第31話 CEO



 その後、蓬を鞄に入れたまま出社した美桜は、緊張しながら自分の部署に向かった。

 しかし、顔を合わせたくないと思っていた人物、たちばなの姿は、珍しく見当たらない。普段なら美桜よりも先に出社して、必ず挨拶してくれるのだが。

 それどころか――。


「おはようございます、佐藤先輩」

「おはよう」


 美桜は首を傾げながら橘のデスク横を通り過ぎ、自分の席に着いて、隣の席の女性社員、佐藤と挨拶を交わす。普段なら世間話もせず、そのまま業務の準備に入るのだが、今日は佐藤の方から美桜に話しかけてきた。


「ねえ、深村さんは知ってた? 橘くんのこと」

「えっ? な、何のことですか?」


 美桜はぎょっとして、佐藤に向き直った。佐藤は美桜の反応が少しばかり大袈裟なことを訝しんだが、構わず続ける。


「見たでしょ、橘くんのデスク」

「はい」


 通りがかりに見えた橘のデスクは、綺麗さっぱり、片付けられていたのだ。ノートパソコンも、資料も、身の回りの物も、何一つなくなっている。


「橘先輩、異動されたんですか?」

「それが、誰に聞いても知らないって言うのよ。引き継ぎとかもなかったし。深村さん、何か知ってる?」

「いえ……」


 美桜は、困惑した。

 美桜が橘について知っていることは、橘の実家と父の会社に何らかのコネクションがあることと、美桜とのお見合い話が持ち上がっていることだけ。この話を他人にするつもりもないし、橘の異動に関係があるのかも不明だ。


「そう……。あーあ、橘くん、私の毎日の癒しだったのにな」


 そういえば佐藤も橘のファンの一人だったな、と美桜は思い返す。彼女はつまらなそうに息を吐き出して、再びパソコンに目を向けたのだった。



 橘の居場所について、美桜が知るところとなったのは、午後になってからだった。


「深村さん。社長がお呼びです」

「えっ? 私ですか?」


 入社二年目、特に問題を抱えているわけでも飛び抜けて優秀なわけでもない美桜が社長に呼ばれるなど、本来有り得ないことだ。

 そもそも、社長と直接話したこともないぐらいである。美桜の存在を把握していること自体が驚きであった。


「すぐに来ていただけますか」

「わ、分かりました」


 美桜は慌てて席を立ち、ジャケットを羽織った。小さくなって物陰から美桜を見守っていた蓬が、するりとジャケットのポケットに忍び込んだが、美桜本人も、周囲の人間も気がつくことはなかった。



 社長室の前に到着すると、美桜をここに連れてきた秘書が扉をノックした。焦茶色のシックな扉が、内側から開かれる。


「お疲れ様、深村さん。中へどうぞ」

「え……? し、失礼いたします」


 扉を開けたのは、なんと、姿を消していた橘だった。美桜は驚いたが、ここは社長室である。色々と質問したいのをぐっとこらえて、室内に足を踏み入れた。


「あなたは外して下さって結構です」

「承知いたしました」


 橘が、秘書に下がるように伝えると、秘書は深く一礼してその場を後にした。橘は扉を閉める。

 美桜は、わけも分からぬまま橘に導かれ、社長の執務机の前に立つ。社長は、外を眺めているかのように、椅子を反転させている。

 窓には完全遮光のカーテンが引かれているので、実際には景色など見えないはずなのだが――考え事でもしているのだろうか。椅子の背もたれが高いために、その姿はこちらからは全く見えない。


 肘掛けにのっている手の甲を見て、美桜は違和感を覚えた。社長はもう六十歳前後だったはずだが、雪のように白いその肌は、若い人のもののように見える。


「若様、お連れしました」

「ああ。ご苦労だったね、橘」


 若様――美桜の目の前にいるのは、やはり、社長ではないのだろう。声も若い男性のものだ。

 美桜がぴしりと姿勢を正したまま固唾を呑んでいると、若様と呼ばれた男は、椅子ごと美桜の方を向いた。


「やあ、君が美桜ちゃん? 初めまして」


 男は、息を呑むほど美しい容姿をしていた。

 後ろで一つに結わえた白銀の髪。ルビーのように鮮やかな紅い瞳。新雪のように真っ白な肌。

 カーテンを閉め切っているし、もしかしたら、彼はアルビノなのかもしれない。


 白を基調とし、銀糸の縫い取りがされている羽織袴も、彼のためだけにあつらえたと思われる上質な品だ。

 本当に人間なのかと見まごうような美貌だ。だがそのせいか、南極から切り出してきた氷の如き冷たさを感じる。美桜はぶるりと身震いをした。


「僕は、京極白蓮びゃくれん。京極グループのCEOをしているんだ」

「京極様でしたか……! お初にお目に掛かります。深村美桜と申します」

「あはは、そんなに固くならないで」


 そうは言っても、京極グループのCEOといえば、美桜からしたら雲の上の存在だ。美桜の勤めるこの会社も、京極グループに属する子会社なのである。つまり、目の前にいる美しい男性は、自分の会社の社長よりもさらに上の立場ということだ。


「橘。と、その後でお茶も頼むよ」

「はっ。ただいま」


 橘は、京極の一声で、社長室の続きにある給湯室へと向かった。橘も緊張しているのだろうか、普段の柔らかな物腰はなりを潜め、笑顔の一つも見せずにきびきびと動いている。


「さあ、君はこっち」


 京極は立ち上がって、美桜を応接用のソファーへと促した。君というのはどういう意味かと美桜は首を傾げたが、ぴょこんとジャケットから飛び出してきたよもぎを見て、慌てることとなった。


「よ、蓬ちゃん! いつの間に! 出てきちゃだめ――」

「あはは、いいよ。可愛いお嬢さんは好きだからね」

「シャーッ」


 京極は笑って許してくれたが、蓬は美桜の横に降り立ち、毛を逆立てて威嚇している。


「心配しなくても何もしないよ、愚かなカワイイ猫又ちゃん。でも、少しお姫様と話があるから、しばらく静かにしててね?」

「信じられるもんか! あんたたちがあたいに――ふみゃっ!?」

「ねえ、お前、馬鹿なの? 黙ってろって言ったんだよ?」


 威圧のこもった冷たい目で見据えられて、蓬は口を閉ざした。それどころか、あやかしであり人より強い力を持つはずの蓬が、がたがたと震えている。

 美桜も、何が起きているのか分からず、顔を青くしてオロオロするしかない。


「やだなあ、怖がらないで。取って食いやしないよ。今日君を呼んだのはね、ちょっとしたお願いがあるからなんだ」

「……お願い、ですか? 私に?」

「そう、君に。僕は君と、君の婚約者に、契約を持ちかけに来たんだ」

「婚約者……?」


 美桜が呟くと、橘が入っていった給湯室の方から、何か重たいものが思い切り壁にぶつかったような、大きな音が聞こえてきた。美桜がそちらを振り向くと――、


「――美桜っ!」

「――えっ、レイ!?」


 慌てた様子でこちらへと駆け寄ってきたレイが、美桜と京極との間に身体を滑り込ませ、美桜をその背に隠したのだった。

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