別れの手紙とシュレディンガーの猫

神楽堂

別れの手紙とシュレディンガーの猫

 落ち葉の舞う十一月の午後、湯川ゆかわは文学部の建物の前で晶子あきこを待っていた。

 時折吹く風が冷たく頬を撫で、彼は紺色のマフラーに顔を埋めた。


 晶子は約束の時間より七分遅れてやってきた。

 冬の陽射しが彼女の輪郭を淡く照らし、少し蒼白い顔が見えた。


「待った?」


「いや、今来たところ」


 それは湯川の優しさから生まれた嘘だった。実際は、一時間以上待っていた。

 二人は無言で歩き始める。

 付き合い始めた頃は話題に事欠かなかった二人だが、今日はただ沈黙が続いていた。

 やがて、二人は大学の裏手にある小さな公園のベンチに腰を下ろす。

 晶子はバッグから薄い封筒を取り出した。

 湯川の名前が丁寧な文字で書かれている。

 震える手で封筒を差し出す晶子。


「これ、読んでほしいの」


 湯川はその封筒の中身について、ある程度の想像がついていた。

 最近の二人の関係は冷え切っていた。

 おそらくは、別れを告げる手紙なのであろう。

 封筒を受け取った湯川は言った。


「これはシュレディンガーの猫だね」


 その言葉に晶子は困惑の表情を浮かべるも、湯川はその反応を意に介さず、淡々と話を続ける。


「この封筒の中身を確認するまでは、僕たちの交際が続くのか、それとも別れるのか、両方の可能性が同時に存在している。量子論的には、二つの状態が重ね合わさっている」


 晶子は呆れた。


「また始まった。あなたはいつもそうなのよね。なんでもかんでも物理学にしてしまう」


 湯川は、晶子の愚痴めいた言葉を聞き流して封筒を手のひらに載せる。そして、その封筒を微かに揺らしながらこう言った。


「開けば波動関数は収束する。でも、開かなければ...」


「開いても開かなくても、百パーセントの確率で私たちは終わりよ」


 晶子は冷たく言い放った。


「だって、私が書いた手紙だもの。中身は開けなくてもすでに決まっている」


「そうかな」


 湯川は微笑む。別れ話を突きつけられているというのに、彼の態度には、どこか余裕があった。


「量子論の世界では確率は絶対ではないんだ」


 晶子はため息をついた。

 最後の最後までこんなことを言うんだ……

 なぜ、こんな男と付き合っていたのだろう……

 これまでの湯川との思い出が走馬灯のように流れ出す。

 出会いは文学部と理学部との合コンだった。

 湯川は星の話をしていた。

 彼の瞳に映る宇宙への情熱に、晶子は心惹かれた。

 そして、湯川との交際が始まった。

 始めの頃は博学な湯川を尊敬していた。

 しかし、彼の話は理解できないものばかりだった。

 相対性理論、超弦理論。それらは晶子の関心からかけ離れたものであった。


「封筒、開けないの?」


 晶子は促す。

 口で言っても言い返されると思った晶子は、別れる意思を手紙に託したのだった。

 湯川が封筒を開ければ、湯川と別れることができる。

 わけのわからない理論を聞かされる日々とも、これでお別れとなる。


 湯川は何も言わず、手に持った封筒をただひたすらに見つめていた。



 別れを目前にして、晶子の心の中では湯川との思い出が次々に蘇っていた。

 湯川の発言は、量子論に結びつけたものが多かった。

 雨でデートができなくなった時、晶子の部屋で彼女が書いた詩集を読んだ湯川は、こんな感想を述べたのだった。


「一つの言葉が観測されるたびにその意味が無限の可能性として広がり同時に収縮する様はまさに波動関数のようだ。読者としての観測行為が新たな解釈を生み出すかのような広がりのある表現、複数の意味を掛け合わせているところは量子の重ね合わせの状態を彷彿とさせ、どの解釈も真実でありどの解釈も未確定であるかのようだ。感情の干渉や想念のスーパーポジションが絡み合い、読むたびに異なる観測結果が得られる詩だ」


「……なにそれ? 褒めてるの?」


 物理学も、ここまでいくともはや文学なのでは? 詩を読んでこんな感想をよこすのは世界広しと言えども湯川だけだろう。晶子はそう思った。

 他には、どんな思い出があっただろうか。晶子は思い返していた。


 試験勉強やレポート作りを手伝ってくれたこと。

 創作がうまくいかなくて自信をなくしていたとき、今は可能性の重ね合わせの中にいるのだから決めつけてはいけないよと言ってくれたこと。

 意外にも料理が上手で、おいしい手料理をふるまってくれたこと。

 自分の誕生日に、湯川がプラネタリウムを部屋に作ってくれたこと。

 人通りの多い場所でさりげなく手を引いて人の波から守ってくれたこと。

 風邪をひいて寝込んだ時、遠い彼の家から自転車で駆けつけてくれたこと……

 晶子は、いつの間にか自分が涙をこぼしていたことに気がついた。


 湯川が封筒を開こうとしたその瞬間、晶子は叫んだ。


「待って!」


 晶子は、湯川の手から封筒を奪い取る。

 湯川は驚いた表情で晶子を見つめた。

 そして、なぜ封筒を奪い取ったのか、彼女の涙を見て察した。

 湯川は優しく笑みを浮かべ、こう言った。


「量子論は正しかった。封筒を開くまでは、別れないという可能性も同時に重ね合わさっていた。これを示すことができた」


 晶子は悔しそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと封筒を破いていく。

 封筒と中の手紙は共に無数の欠片となり、風に舞う。

 そして、空の高みへと散っていった。

 晶子は涙を拭き、微笑みながらこう言った。


「シュレディンガーの猫って観測するまでは収束しない、っていう意味だっけ? 私の手紙、破いちゃったから、もう観測できないね」


 湯川は、晶子の言葉を聞くと静かに手を伸ばした。

 晶子の冷たい指が、彼の温かい手のひらに包まれる。


「僕たちの関係は、古典物理学では説明できないのかもしれない」


 晶子は苦笑いを浮かべる。


「またそうやって────」


 しかし、今の晶子に苛立ちはなかった。むしろ、懐かしささえ感じていた。


「ねえ、私のこと、どう思っているの?」


「僕は晶子と出会えて心の波動関数は観測可能な状態へと収束したんだ。まるで重ね合わせ状態にあった僕の感情が君という観測者によって固有状態に固定されたかのように。僕の心のハミルトニアンにおける基底状態は、君との相互作用によって安定化しエネルギー固有値は最小化された。君がいることで僕の存在確率密度は高まった。もし晶子が遠ざかるのであればトンネル効果による微かな希望を保つことはできたとしても相互作用ポテンシャルは減衰してしまうだろう。この愛のヒルベルト空間において僕のエネルギー期待値は君と共有され無限次元に広がっていく。君という固有ベクトルと共に僕は永久にエンタングルメントされた存在でありたい」


「もう、何言ってんのかわかんない。もっとわかりやすく言って!」


「────キミのことが好きだ」


「うふ。ありがと」


 夕暮れの公園に二人の長い影は一つに収束していた。

 静かに寄り添いながら、二人の歩みは未来へと続いていくのであった。



証明終Q.E.D.

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