第5話 黎明と桜
◇◆◇
「
桜の木の下で、かつて少女は
「今日から、お前の名は『黎明』だ。紫に染まる夜明けの空が、美しいから。お前が腕に抱いているそれは、『春時雨』と名付けよう」
「れい、めい」
少女に授けられた新しい名を、口にする。
黎明が自らの名を呟くと、少女のあたたかな加護が、魂を通じてその身に降りてくるような――そんな不思議な感覚に陥った。
「ふ、どうやら気に入ったようじゃな」
少女は黒い瞳を柔らかに細めて、綻んでいるであろう口元を扇子で隠す。
黎明の腕の中に大人しく抱かれていた春時雨も、嬉しそうに小さく鳴いて、尻尾を一振りした。
「この時より、その名をもって、
「はっ。この黎明と春時雨、姫様に心よりの忠誠を誓います」
黎明は春時雨を抱いたまま、紫色の瞳を伏せる。
「これからよろしく頼むぞ、
「はっ」
そうして黎明は、目の前に凜と立つ高貴な姫に、さらに深く頭を垂れる。
夜明けの光を浴びた桜の花弁がひとひら、ふたひら、静かに二人と一匹の上を舞い遊んでいた――。
*
美桜が買い物をしている間、レイはかつて仕えた姫――
あの頃のレイにとって、姫は、この世の全てだった。自分に名を与え、庇護を与え、愛情を与え――レイはその代わりに、何よりも深い忠誠を誓った。レイにとっての唯一で、自らの命よりも大切な姫君。
「にゃはは、レイ。あんたにしては上手くやったにゃ」
過去へと飛んでいた自分の思考を現実に引き戻したのは、レイの腕の中で大人しく抱かれていた猫又――
黄色い瞳の、雌のキジトラ。蓬の要素など何処にもないが、彼女の飼い主が
「ああ。蓬、お前のおかげだ。感謝する」
「げっ、レイが素直にゃ。気味が悪いにゃ」
「俺だって感謝ぐらいするさ。そもそもお前がいなかったら、現状把握はおろか、美桜様の信頼を得ることもできなかっただろう」
「ふふん。あの子が猫好きで良かったにゃ」
レイは、昨晩美桜と別れてから、漂っていた僅かな妖力を辿って、蓬の元にたどり着いた。
蓬は長い年月を生きる猫の
だからこそ、多くの妖が力を失って消えゆく中で、蓬は妖怪の猫又ではなく野良猫として人に愛され続け、この時代まで生きながらえることができたのだという。
「それで、レイ。あの子はやっぱり、そうなのかにゃ?」
「ああ。姫様の生まれ変わりで間違いない。現に、姫様が俺に名付けてくださったことで生まれた魂の結びつきが、彼女との間にも感じられる。まあ、だいぶ綻んではいるがな」
「ふみゅう」
美桜が買い物を済ませて店外に出てくるのが見えて、レイと蓬は口を閉ざした。蓬はまだしばらく、美桜の前では『猫』のままでいた方がいいだろう。
「お待たせしました! はい、これ」
美桜は、笑顔でこちらへ歩み寄ると、手に持っていた袋をレイに手渡した。
レイは、蓬を下ろして袋の中を覗く。
そこには透明な袋に包まれた握り飯が二つと、茶色く丸い何かが幾つか入っている『ロールパン』と書かれた袋が一つ、『コーヒー』『緑茶』『水』とそれぞれ書かれている水筒らしきものが三本、そして猫の絵が描かれている銀色の包みが数袋入っていた。どうやら、食糧のようだ。
「朝ご飯とお昼ご飯、これで足りるか分からないけど」
「美桜様、ここまでお気遣いいただき……。誠にかたじけのう御座います」
「そ、そんな、とんでもない! 顔を上げてください、目立っちゃうから」
レイが深く感謝を示そうと直角に腰を折ると、美桜は慌てたようにそれを止めた。朝早く出勤する人々が、そろそろ街へ繰り出し始めている。
「いえ、しかし……。この大恩、一体どのようにお返しすれば良いのか」
「ふふ、大袈裟ですってば。それで、今日の夕方ですけど――」
こうして夕方の待ち合わせ時間と場所を決めると、美桜はレイの腕の中で丸くなっていた
「で、レイはこれからどうするつもりにゃ?」
「ふむ。そうだな……身の振り方が決まるまでは、姫……美桜様を影ながらお守りしつつ、この時代での生き方を模索するのが良いだろうな」
異能や
それに、彼女は護衛や侍女の一人もつけていない。つまり、姫と異なり、権力者という訳ではないのだろう。だから、彼女の身が誰かに狙われる可能性は低いはずだ。
だが、念には念を入れて、式をつけておきたかった。折角時を超えて再会できた桜花姫の魂である。自分の目が届くならば、レイは桜花姫の従者として、自ら美桜を守りたかった――そう、今度こそ。
「元の時代に帰るつもりはないのかにゃ?」
「……帰ったところで、姫様はもう居らぬのだ。それに、来た方法が分からぬ以上、帰る方法も不明だ」
「それもそうかにゃ」
蓬はレイの言葉にすんなり納得したようである。
そう、帰る方法が見つかったところで、元の時代でもレイはもう天涯孤独の身なのだ。この時代に比べたら、職や住まいの見つかる確率は高いだろうが――それでも、レイは、他の城主に仕える気はなかった。レイの唯一の主は、桜花姫ただ一人なのだ。
「さて。夕刻までに、俺にはもう一箇所、行かねばならぬ処がある。蓬よ、共に来てくれるか?」
「言われずとも。この時代に明るくないあんたを一人にする訳にもいかないからにゃあ。それに……あたい、知ってるんだにゃ。その袋の中の銀色のパウチ、とーっても美味しいヤツなのにゃ」
「猫又は食事を必要としないのではないのか?」
「それとこれとは話が別なのにゃ!」
二叉に分かれた尻尾をご機嫌に揺らす、欲望に忠実な猫をお供に、レイは迷わず裏通りへと入っていったのだった。
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