第37話 契約満了
こうして橘との縁談は無事終了した。
美桜の父も、橘の父親――やはり予想通り、父親も京極家直属の部下なのだと橘が言っていた――との取引をまとめることが出来て、ほくほく顔だ。
「では、若い二人の方は残念でございましたが、社としては今後とも何卒――」
「ええ、至らぬ
残念だなどと微塵も思っていない二人が、残念そうな表情を浮かべて握手を交わしているのが、なんとも滑稽である。美桜は橘と密かに目配せを交わして、ふっと笑ったのだった。
「じゃあ、深村さんの人事に関しては、社を通して連絡することになると思う。例の協力依頼の件については、その都度の話になるんだけど……ひとまず彼から詳細を聞いてほしい」
「彼?」
「これから、僕の代わりに、深村さんの護衛を務めてもらうことになってるんだ」
「え……誰ですか? それに、橘先輩の代わりにって?」
美桜が尋ね返すと、橘は何も言わず意味深に笑って、後ろを振り返った。
橘が視線で示した先にあるのは、料亭の駐車場。その方向には、黒塗りの立派な車が一台停まっている。
美桜がそちらを見ていると、車はゆっくりと動き出した。
車が去って行った後に残されたのは、一人の男性。見慣れた紺色の着流し姿で、その場に佇んでいる。
先ほどまで穏やかだった美桜の胸が、急速にざわめき始めた。
「レイ……?」
「黎明さんとは、もう話をつけてある。まあ、僕を一撃で昏倒させるぐらいの実力者だからね、何の心配もしてないよ」
「え? え?」
橘はそれだけ言って肩をすくめて、自分の両親の方へと向かっていった。美桜は、訳が分からず、橘とレイを交互に見比べた。
そうしていると、美桜の母親がレイに気づいたらしい。母は美桜の隣に立って、肩に手をのせる。
「あら、レイさんにお迎えに来てもらってたの?」
「え? えっと……」
美桜と母がレイを見つめていると、レイも、こちらに気がついたようで、ふわりと柔らかく微笑む。母はそれを見て、「相変わらず目の保養ねえ、お父さんと違って」などと言っている。
父は、自分の名前が耳に入ったのか、何の話かと訝しみながら、母の横に立った。そうして、美桜たちの視線を辿り、レイに気がついたようだ。
「なんだ、黎明くんが来ているのか。車で送っていってやろうかと思ったのに」
「美桜を橘さんに取られないかと思って、不安だったんでしょうねえ」
美桜の両親はそんな会話をしながら、小さく会釈する。レイもその場を動かず、こちらへ会釈を返した。まだ橘家の面々が近くにいるから、目立たぬように配慮しているのだろう。
両親は、橘家の方へ改めて向き直る。
「では、深村さん。我々はこれで」
「橘さん、本日は誠にありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。では、失礼します」
父親同士、母親同士で挨拶を交わし、美桜も橘に再び向き合う。
「橘先輩、ありがとうございました」
「こちらこそ。これからもよろしく頼むよ」
簡単な挨拶をして、橘は両親と共にタクシー乗り場の方へと去って行った。
「さて、私たちも帰りましょう」
「そうだな。だがその前に……おい、黎明くん」
父はレイの方を向き、手招きをした。レイは小さく頷き、美桜たちの方へやってくる。
「黎明くん、安心したまえ。今日の見合いは破談になった。約束通り、美桜との結婚を認めてやろう」
「まことで御座いますか!」
「えっ、お父さん、本当に!?」
「こんな時に嘘なんてつかんよ」
レイと美桜の言葉が重なり、父は少し渋い顔をした。母は対照的に、嬉しそうな顔で美桜たちの顔を見比べている。
「ありがとう存じます」
「ありがとう、お父さん!」
再びレイと美桜の声がかぶる。父は母と顔を見合わせ、苦笑した。
「敵わんな。また日を改めて、我が家に来なさい。結婚式やら何やら、予定を立てにゃならん」
「ふふ、良かったわね、美桜、レイさん。お幸せにね」
そうして、美桜の両親も、駐車場の方へと向かっていったのだった。
去って行く両親の車を、手を振って見送る。
静かになった料亭の前庭で、隣に佇むレイの横顔をそっと仰いだ。視線に気づいたレイが、藤色の澄んだ瞳を美桜に向ける。
美桜は何も言わず、その手に触れ、指先をきゅっと掴む。レイは少し驚いたようにしつつも、美桜の手を握り返したのだった。
ややあって、ようやく口を開いた美桜の声は、かすかに震えていた。
「レイ……お見合い、破談になったよ」
「……そうか」
「だから……その……」
「ああ。契約満了……ということだな」
美桜は、レイから視線を外し、こくりと頷く。
繋いだ手が、ゆっくりと離れていった。
春にしてはやけに冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
遠くの空に、分厚い雲がかかっている。春の空は気まぐれだ。もうすぐ雨が降るのかもしれない。
「――今まで、ありがとう。無茶を言って、ごめんね」
「いや。これで少しは、恩を返せただろうか」
「うん。とっても……、助かったよ」
「それなら、良かった」
離れた手が再び結ばれることも、外れた視線が再び交わることもなく。
美桜とレイは、タクシー乗り場へ向かって、ゆっくりと歩き始める。
――こうして。
今日、この時をもって、美桜とレイの契約関係は、終了したのだった。
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