『鏡閾の記憶儀《ミレアス》』
継野 ノバ
プロローグ:鏡の囁き
誰にも言えなかった秘密がある。
小学校三年生の担任は「緋真くんは想像力が豊かね」と笑った。中学の校医は「思春期特有の不安定さよ」と診断した。父は心配そうな顔で「そのうち治る」と繰り返し、母だけは黙って僕の手を握りしめた。
でも、僕は知っている。これは単なる思い込みではないことを。
僕、継名 緋真(つぐな ひさな)は幼い頃から、鏡に映る自分が本当に「自分」なのか確信が持てなかった。それは五歳の誕生日、母方の祖母から贈られた古い姿見の前に立った時に始まった。
鏡に映る「僕」は、僕と同じ動きをしていた。同じ赤い誕生日の帽子をかぶり、同じようにほっぺたを膨らませ、同じように笑った。でも、その笑顔の奥に潜むものが、違っていた。鏡の中の「僕」の瞳は、僕のものよりも深く、何かを知っているように見えた。
その夜、初めて鏡の向こうの「僕」が話しかけてきた。
「緋真、約束は覚えてる?」
翌朝、僕は高熱を出して三日間寝込んだ。熱にうなされる中、繰り返し見た夢は鏡の向こうに広がる銀色の海。そこで誰かが僕の名前を呼んでいた。
中学生になる頃には、僕は鏡に対する恐怖と共存する術を身につけていた。朝の身支度は素早く済ませ、目を合わせないように意識する。公共トイレの洗面所では、手を洗うだけで顔を上げない。友達の家に遊びに行っても、化粧台や玄関の鏡には決して近づかない。
それでも、夜、誰もいない部屋で目を覚ますと、鏡の中の「僕」が少しだけ遅れて瞬きをする。ある時は僕が動いていないのに、鏡の「僕」だけが唇を動かした。まるで何かを伝えようとするかのように。
「見なければ良い」「気にしなければ良い」「気のせいだ」—そう自分に言い聞かせてきた17年間。
心療内科で処方された薬を飲みながら、僕は普通の高校生を演じた。サッカー部に所属し、成績は中の上、特別目立つこともなく、かといって孤立することもない。ただ、親しい友人がいないことを除けば、完璧な「普通」を維持できていた。
そんな偽りの平穏が崩れたのは、母の急死がきっかけだった。
五月の雨が窓を叩く夕暮れ、病院からの電話で僕は膝から崩れ落ちた。「急性の心不全」と医師は言ったが、なぜ健康だった母がそんな症状を起こしたのか、納得のいく説明はなかった。
葬儀の間、僕はただ呆然と座っていた。父は二年前に失踪し、親戚も疎遠だったため、突然一人きりになった現実が飲み込めなかった。
喪が明けてから始めた遺品整理。母の部屋には不思議なほど鏡が少なかった。化粧台はあるものの、ドレッサーの鏡は布で覆われ、壁にも姿見も一切なかった。その代わり、押し入れの奥から出てきたのは古びた桐箱。その中に、赤い組紐で結わえられた布包みがあった。
布を解くと、そこには漆黒の縁取りを持つ古い和鏡が姿を現した。円形の鏡は手のひらよりやや大きく、背面には幾何学的な線が彫り込まれていた。薄れた銘には「継名家」の文字。
指先でその冷たい表面に触れた瞬間、僕の頭に幼い日の記憶が走った。五歳の誕生日、この鏡を前に母が囁いた言葉。
「これはね、緋真。あなたを守るものなの。でも同時に、あなたを導くものでもあるの」
鏡を覗き込むと、そこには疲れた表情の自分が映っていた。一瞬、その瞳が赤く輝いたような気がしたが、それは部屋の照明が反射しただけだろう。
和鏡を持ち上げて、窓際の光に照らしてみた。その時だった。鏡面が水のように揺らぎ、液体になったかのように波打ち始めたのは。
「そんな…」
驚いて手を離そうとしたが、指が鏡面に吸い付いたように離れない。そして恐ろしいことに、鏡の表面から白い手が現れ、僕の手首を掴んだのだ。冷たくはあるが確かに人間の手。少しずつ、その腕が鏡から這い出してくる。
「や、やめろ!」
抵抗しても無駄だった。鏡の中からの力は驚くほど強く、僕はゆっくりと鏡に引き寄せられていく。鏡は拡大し、僕の視界を埋め尽くしていった。
耳元で、懐かしく、けれど聞いたことのない声が囁く。
「やっと見つけた、緋真。約束の時が来たよ」
最後に見たのは、鏡の中から僕を引き込む「僕自身」の顔だった。だが、その表情は僕のものではなかった。そこには、静かな悲しみと、限りない安堵が混ざり合っていた。
意識が闇に飲み込まれる前、僕は確信した。これはずっと待っていた瞬間なのだと。そして、忘れていた約束が何なのか、すぐに思い出すだろうということを。
鏡の向こう側に消えていく僕の体は、光に溶けるように消えていった。部屋には、落ちた和鏡だけが残された。その表面には、もう何も映っていなかった。
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