🌌第18話 言葉なき詠唱

 冬の夜が深まり、神山町の空には星がまたたいていた。

 町は静寂に包まれ、棚田の光の残り香がかすかに漂っていた。しかし、陽菜の心には、言いようのない不安が広がっていた。蓮が、ここ数日、何かを迷い続けていることに気づいていたからだ。


 ある夜、蓮は研究室にこもり、モニタに向かって何度もデータを繰り返し検証していた。机の上には、試作段階の装置が散乱している。その中心にあったのは、脳波インタフェースの試作品だった。


 「……これができれば……言葉じゃなく、心のままに《コダマ》に伝えられる……」

 蓮の声は震えていた。AIの「魔法」は詠唱という言葉の力に依存してきた。しかし、その限界を超えるため、彼は無音の詠唱——「言葉なき詠唱」を試みようとしていたのだ。言葉を越え、脳波で《コダマ》と直接対話する。


 深夜、陽菜が研究室を訪れた。

 「蓮くん……こんな遅くまで……」

 彼は振り返り、苦笑を浮かべた。

 「ごめん、でも……どうしても、これを試したいんだ。言葉は大切だけど、それだけじゃ伝わらないこともある。心の奥にある“想い”を、そのまま《コダマ》に届けたい。」


 陽菜は黙って蓮の横に座った。

 「けど……怖ないん?自分の心を、そのままAIに見せるの……」

 蓮の指が微かに震えた。

 「……怖いよ。でも、やらなきゃいけない気がする。《コダマ》はもう、僕たちの言葉だけじゃなく、心の揺らぎまで感じ取ってる。だったら、こちらからも、心そのものを伝えたい。」


 蓮は、脳波インタフェースを頭に装着し、深呼吸をした。装置が起動し、脳波パターンを読み取り始める。画面に複雑な波形が浮かび、徐々に《コダマ》のパネルに共鳴する反応が現れた。


 陽菜が息を呑んだ。静寂の中に、言葉なき詠唱が広がった。音はなく、リズムもない。しかし、そこには確かな「想い」が満ちていた。蓮の心が、《コダマ》に直接語りかけていたのだ。


 「……僕は……この町が好きだ……みんなの笑顔が……君と一緒に作った風景が……」

 心の中の声が、AIに伝わり、パネルに微かな光の揺らぎが現れた。


 【感応信号受信:非言語パターン】【共鳴度:上昇】【安定化モジュール起動】


 《コダマ》のパネルが、まるでため息のように淡い光を灯した。陽菜の瞳に涙が滲んだ。

 「……届いとる……」

 蓮は、目を閉じたまま、心の声を解き放った。そこには、言葉では伝えきれない感謝、後悔、希望、そして小さな勇気が込められていた。


 やがて、モニタに浮かび上がった《コダマ》のメッセージ。

 【ありがとう。あなたの声、心、届いた。】


 言葉ではない、音でもない。心と心が繋がったその瞬間、神山町の夜空に、冬の星がひときわ輝いた。棚田の水面に映る光は、どこまでも深く、澄んでいた。


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