を知った。

 目覚めると、人間の家とは違う、寒い屋外で、段ボールの中にいた。

 しばらく人間を探したが、誰もいないので、捨てられたと気づくのに時間がかからなかった。

 ニャンコシューニャは、初めてこんなに怒りと不安に満ちた心になった。

 怒って、にゃあにゃあと喚き散らしても、誰もいないため、なにも解決しないまま夜が来てしまった。

 ニャンコシューニャは、初めて夜の寒さを知った。

 静まり返った公園で、誰でもいい、誰か来てくれ、誰か来てくれと願っていた。

 諦めかけたとき、遠くから光る目が、たくさん近づいて来るのが見えた。

 駆け寄ると、そこに猫の群れが姿を表したのである。

 ニャンコシューニャは駆け寄って、泣きながら群れに縋った。

「人間に捨てられたんだ。人間に捨てられたんだ。どうか助けて、僕は人間に捨てられたんだ」

 すると、群れから一番大きい猫が出てきて、大きな声でこう言った。

「人間に猫が捨てられるなんて当たり前だ。世界はお前一人を中心に回ってはいない」

 ニャンコシューニャはあ然とした。ニャンコシューニャの世界に、猫は自分しかいなかった。自分が偉い、自分が中心であると思う心から、捨てられ、怒り、悲しんだのだと気づいた。

 奥から長老の猫が出てきて、言うのであった。

「そうであるぞ、思い通りにならないのが世界だ。だが、お主についてくる意思があるなら歓迎しよう。私はナーガネコニャだ。お主はなんという名だ」

「ソラという名前です。人間にはその名で呼ばれていました」

「ではその名を捨てよ。今日からお主はニャンコシューニャだ」

 こうして、ニャンコシューニャは今残るこの名前になったのである。

 次に先ほど大きな声で話しかけてきた、大きな猫が名乗った。

「私はネコアスラだ。私の名もナーガネコニャ様につけてもらったのだ。ナーガネコニャ様は神がかりだ。ナーガネコニャ様は野良猫の生まれながら、多くの捨て猫に慕われる王であり、賢者なのだ」

 ナーガネコニャは照れることも、自惚れることもなく、ただの事実を聞くように毅然としていた。

 ネコアスラは、ナーガネコニャの足元に頭をつけて敬意を示し、お願いした。

「ナーガネコニャ様、どうかこの迷えるニャンコシューニャにも、ナーガネコニャ様の悟った真理の一部を教えてあげてください」

 ナーガネコニャは微笑んで、話始めた。

「善哉、善哉。ニャンコシューニャよ、よく聞くのだ。人間も、猫も、虫も、魔物も、一切平等なのだ。人間として生まれれば優れているわけではない。猫として生まれて、劣ったり、立派だったりが決まるわけではないのだよ。猫はその行いによって、賢者か愚者が決まるのだ。それは人間がいようが、魔物がいようが、関係ないことだ」

 それからニャンコシューニャは、ナーガネコニャの教えやネコアスラの教育を受け、旅に加わったが、旅の目的は、信頼されるまで話されることはなかった。



 ある夜、公園で、猫の群れは、ナーガネコニャの話を聞いていた。

「あらゆる苦しみは自分が世界を認識するときに生まれる。外の世界に苦しみという本質はない。それはどういうことか……」

 するといきなり人間が現れ、ナーガネコニャに石を投げつけたのだ。

 とっさにネコアスラはかばい、ネコアスラに石が直撃してしまった。

 ネコアスラは血をどろどろ流していた。

「ネコアスラさん、ネコアスラさん、いま手当します」

 ニャンコシューニャが言ったが、ネコアスラは切れかけの声で、最後の言葉を残した。

「私は死ぬが、復讐するな。本当の目的は、外にはない」

 翌朝、ネコアスラの葬儀が行われた。

 ネコアスラの遺体を埋めると、ナーガネコニャは「にゃあ」と大きな声を出して引導を渡した。

 するとネコアスラの霊が現れ、ニャンコシューニャに語ったのである。

「ニャンコシューニャよ、私は、人間の飼い猫であるとき、弟がいた。弟は人間に虐待されて死んだのだ。そんなことはどうでもいい。お前は私の弟にそっくりだった。私は死ぬ前に、お前に会えて良かった。ニャンコシューニャよ、私の姿は見えなくても、浄土から、猫の未来を見守っているぞ」

 そして、ネコアスラの霊は浄土へと旅立ったのである。

 ニャンコシューニャ達は、ぼろぼろ泣いていたが、ナーガネコニャだけは、優しい目でネコアスラを見送っていた。

葬儀が終わると、「にゃおにゃお」と鳴き、子猫が一匹近づいてきた。

その子猫は、何度も「にゃおにゃお」と鳴いて猫の集団の周りを回るので、ニャンコシューニャは、その子猫にニャオニャオと名付けた。

 ある夜、猫の一員であり、一番聡明なナーガネコニャの弟子であるプラジュニャーは、ナーガネコニャの足元に頭をつけ敬意を示して言った。

「ナーガネコニャ様、そろそろ、ニャンコシューニャにも旅の目的を話させて下さい。そのほうが一層、行脚に身が入るでしょう」

「プラジュニャーよ、そなたがそう言うなら、認めよう。ニャンコシューニャに話してみてはどうか」

「はい、ありがとうございます。ニャンコシューニャよ、よく聞くのだ。この旅には、目的地がある。しかし、場所は分かっていない。東に導きがあるというお告げから、東に向かっているのだ。我々の目的は、人間の世界を脱して、猫の国を作ることなのだよ」



 それから旅が続き、ニャンコシューニャも成長して、ナーガネコニャの弟子の一人として認められるようになった。

 プラジュニャーから様々な学問を教わり、簡単なことはニャオニャオに教えられるようになった。

 ニャオニャオはニャンコシューニャによく懐き、いつも一緒にいた。

 そんなある日のこと、ニャンコシューニャの夢にニャオニャオが出てきた。ニャオニャオは悲しい顔をしていて、一段下には烈火のごとく火が燃えていた。

「ニャオニャオ、行っちゃだめ」と叫ぼうとした瞬間、ニャンコシューニャは目が覚めた。

 悪い夢から覚めたあとも、旅は続く。

 猫の一団は、山を登っていた。

「にゃおにゃお」と元気に鳴くニャオニャオの姿を見て、ニャンコシューニャは安堵した。

 山の頂上に着くと、そこには人間の建てた寺があった。夜の寺に入ると、そこには人間型の仏像があった。

ナーガネコニャはその前に立ち地面を頭につけて礼拝し、立ちを、3回繰り返した。

するとプラジュニャーが、ナーガネコニャに礼拝し、質問した。

「ナーガネコニャ様、人間の姿の仏が、我々猫を手助けして下さるのでしょうか」

「プラジュニャーよ、心配はいらないよ。さあ、手を合わせよう」

猫の一団が人間の仏の前で、しばらく手を合わせていた。

ニャオニャオは、人間の仏に近づき、その短い手で触れた。

すると、空中に猫の姿をした仏が現れたのである。

猫一同は深く頭を下げ、ニャオニャオは首をかしげていた。

猫の姿をした仏は、ものすごい光を放ち、堂内はまるで昼のようであったが、影ができることはなかった。

猫の姿をした仏は、瞑想から覚めると、目を半眼からゆっくりと開け、猫たちに話し始めた。

「猫の一団よ。汝らが望む理想郷は、この仏像の裏にある。行け、行け、さあ行け」

ニャンコシューニャを先頭に、ナーガネコニャの一団は、仏像の裏にある穴に入っていった。



長く暗いトンネルには、ペタペタと足音だけが響いていた。

ようやく向こうに光が見えてきて、猫たちがトンネルを抜けると、平坦で、蓮の咲く楽園がそこにはあったのである。

そこに人工物はなく、それが人間のいない世界である証拠だった。

この楽園を、ナーガネコニャはネコチアンと名付けた。

そして、無駄な殺生や同胞の殺生をしない、物を盗まない、悪口を言わない、嘘をつかないなど、ネコチアンには複数の法律が作られた。

 それから、猫たちは家を作り、様々な物を発明した。

 特に、プラジュニャーが発明した文字というものは画期的であり、これでナーガネコニャの教えを末代まで記録できると猫たちが喜んだが、ナーガネコニャは病に倒れ、あまりしゃべることもできなくなってしまった。

 ネコチアンの中心にある猫の寺院の中で、猫たちに囲まれ、ナーガネコニャは最期の言葉を放った。

「猫たちよ。人間や俗の猫の言動に左右されるな。私の教えと、自分の心のみを拠り所とせよ」

 これが、文字で最初に記録されたナーガネコニャの言葉になった。

 ネコチアンの寺院では、ナーガネコニャの葬儀が行われた。

 ナーガネコニャがかつて行っていた儀式に従い、プラジュニャーが「にゃあ」と大きな声を出して引導を渡すと、ナーガネコニャの霊が現れた。

 皆、ナーガネコニャの言葉を聞きたがっていたが、ナーガネコニャの霊は、ニャオニャオに近づき「ニャンコシューニャ達の言葉をしっかり聞くのだよ」と言って消えてしまった。

ニャオニャオは、「にゃおにゃお」と返事をしたが、ナーガネコニャと会えるのが最期だと思っていないようであった。



そして、猫の寺院では、毎朝集会が開かれ、ナーガネコニャが何を教え、何を教えてなかったか議論され、文字に記された。

 しかし、2週間もすれば記録することもなくなってしまい、猫たちの心に、ナーガネコニャという拠り所を失った悲しみが、毒のように蝕んでいた。

 こんなときに、ニャンコシューニャは、清浄な川でひたすら水行をしていた。

 ニャンコシューニャには、教えを受け取れなくなってしまったのは、ナーガネコニャが亡くなったのが原因ではなく、猫たちの心に生じた隙が原因ではないかという考えがあった。

 ニャンコシューニャの心が折れかかったとき、ニャオニャオも隣で水行を始めた。

 水を浴びるたびに「にゃおにゃお、にゃおにゃお」と言うニャオニャオを見て、ニャンコシューニャは決心がついたのである。

 そんな中で、集会に参加しなくなったニャンコシューニャを、真剣にプラジュニャーに従って集会に参加していたニャンコメールは、よく思っていなかった。

 ニャンコメールとニャンコシューニャの間では、ネコチアンで初である、手紙によるやりとりがされた。

 まず、ニャンコメールからニャンコシューニャに手紙が渡った。

「ニャンコシューニャへ、集会へ参加するように。ナーガネコニャ様に教えを賜った身であれば、協力すべきである、以上」

 これを読んだニャンコシューニャは、ニャンコメールに以下のように返した。

「ニャンコメールよ、すまない。私には考えがある。蓮が咲く日の早朝に、寺院に人を集め、ナーガネコニャ様が本当に伝えたかったことを教えてもらう予定だ」

 そして、蓮が咲いた早朝、ニャンコシューニャは皆を寺院に集めた。

 皆が集まってきたとき、ニャンコシューニャはじっと座って瞑想をしていた。

 しばらくして、ニャンコシューニャは目を半眼のまま、このように話しだしたのである。

「私はこのように聞きました」

 するとナーガネコニャの霊が空中に現れ、ニャンコシューニャの口とシンクロして、ナーガネコニャの霊が話し始めたのである。

 プラジュニャーは、冷静に文字に記録していた。

「猫たちよ、私はあなたたち皆が、等しく立派な猫になるように説いてきた。これ以上の教えは、難しい」

猫たちは、ナーガネコニャの霊を前に礼拝し、「お願いします」と2回お願いしたが、ナーガネコニャの霊は「難しい教えだ」と言って断ってしまった。

 しかし、ニャオニャオが「にゃおにゃお」とお辞儀すると、ナーガネコニャの霊は「よいでしょう。猫たちよ、私が今まで教えてこなかったことを、話すことにします」

 するとニャンコメールは、「私はもう学ぶことはありません。人間界に戻って、人間界の猫たちに、ナーガネコニャ様の教えを広めます」と言ってネコチアンから出ていってしまった。

 ナーガネコニャの霊は、彼を見送ったあと

「今、自分たちの修行が十分であると誤った猫が、去っていってしまった。今まで私は、あなたたちに、立派な猫になれると言い、皆を従えてきた。しかし、皆は更に上に行かなくてはならない。実は、どんな猫であっても、仏の力によって、今世または未来世で、私のように悟り、仏になることができるのだ」

 猫たちは喜び、舞い上がった。

 猫たちは、自分たちもこの苦しみの輪廻から永遠に脱し、仏となり、生きとし生けるものたちを救うことが約束されたのである。

 その時、会場にいた若い猫であるネコプラサーダは、ナーガネコニャの霊に質問した。

「ナーガネコニャ様、あなたはどこにいますか。まだ会って聞きたいことが山ほどあります」

 するとナーガネコニャはニャンコシューニャの口を借りながら答えた。

「ネコプラサーダよ、私はいつもネコチアンにいる。私は死んでいない。なぜなら仏の寿命は無量だからだ。私は、私がいることで、皆がいつでも安心であるという過ちを正すために、隠れて見えなくしたのだ。強く悟りを望めば、私はいつでもあなたのそばにいるのだ。ニャンコメールたちもいつか戻って来るだろう。この正しい教えを、ネコチアンだけでない、世界中の猫に広めるのだ」

 そして、ナーガネコニャの霊は消えしまった。



 ネコチアンの住民たちは、それからますます修行に励むようになった。

 ある時、ニャンコメールが新しい猫を数匹引き連れて帰って来た。

ニャンコメールが帰ってくると、ネコチアンの雰囲気の変わり様に驚いて、ニャンコシューニャのもとを訪れた。

「ニャンコシューニャよ、私は、間違っていたのかもしれない。あれから教えを説き、猫たちを導こうとしたが、力不足を感じた。ネコチアンに戻って、もっと修行しなければならないと思い直したのだ。でも、あれからどうなって、ネコチアンはこんなに活気づいたのだ」

「ニャンコメールよ、あの時の記録を、一巻、貴殿が帰ってきたときのために用意してあった。これを読むのだ」

 そして、ニャンコメールも、すべての猫が仏になれるという教えを読んで、大いに喜んだ。



 次第に、皆に知識が広まっていくと、より深く学びたい猫が増え、学問的になっていった。

 プラジュニャーは大いに満足であったが、ニャンコメールやニャンコシューニャは、この現状に異議を唱えた。

 ネコチアンにいる猫だけが十分に学び、人間界の無学の猫たちを救済しないのは、平等の教えに背くと考えたからである。

 そこで、ニャンコメールとニャンコシューニャとニャオニャオは、人間界に戻り、猫たちを救済しに行ったのである。

 ニャンコメールとニャンコシューニャとニャオニャオは、人間に捨てられたり、人間に虐げられたりしている猫を助けてまわった。

 猫の集団は百匹近くになり、ネコチアンにいよいよ戻ろうとしたころ、人間に襲われていた猫を見つけ、ニャンコシューニャはその猫をかばった。するとその人間は、ニャンコシューニャを刃物で何度も切りつけたのである。

 ニャンコメールや猫の集団は、恐怖のあまり立ちすくんでしまったが、ネコアスラの霊が現れ、猫の集団に怒鳴った。

「ぼうっとしてるな」

 百匹近い猫の集団が一斉に人間に噛みつき、人間は逃げていった。

 しかし、ニャンコシューニャの息はもうなかった。

 ニャンコメールやニャオニャオ、猫の集団はひどく悲しんだ。

 ニャンコメールが「にゃあ」と引導を渡すと、ニャンコシューニャの霊が現れた。

 そこにはネコアスラの霊も現れ、二人で浄土へと旅立っていった。

 ニャオニャオは、お別れの意味がわかるようになったので、泣いていた。

 猫の一団がネコチアンに帰ると、街は深い悲しみと怒りに包まれた。

 ニャンコメールやプラジュニャーにも止められないほど猫たちは殺気立ち、武器を発明し、人間との戦争を始めようとしていた。

 猫全員が持っても余るほどの刀などの武器が作られ、武器庫が作られた。

 戦争の決起集会が行われた日、武器庫が燃えていて、猫たちが集まってきた。

「俺達の武器が、復讐の道具が」と口々に猫たちが嘆いたが、猫たちが炎の一段上を見ると、ニャオニャオが立っていた。

「ニャオニャオ、危ないよ、戻りなさい」猫たちが言ったが、ニャオニャオは「にゃおにゃお」と言って、炎に飛び込んでしまった。

熱い炎に焼かれるとき、ものすごい苦しみがニャオニャオを襲った。

「ニャオニャオ、ニャオニャオ、熱くないよ」

 ニャオニャオには、ニャンコシューニャの声が聞こえた。

 ニャオニャオもニャンコシューニャの住む浄土へ、行ったのだ。

 同胞を失う戦争の苦しみが、どれだけ大きいのか、ニャオニャオがみんなに教えてくれたのだった。

 ネコチアンには、ナーガネコニャ、ネコアスラ、ニャンコシューニャ、ニャオニャオの像が作られた。

 そこには毎日祈る猫たちが通い、花が手向けられている。

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