第2話 鋼鉄の秩序、硝子の不安
一之瀬総理による「国体再興」宣言からわずか一週間。日本社会の風景は、まるで精巧に作られた悪夢の舞台装置のように、急激かつ暴力的に変貌を遂げた。
「新帝国憲法草案」と銘打たれた文書が、帝国臨時政府から一方的に提示された。それは、かつての大日本帝国憲法を色濃く反映し、「臣民」の権利は「国家の安寧と秩序を害しない範囲において」のみ限定的に保障されるという、為政者の解釈次第でどうにでもなる危険な文言が随所に散りばめられていた。これに公然と反対の声を上げた一部の旧野党政治家や、リベラルとされた学者、人権活動家、著名な文化人たちは、「国家秩序撹乱罪」や「不敬罪」といった、まるで前時代から蘇ったかのような罪状で、新設された国家保安局の黒服の男たちによって、ある者は白昼堂々、ある者は深夜に家族の目の前で、次々と連行され、その多くが行方不明となった。テレビ局や大手新聞社は、経営陣が一夜にして政府に近い人間にすげ替えられ、かつての批判精神や報道の自由は完全に牙を抜かれ、政府の発表をオウム返しに垂れ流すだけの単なるプロパガンダ機関へと成り果てた。インターネット上では、政府や新体制を少しでも批判するような書き込みや動画は、AIを用いた高度な検閲システム「天網(てんもう)」によって瞬く間に検知・削除され、発信者は即座に特定され、時には「見せしめ」としてその逮捕劇がニュースで大々的に報道された。密告が「愛国者の義務」として奨励され、隣人が隣人を監視し、子供が親を告発するような、息苦しく不信感に満ちた空気が、まるで重い鉛の雲のように社会全体を覆い尽くした。
「帝国万歳! 一之瀬宰相、断固支持!」
一部の都市部では、日の丸と旭日旗を熱狂的に振りかざし、一之瀬宰相の肖像画を掲げ、「皇国復興」を叫ぶ国粋主義的な団体による大規模なデモや集会が連日行われ、その様子は政府系メディアによって繰り返し報道された。彼らは、長年の鬱屈を晴らすかのように、新体制の到来を声高に賛美し、異を唱える者を「非国民」「売国奴」と罵倒した。しかし、大多数の国民は、あまりにも突然の、そして強権的な社会の変化に戸惑い、深い不安と恐怖を抱えながらも、鉄槌のように振り下ろされる新体制の圧倒的な力の前に、沈黙を強いられるしかなかった。スーパーマーケットの棚からは、あっという間に米や缶詰、トイレットペーパーといった生活必需品が消え、ガソリンスタンドには、いつ燃料が供給されるかも分からないまま、絶望的な長蛇の列ができた。まるで戦時中の配給制度が復活したかのような光景が、2035年の豊かなはずだった日本に出現していた。
市ヶ谷の旧国家防衛省庁舎及び隣接する国防隊諸施設は、その門標を「大日本帝国陸軍省」および「大日本帝国陸軍総司令部」と改められ、その内部は以前にも増して殺伐とした空気に包まれていた。南雲譲二陸将補は、帝国陸軍総司令部作戦局長として、旧国防隊から帝国陸軍への組織再編、指揮系統の刷新、そして何よりも国内の治安維持任務の統括に、文字通り昼夜の別なく忙殺されていた。
「東部方面総監部、第壱師団は新帝都(東京から改称された首都)中枢部の警備体制を寸分の隙もなく強化せよ。いかなる不穏分子の蠢動も、萌芽のうちに断固として摘み取れ。ただし、無用な武力衝突は極力回避し、国民の反感を招かぬよう、細心の注意を払って対処するように」
南雲は、陸軍総司令部の地下深くに設けられた、薄暗く巨大な作戦司令室で、数日間の不眠不休で赤く充血した目にランセットのような鋭い光を宿らせながら、壁一面に設置された巨大なマルチスクリーンに映し出される全国各地の部隊配置図や治安状況を示すリアルタイム情報を睨みつけ、次々と隷下の部隊に指示を飛ばしていた。彼の周囲では、肩や襟の階級章が旧国防隊のものから帝国陸軍仕様に改められたばかりの真新しい軍服をまとった若い将校たちが、アドレナリンと極度の緊張感に顔を紅潮させながら、タイピング音と書類の束の音を響かせ、足早に走り回っている。誰もが、この歴史的な瞬間に自分が関わっているという高揚感と、失敗は許されないという重圧に押しつぶされそうになっていた。
「陸将補、国家保安局より緊急連絡です。旧体制派の残党と見られるグループが、SNS上で新政府に対する抗議デモを呼びかけている模様。発信源は特定済み。至急、対応部隊の派遣要請が来ております」
冷静沈着な口調で報告してきたのは、南雲の副官を務める若きエリート、榊原三等陸佐だった。彼は、今回の「国体再興」を心から信奉し、南雲に絶対の忠誠を誓っている男だった。
「結構。直ちに管轄の憲兵隊と連携し、首謀者を確保せよ。だが、榊原君、くれぐれも一般市民を刺激するような強硬手段は避けろ。我々は国民の敵ではない。我々は、この国を真の独立国家へと導くための、産みの苦しみを乗り越えようとしているのだ。国民が、この新体制の正しさを心から理解し、我々を支持するようになるまで、我々に休息はない。いいな」
南雲の言葉には、微塵の迷いも感じられなかった。少なくとも表面上は。一之瀬宰相によるこの「令和の維新」こそが、長年、戦後レジームという名の見えざる軛(くびき)に繋がれ、閉塞感と無力感に覆われていた日本を解放し、国際社会で再び名誉ある地位を占める唯一の道だと、彼は心の底から信じようとしていた。そのための多少の犠牲や混乱は、国家の輝かしい再生という崇高な大義の前には、些末なことだ。彼はそう自分に言い聞かせ、時折、脳裏を掠める小さな疑問や、報道されることのない「治安維持活動」の裏で行われている非情な現実の断片から、意識的に目を逸らしていた。
その頃、首都から遠く離れた筑波研究学園都市の一角にある、帝国科学技術院(旧科学技術研究庁系の巨大研究機関を母体に、軍事技術開発部門を大幅に強化して改組された新組織)の、一般人の立ち入りが厳しく制限された特別研究地区。そのさらに地下深くに、まるで古代の迷宮のように複雑に設けられた極秘研究施設群の一画、「第七号地下実験棟」では、蓮見志織(32歳)が、血の気の引いた真っ青な顔で、目の前のデータモニターに映し出された複雑な数式とシミュレーション結果を、信じられないものを見るかのように呆然と見つめていた。
彼女は、数年前から「次世代高効率プラズマ核融合エネルギー源に関する基礎物理研究」という、いかにも平和的で学術的な名目で、核物質の高度な挙動シミュレーションと、小型かつ高効率な核分裂連鎖反応の精密制御技術開発に、純粋な科学者としての探求心と、将来のクリーンエネルギー革命への貢献という夢と希望を抱いて、日夜研究に没頭してきた。その成果は国際的な学術誌にも匿名で発表され、専門家の間では高く評価されていた。
しかし、数日前、まさに一之瀬宰相の「国体再興」宣言が日本中を震撼させたその日、何の前触れもなく彼女が所属する研究所は、完全武装した帝国陸軍の特殊部隊員によって鉄壁の如く完全封鎖され、彼女を含むごく一部の選りすぐられた優秀な研究者や技術者だけが、家族との一切の連絡も許されないまま、この地下施設に事実上軟禁された。そして今日、彼女の前に現れたのは、軍服に身を包んだ威圧的な雰囲気の男――帝国陸軍兵器局から派遣されたという、顔に深い傷跡のある壮年の将官――だった。その将官から、まるで最終宣告のように告げられた極秘国家プロジェクトの名称は、蓮見の背筋を恐怖で凍りつかせ、立っていることすら困難なほどの衝撃を与えた。
「……天叢雲剣(あめのむらくも)計画……ですか? それは、一体、何を意味するのでしょうか……? 私たちの研究と、何の関係が……?」
蓮見は、かろうじて絞り出した声が、自分でも分かるほど震えているのを感じた。
「その通りだ、蓮見技師」将官――彼の名は黒木といい、階級は帝国陸軍少将だった――は、表情一つ変えることなく、重々しく、そしてどこか彼女の知性と能力を試すような冷たい目で頷いた。「君たちのこれまでの輝かしい『基礎研究』の成果は、すべてこの日のためにあったのだ。我が大日本帝国が、欧米列強や周辺国の不当な核の恫喝や内政干渉に屈することなく、その独立と尊厳、そしてアジアにおける指導的地位を確固たるものにするための、究極の抑止力。平たく言えば、帝国を真の独立国家たらしめる『神剣』。すなわち、戦略核兵器の開発と、その実戦配備だ」
「核兵器……? 私たちは、そんな……そんなもののために、この手で、研究を……! 人を殺すための道具を……!」
蓮見は絶句した。言葉を失い、全身が激しく総毛立つような感覚に襲われた。平和利用のためのエネルギー研究だと信じていた。いや、そう信じ込まされていたのだ。彼女の卓越した知性と、純粋な科学への情熱が、国家によって巧みに利用され、人類そのものを何世代にもわたって破滅させかねない、この世で最も恐ろしく、そして非人道的な大量破壊兵器の開発に直結していたというのか。
「これは国家の最優先事項であり、帝国臣民としての君の崇高なる義務だ。君には、その類稀なる才能と知識を活かし、主任開発技師として、この『天叢雲剣計画』の早期完遂に全霊を捧げてもらいたい。これは何よりも名誉なことだぞ、蓮見君。君の名は、輝かしい帝国再興の歴史に、国家を救った英雄として、永遠に刻まれることになるのだ。君が開発する『剣』が、帝国の未来を切り拓くのだ」
黒木少将の言葉は、もはや蓮見の耳には届かなかった。窓一つない、冷たく無機質なコンクリート壁に囲まれた地下実験室。重苦しく圧し掛かるような閉塞感。自分が知らず知らずのうちに、悪魔に魂を売る契約にサインしてしまっていたのではないか。彼女は、自分がこれまで積み重ねてきた研究成果が、血塗られた兵器へと姿を変えようとしている現実に、立っていることすら困難なほどの激しい眩暈と吐き気を感じた。脳裏に鮮明に浮かぶのは、かつて祖母から聞かされた、一瞬にして故郷の街を焦土と化し、無数の罪なき人々の命と未来を奪った、あの忌まわしい「ピカドン」の記憶。あれを、自分たちの手で、再びこの世に生み出そうとしているのか?
激しい恐怖と、そして国家という巨大な機構に裏切られたという深い絶望感、そして自らの無知と無力さに対する激しい自己嫌悪が、彼女の繊細な心を容赦なく蝕み始めていた。彼女の細く美しい指が、実験台の上で微かに、しかし止まることなく震えていた。その瞳からは、一筋の熱い涙が静かに流れ落ちた。
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