暁の帝国:2035 帝国の黎明と太平洋の雷鳴
@tachibanadaiji
第1話 令和の終焉、皇国の暁
けたたましい不協和音の連続が、南雲譲二の浅い眠りを無慈悲に引き裂いた。枕元の官給スマートフォンが狂ったように振動し、画面には「国家非常事態宣言」の赤黒い文字が明滅している。同時に、彼が住む市ヶ谷の国家防衛省職員官舎の窓の外からも、遠く、しかし確実に広範囲からサイレンの音が、まるで地獄の底から湧き上がるように不気味に響き渡ってきた。それは、新しい時代の不吉な産声のようでもあり、あるいは日本という国家の弔鐘のようでもあった。
「何事だ……これはただ事ではないぞ」
国防隊陸上司令部所属、42歳の陸将補である南雲は、鍛え上げられたしなやかな肉体を瞬時にベッドから起こした。軍人としての長年の経験と直感が、これが単なる大規模災害やテロの警報ではないと鋭く告げている。テレビのスイッチをひねると、全てのチャンネルが同じ映像にジャックされていた。画面には「緊急国家放送」という血のような深紅のテロップと共に、荘重だがどこか冷徹さを感じさせる青灰色の背景の前に立つ、一人の男の姿が映し出されていた。
内閣総理大臣、一之瀬新。
その表情は、まるで能面のように感情を排しつつも、鋼のような意志を秘め、その切れ長の瞳の奥には、常人ならざる決意と、見る者を射竦め、あるいは心酔させるような異様なまでの強い光が宿っていた。
『親愛なる日本国民諸君。我が国は本日、国家存立の未曾有の岐路に鑑み、ここに歴史的決断を下した』
一之瀬の声は、かつて彼が野党党首として国会で政府を激しく糾弾していた頃のような激情はなく、むしろ不気味なほど冷静沈着で、それでいてマグマのような熱量を内包し、厳かに、そして揺るぎない力強さをもって全国民の鼓膜を震わせた。
『これより、我が国は現行の国家体制を抜本的に変革し、真の自主独立と国民の安寧、そしてアジアにおける栄光ある指導的地位を回復するため、「大日本帝国」としての国体再興を、ここに宣言する!』
「なっ……!帝国……だと?」
南雲は息を飲んだ。全身の血が沸騰するような興奮と、同時に背筋を氷柱でなでられたような戦慄が、彼を同時に襲った。帝国? 今、この男は、この総理は、一体何と言ったのだ? まるで悪夢を見ているかのようだ。しかし、テレビ画面の中の一之瀬の存在感は、あまりにも圧倒的で、現実のものとして南雲に迫ってきた。
『現行の日本国憲法はその効力を一時停止し、近く、我が国の伝統と国柄に根差した真の憲法、すなわち大日本帝国憲法を基礎としつつ、現代社会の要請に応えるべく修正を加えた新帝国憲法を制定し、国民の総意を問う。国会は即時解散。当面の間、国家の全権能は、私、一之瀬新を首席とする臨時政府が掌握し、強力な指導体制の下、国家運営を断行する! 全ての国防隊将兵は、ただちに帝国軍人としての自覚と誇りを持ち、皇国と国民の生命財産を断固として守り抜くことを、ここに厳命する!』
街のサイレンは、まるで終末を告げるラッパのように、ますます激しく鳴り響き、その音に混じって、複数の大型ヘリコプターのローター音が、まるで巨大な鉄の猛禽の羽ばたきのように、東京の空を威圧的に切り裂き始めた。南雲のスマートフォンには、国防隊陸上参謀総長直属の秘書官から、緊急登庁命令を示す暗号化された通知が、既に点滅していた。
「帝国……再興だと? 一之瀬総理、貴方は本気なのか……いや、あの男ならば、やりかねん。そして、我々国防隊も、もはや後戻りはできんのだ」
南雲は唇をきつく噛み締めた。一之瀬新。数年前、政界に彗星の如く現れ、その卓越した弁舌と大衆を惹きつけるカリスマ性、そして時に「極右」とも「国粋主義者」とも揶揄された強硬な国家観と外交政策を掲げ、既存政党の脆弱さや国民の間に鬱積した閉塞感を巧みに利用し、圧倒的な支持を得て総理大臣の座に就いた男。その瞳の奥に、時折、常人を超越した野心と、底知れぬ狂気にも似た異様な輝きが宿るのを、南雲は幾度となく感じ取っていた。そして、その輝きに抗いがたい魅力を感じていた自分も、確かにいた。
だが、まさかここまで大胆不敵な行動に出るとは。これは、もはや革命、あるいは国家簒奪と言っても過言ではない。
彼は素早く、肩に金色の桜星の階級章が輝く、濃緑色の国防隊陸上部隊の制服に身を包みながら、窓の外に目をやった。夜明け前の薄闇の中、大都会東京は、不気味な静寂と、それを無慈悲に切り裂くサイレンの轟音に包まれていた。それはまるで、巨大な火山が噴火する直前の、息詰まるような静けさそのものだった。
これは、国家による壮大なクーデターなのか? それとも、新たな日本の夜明けなのか?
南雲の胸には、拭い去れない巨大な不安と同時に、奇妙な、それでいて抗いがたい高揚感が、まるで麻薬のようにじわじわと湧き上がってくるのを抑えることができなかった。長年、戦後体制の欺瞞と、国際社会における日本の不当な地位に内心で憤りを抱いてきた彼にとって、一之瀬の宣言は、禁断の果実のようであり、同時に待ち望んだ天啓のようでもあった。彼は、この歴史的な転換点に、軍人として、そして一人の日本人として、自らが主体的に関与できるという事実に、身震いするような興奮を覚えていた。
同時刻。都心から少し離れた、古びた木造アパートの二階の一室で、フリーランスの国際ジャーナリスト、天城航太郎(35歳)もまた、耳をつんざくような警報音と、隣室の老婆が上げる甲高い悲鳴にも似た嗚咽で、悪夢の淵から叩き起こされていた。
「……大日本帝国……? おいおい、冗談だろ。何のドッキリだ? 一之瀬の奴、ついに狂ったか?」
ベッドから転げ落ちるようにして、埃をかぶった古いブラウン管テレビのスイッチを叩き、一之瀬の演説が映し出された画面を、信じられないものを見る目で食い入るように見つめた。その端正だが、どこか世を拗ねたような皮肉っぽい表情を浮かべることが多い天城の顔が、みるみるうちに血の気を失い、険しいものへと変わっていった。
「本気だ……この男、目が、目が据わってる。これはパフォーマンスじゃない、ガチだぞ」
天城は長年、国内外の腐敗した権力構造や、政府が隠蔽しようとする不都合な真実、戦争犯罪の残滓などを、ペン一本とカメラ一つで執拗に追いかけてきた。その豊富な経験と、危険を嗅ぎ分ける野生の勘が、一之瀬の言葉の裏にある尋常ならざる事態の発生と、それが日本と世界にもたらすであろう破滅的な未来を、瞬時に警鐘として鳴らしていた。
スマートフォンを手に取り、旧知の仲である大手新聞社の政治部デスクや、霞が関のいくつかの省庁に勤める情報提供者に片っ端から電話をかけるが、繋がらないか、繋がっても「今は何も話せない」「頼む、こっちの身にもなってくれ。お前も気をつけろ」と、明らかに怯えきった声で一方的に通話を切られるばかりだった。
「情報統制が、もう始まってるってことか……? 手際が良すぎる。周到に準備されてたんだ、このクーデターは」
天城は窓を力任せに開け放った。凍えるような1月の冷気が、乱雑な部屋に鋭く流れ込んでくる。遠くから、そして近くから、サイレンの音が、まるで空襲警報のように不吉に、そして執拗に響き渡り、彼の不安を掻き立てた。
「ペンタゴン・ペーパーズならぬ、ヤマト・プロトコルでも暴き出すか……いや、笑ってる場合じゃないな、マジで」
彼は自嘲気味に呟きながらも、その目は既に次の獲物を狙う肉食獣のように鋭く光っていた。愛用のニコンのデジタル一眼レフカメラ、複数の大容量メモリーカード、指向性の高い小型マイクが仕込まれたボールペン型ボイスレコーダー、大容量モバイルバッテリー、そして数冊の偽造パスポートと数種類の外貨を、手早く年季の入ったバックパックに詰め込み始めた。この国の大きな転換点、いや、奈落への第一歩が記される瞬間を、ジャーナリストとして見過ごすわけにはいかない。この狂った事態の真相を暴き出し、世界に伝えなければならない。そのためなら、どんな危険も厭わない。彼のジャーナリストとしての魂が、危険を察知して激しく燃え上がるのを感じながらも、これから始まるであろう時代の暗黒と、そこで失われるであろう無数のものを思い、背筋を冷たいものが走るのを感じていた。何かが、決定的に終わってしまった。そして、何かが、取り返しのつかない形で始まろうとしていた。彼は、深呼吸一つすると、アパートの古びた階段を駆け下り、まだ薄暗い街へと飛び出していった。
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