第一章:記憶の裂け目
鏡花市行きの電車の窓から見える風景が、少しずつ都会の喧騒から離れていく。僕、継名緋真(つぐな ひさな)は、スマートフォンに映る自分の顔を無意識に見つめていた。画面を消すと、そこに映る自分も闇に消える。ふと安心感を覚えた。
母が亡くなってから四週間と三日。父が失踪してからは三年と七ヶ月。家族の崩壊は、こんなにも静かに、そして容赦なく訪れるものなのか。
隣には母方の伯父、継名恒介(つぐな こうすけ)が無言で座っている。六日前、母の納骨を終えた帰り道、彼は突然僕に鏡花市へ来ないかと持ちかけた。
「高校は転校手続きをした。お前の荷物も手配済みだ」
あまりに唐突な提案だったが、空っぽになったアパートに一人で戻る気力もなく、僕は黙って頷いた。思えば、選択肢など初めからなかったのだろう。
「お前にとって、ここが一番安全だ」
電車が山間の小さなトンネルを抜けた時、伯父が静かに言った。安全?何から?誰から?疑問を口にしかけたが、伯父の硬い横顔を見て言葉を飲み込んだ。
鏡花市は周囲を山々に囲まれた盆地に位置する小都市だった。「鏡の里」と呼ばれたこの地は、戦国時代から続く鏡師の集落が起源だという。駅前には巨大な円形モニュメントがあり、その表面は鏡のように磨き上げられていた。
「見るな」
モニュメントに近づこうとした僕の肩を、伯父が強く掴んだ。彼の声には、これまで聞いたことのない緊張感があった。
伯父の家は、旧市街地に佇む古い木造二階建て。祖父の代から続く継名家の本宅だという。玄関をくぐると、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐった。杉の木の香り、古い畳の匂い、そして微かに感じる線香の残り香。
「二階の奥の部屋がお前の部屋だ。荷物は既に運んである」
伯父は僕を二階へ案内した。廊下の壁には、額に入った古い家族写真が並んでいる。しかしよく見ると、写真に写る人々の顔の部分だけが、すべて切り取られていた。
僕の部屋は意外に広く、必要な家具は一通り揃っていた。窓からは鏡花市の中心に聳える神社の森が見える。しかし、部屋には鏡が一つもなかった。洗面台の上の壁にも、クローゼットの扉にも、本来鏡があるべき場所に何もない。
「鏡は危険だからな、この家では使わん」
伯父は説明するように言って、古い和紙で覆われた屏風を部屋の隅に立て掛けた。
「着替えはこの屏風の陰でするといい。必要なものがあれば言え」
そう言い残し、伯父は静かに部屋を出て行った。
夕食後、伯父は書斎に閉じこもり、出てこなかった。一人部屋に戻った僕は、持ってきた母の形見の和鏡を取り出した。あの不思議な体験の後、鏡は普通のただの鏡に戻っていたが、念のため布で包み、誰にも見られないようにしていた。
今、その鏡を恐る恐る取り出し、月明かりの下で覗き込む。自分の顔が映り、それだけだった。あの夜の出来事は、やはり悲しみによる幻覚だったのだろうか。
翌朝、鏡花学園の制服に袖を通す。黒のブレザーに紺のネクタイ、胸元には水晶のような校章が輝いている。
学校は予想以上に大きく、歴史を感じさせる石造りの校舎が印象的だった。正門をくぐると、中庭には噴水があり、その周りには異様なほど多くの生徒が集まっていた。
「あれは『鏡の泉』。ここで自分の顔を映して一つ願い事をすると叶うって言われてるの」
声をかけてきたのは、同じクラスになるという案内役の女子生徒だった。
僕のクラスは2年C組。教室に足を踏み入れると、会話が一瞬止み、好奇の目が一斉に向けられる。転校生あるあるだ。席に着くと、担任の鏡田先生(冗談みたいな名前だ)が僕を紹介した。
「今日から継名緋真くんが転校してきました。継名家は鏡花市の名家ですから、皆さん仲良くしてください」
自己紹介を終え、席に戻る途中、教室の後ろに立つ一人の女生徒と目が合った。彼女は他の生徒が着ている黒い制服ではなく、濃紺のブレザーを着ていた。生徒会の制服だ。
彼女の瞳が僕を捉えた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。まるで幽霊でも見たような表情で、彼女は呟いた。
「あなたが戻ってきたの?」
その言葉に、教室全体が静まり返った。
「白河会長、何か?」担任が尋ねる。
「いえ、何でもありません」彼女は表情を取り戻し、微笑んだ。「生徒会からの歓迎の挨拶をしようと思って。継名くん、放課後、生徒会室に来てくれるかしら?」
白河梨緒(しらかわ りお)。生徒会長であり、鏡花学園の実質的なリーダーだという。彼女の言葉に従うように、周囲の視線が一斉に僕から離れた。それはまるで、彼女が許可を出したかのようだった。
午後の授業中、窓際の席に座っていた僕は、校庭で一人佇む銀髪の少女に気づいた。制服は鏡花学園のものだが、銀色に輝く長い髪と、この距離からでも分かる赤い瞳。彼女は上を見上げ、僕と目が合った。距離があるにも関わらず、彼女の唇が動くのがはっきりと見えた。
「緋真、覚えてる?」
全身に電流が走ったような感覚。その瞬間、頭に激痛が走り、僕は小さく呻いた。
「継名くん、大丈夫?」隣の席の男子が声をかけてくる。
「ああ、ちょっと頭痛が...」
再び窓の外を見ると、銀髪の少女の姿はもうなかった。
放課後、僕は生徒会室へと向かった。昼休みに数人のクラスメイトから聞いた話では、白河梨緒は成績優秀で礼儀正しく、教師からの信頼も厚い模範生だという。しかし一方で、彼女の周囲には不思議な噂が絶えないらしい。
「白河さんは鏡花神社の宮司の娘なんだ。神聖な血筋ってやつさ」
「彼女が見る夢は現実になるって噂もある」
「誰も入れない学校の一室で、彼女は何かの儀式をしてるって話も...」
どれも根拠のない噂だろうと思いつつ、生徒会室のドアをノックする。
「どうぞ」
中に入ると、白河梨緒は一人、窓際に佇んでいた。夕日に照らされた彼女の横顔は、まるで絵画のように美しい。
「来てくれたのね、継名くん」
彼女は僕を見て微笑んだが、その目は笑っていなかった。そこには警戒と不安が混在していた。
「あなたは本当に継名緋真なの?」
唐突な質問に戸惑う。「もちろん、そうだけど」
「記憶喪失ではないのね?七年前のことを、すべて覚えているの?」
七年前?僕は十歳の時だ。確かに曖昧な記憶はあるが、特に大きな出来事があったわけでは...
「私はあなたを知っているわ。七年前、あなたはこの町を訪れた。そして...消えた」
彼女の言葉が現実味を帯びて僕を包み込む前に、ドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、午後に校庭で見かけた銀髪の少女だった。紅い瞳が室内の薄暗さの中で、宝石のように輝いている。
「邪魔するつもりはなかったわ」彼女の声は透き通るように澄んでいた。「でも時間がないの。あなたの『影』がもうすぐ目覚めるわ、緋真」
梨緒の表情が強張る。「カノン、あなた本当に...」
銀髪の少女——カノンと呼ばれた彼女は静かに頷いた。
「私は鏡原カノン(かがみはら かのん)。転校生...ということになっているわ」彼女は僕に向かって一歩踏み出した。「でも本当は、あなたを導くために来たの」
カノンの言葉が、すべての始まりだった。そして僕はまだ知らなかった。この瞬間から、僕の人生も、この世界の姿も、取り返しのつかない変化を遂げることになるとは。
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