猫毛
祐里
アンガーマネジメント
アンガーマネジメントとかいう言葉あるじゃないですか。知ってます? アンガーをマネジメントするんだって。怒りを管理するってことですよね。ひゃはは。『管理』って言い方、大げさですよね。そんなことみんな前からやってるでしょ?
私ね、小学生の頃からやってたんですよ。腹の立つことがあるとノートに書くんです。鉛筆で。HB使ってたな。中学生になってからはシャーペンでFの芯にしたけど。で、ノートに書いた腹の立つヤツの悪口を一通り眺めて満足するんです。
いわゆる『昇華』に近いのかなと思います。人は抱えた不満をどう処理するか、みたいなのを中学校の現代社会の先生が説明してたんですけどね、その中に『昇華』ってあったんです。他の処理方法は覚えていません。必要ないと思って脳内から削除しました。不満の処理方法なんて言い方してますが、きっと頭の良い方々は「ああ、あれか」とすぐにおわかりになるのでしょう。きっと何か別の、もっと良い言い方があるんでしょ? 頭悪くてすみません。
『頭の良い方々』って、嫌味っぽく思えました? 嫌味ではありませんよ。嫌味を言いたくなる人もいますけどね。本当は、嫌味なんて生ぬるいです。コイツ殺してやりたいって思うことありません?
そういうわけでね、実家で飼ってた猫にいつも愚痴を言ってたんですよ。「ほんとわかってないよね。バカじゃないの。消えろ。そう思わない?」とか、「なんで私がこんなことしなきゃいけないの、自分でやればいいじゃん。消えろよ。そう思わない?」とか、「まずは自分のこと省みろよ。バカか。消えて詫びろ。そう思わない?」とか。そうするとね、「にゃあ」って答えてくれるんです。かわいいでしょう?
猫は私にとてもよく懐いていましてね。私が拾ってきた子だしね。まだ小学生だったある日、友人に、ああ、いや、友人ではないんだけど当時は友人だと思ってたからまあいいでしょう、友人に殴られた頬が腫れてしまって熱くて痛くて、夜眠れなかったんですよ。じゃあコンビニにウーロン茶でも買いに行くかって小銭入れ持って家を出たところにいて、目が合ったんです。それで「にゃあ」って。
しかもね、歩く私の後ろをずうっとついてくるんです。ずうっと。コンビニは徒歩五分のところなんだけど、このままコンビニに行ったら猫の縄張りの外に出ちゃうかもしれないって思って、それでウーロン茶買うのは諦めて、猫を抱えて家に戻ったんです。大人しく抱えられてくれましたよ。大きめの三毛猫でね。かわいいでしょう? ねえ?
うちの親はすごくクソだったけど、食事だけは作ってくれていましてね。あと小遣いもくれていました。何でもかんでも「自分で何とかしろ」だったんで、金さえあれば何とかなるだろってことです。でもさすがに猫はね。両親どっちも動物嫌いだから、飼えないかなと思ってたんです。だからこっそり部屋の中で飼ってまして。私、部屋には絶対に親を入れなかったから。
でもすぐバレちゃって。いやそりゃそうだよなぁとは思います。どうしても匂いがね。服に付いた毛が床に落ちるし。そしたらね、母がね、かわいいわねなんつって許したんですよ。父も、いいんじゃないか、なんて。腹立つでしょ? どんだけ猫飼いたいって説得したところで人の言うことなんか絶対に聞かないくせに、実際に猫見たらこれですよ。もちろん頭にきましたけどね、そこはアンガーマネジメントで。ひゃは。
その猫ね、私が腹の立つことをノートに書いてると、机の上に見に来てたんです。他の、少女漫画の真似して描いた絵もローマ字の練習も全然見ようとしないくせに、それだけ。まあ別に邪魔というほどでもなかったし、書きながらたまに頭や背中撫でたりしてね。そうするとすごく落ち着く気分になれたんです。アニマルセラピーってやつ? ひゃはは。『セラピー』なんて言われてもね。別に私は傷付いてもいなかったし、異常をきたしているわけでもなかったんで。心身共に健康だったんだから、やっぱ大げさでしょ。
猫に愚痴を聞かせて、たまに「ほんと腹立つ。バカじゃないの。ああ、カインのことじゃないからね。かわいいね、いい子いい子」なんて撫でたりして、んで悪口書いたノートを見られたりして、そんな生活を送り続けて高校生になったんです、私。あ、カインって猫の名前ね。私にだって入れる高校はありましたよ。素行だって悪くなかったんです。何せアンガーマネジメントできてましたから。
高校生になると何でみんな大人ぶりたがるんですかね? 中学生までは、親は弁当なんて作ってくれなかったからパン給食のために持っていったお金を横からかっさらわれたり。本当に手のお金をかっさらわれたんです。カラスなの? それともトンビ? いやそれは鳥類に失礼か。体育の時間にジャージが見つからなくて探したらクラスカースト最下位の男子のロッカーに入ってたとか、そんなバカみたいな窃盗やら嫌がらせやら、「あんたが成績いいのが気に入らない」とかいう意味不明な理由での殴る蹴るの暴力やら、本当にしょっちゅうだったのに、高校生になると途端に大人ぶって協調性がどうとか言い出すの、あれ何なの。
同じ中学校から進学してきた人なんか、周りが知らない人ばかりだったからか「仲良くしよ♪」とか言いやがったんですよ。おまえ私のジャージの隠し場所提案したヤツじゃん。何でみんなそんなに記憶力悪いの? もしかして記憶が上書き保存されてるの? 脳みその性能悪すぎじゃないですか?
そういう愚痴を高校生になってもよく猫に言ってたんです。猫ね、その頃にはけっこうな老体で、動きが緩慢になったりとかはありました。でも健康だったと思うんです。それがある日、突然家を出ていって戻らなくなったんです。大人しくて、脱走なんか絶対にしないような猫だったのに。
悲しかったけど、猫が自分の意思で行動したのなら仕方ない、昔から猫は死ぬ時に孤独になると聞いていたし、と、まあ、うん、そうやって自分を納得させました。もっと長生きすると思っていたのにな、でもしょうがない、これまでありがとう、なんて、心の中で何度も何度もお礼を言いました。
で、そんなかわいらしい小中高生時代を送った私も、とうとう就職して一人暮らしを始めました。やっと親から離れられると大喜びはしました。でも相性の悪い上司に当たっちゃいまして。アンラッキー。なんていうか、嫌な人ではない、ただ、やり方がいちいち気に障るっていうんですか? いるじゃないですか、正義ヅラして大騒ぎするヤツ。すっごく押し付けがましい。「これはこうした方がいいんじゃないか」というようなことをちょっと漏らしただけなのにもう大はしゃぎ大張り切りで、途端に「部内会議だ」とか言い出す。仕事熱心なのはいいんです。でも迷惑だったんです。ほら、私って冷めた人だから。
就職して三年くらい経った頃だったと思います。本当に嫌だな、あの人長期入院でもしてくれないかな、なんて考えたんですよ。ちらっとですよ、ちらっと。そんなだいそれた呪いみたいなことしませんよ。藁人形とか、ただの昔話じゃないですか。
そうしたら、本当にその人、長期入院することになったんです。びっくりしました。工事現場のそばを通った時に大きなトラックがバックしてきて、ぶつかっちゃって。複雑骨折っていうんですか、内臓もちょっと損傷していたみたいで。現場は血まみれだったらしいんですよ。よく生きてたなぁ。
何でこんなこと知ってるかというと、我が部の情報通であるお局様がよくご存知だったから。お局様、本当にうるさいんです。スプリングセンテンスなのかな、上司や同僚なんかの情報を握って金せしめたいのかな、ってくらい。彼女がいるところはいつも戦々恐々としていましたね。私は別にどうでもよかったけど、空気がピリピリし始めるから鬱陶しいなと思っていました。
ある日、お局様が上司の変な情報を持ってきましてね。別にいらないのに。「現場に猫の毛が落ちてたんだって。白と茶色と黒の」なんて言うんです。「へぇ、そうなんですか」って返しました。そしたらね、そのお局様が今度は何度も入院する羽目になっちゃって。帯状疱疹だって。帯状疱疹でそんなに重症になるのかとびっくりしましたよ。退院してきたと思ったら、一ヶ月も経たないうちにまたいなくなる。その繰り返し。
お局様のお見舞いに行った人がね、人の顔色伺ってばかりの仕事もできない太鼓持ち男なんですけどね、「枕元に白と茶色と黒の毛があった。猫の毛かな」なんて言うんです。びっくりしたけど「病院で猫はありえないのでは」と言って終わらせました。ただでさえ仕事遅いんだから、おしゃべりなんてしなきゃいいのに。
するとね、今度はそのシゴオソ太鼓持ち男が入院したんです。食中毒だって。生ユッケで。部内の何人かと行った焼肉屋で一人だけ注文して食べたらしいですわ。しばらくそいつの尻拭いをしなくていいのかと思うとせいせいしたけど、うちの部は呪われてるのかな、と思いました。
そんなことしているうちに親から法事の連絡が来て、実家に戻ったんです。本当に仕方なく、イヤイヤ。で、ブラックフォーマルのスーツをハンガーに掛けてたら、母が言うんですよ。「そういえばあんたの会社、食中毒で入院した人いるでしょ」って。どうやらシゴオソ太鼓持ち男、うちの遠い親戚らしくて。全然知りませんでした。
「焼肉屋のテーブルに白と茶色と黒の毛があったんだって」だって。何で知ってるんだろうって思いますよね? でも「何で知ってるの」なんて言うと「うるさい!」って怒るんですよ。何で私、こんな人の子供なのでしょう。まあ違う遺伝子が入れば私という人間はできていなかったわけですが。本当に恨めしいです。で、とりあえず「へぇ、そうなんだ」と返すわけです。そう言っておけば角が立たない、と思ったら「何で知ってるのか聞かないの?」だって。めんどくさい。本当にめんどくさい。何だコイツ。
そう思ったら、私、キッチンの水切りカゴに立ててあったナイフを、食事用のね、手に持ってました。何だか体が軽く動いて爽快な気分だったんです。何も言わず、母の頬にナイフをぶっ刺しました。けっこう力は
血が出たのは面白かったけど、意外と刺す感触って味わえなかったんです。肉の薄い部分だからかな、歯も邪魔だったしちょっとつまんないなって考えて、今度は首に刺して、皮膚を横に引きちぎってやりました。食事用とはいえ、ナイフってすごいですね。こんなことができるとは思っていませんでした。これはなかなか楽しかったです。ほら、頸動脈ってあるじゃないですか。本当に血が吹き出すんですね。ひゃはは。ぬるぬる感があって、温かくて、意外と匂いはしないんです。ああ、まあ、鉄分の匂いくらいはしますけど。体験してみないとわからないことってありますよね。これ、名前を付けて保存です。上書きなんてしません。永久保存版。
でね、「にゃあ」って聞こえたんです。「にゃあ」って、カインの鳴き声が。姿は見えなかったけど。嘘じゃないですよ。本当です。精神鑑定で有利になるとか考えてませんし。私、自分のこと本当にどうでもいいんです。だって私、あの親の遺伝子が入っちゃってるんですよ? 社会的観点からすると、今すぐ抹殺されてもいいくらいじゃないですか?
えっ、猫のこと? あの時あの子を拾ってよかったと、心の底から思っています。あの子が私の周りの環境を快適にしていてくれたんですよ、きっと。
はぁ? 狂気の沙汰って、何ですかそれ。私は生まれてからずっと正常ですよ。あの親にして、よくここまで正常に育ったと思います。はぁ、鑑定留置の期間、そうですか。いやまあ好きにしていただいて結構です。反抗なんてしませんし。犯罪を行うと書く犯行はしたけど。ひゃはっ。
刑事さんですか? ああ、中年の小太りの? 入院したって、そりゃ刑事さんなんだから一般人より怪我は多いのでは? 怪我した現場に白と茶色と黒の毛が、ですか。いや、知りませんけどね。私は別に恨んでなんかないですよ。取り押さえられた時に頭打って何日か入院ってのはありましたけどね。ひゃはは。何せアンガーマネジメントができていますから。お大事にとお伝えください。
ええ、お大事に、お大事にどうぞ、お大事にしてください、ご自愛くださいませ、と。ええ、ええ。あなたも、お大事に。
猫毛 祐里 @yukie_miumiu
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