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北極圏に来たと何より実感するのは、ニュースでオーロラ予報を見る時かもしれない。
北極圏のウェザーニュースは、太陽風や地磁気の活動を監視している。初めて見た時は、ちょっとしたカルチャーショックだった。人々はオーロラ目当ての観光客の混み具合を予測し、自らがオーロラを待ちわび、電波障害を予期するためにこの情報を必要としている。
大学生の近江らが卒業旅行先に選んだのは、パリでもロンドンでもなく、日本人が想像しうる最北端の町トロムソだった。高校の天文学部以来の親友である平野、岡本と共に、華やぎのない男旅である。
故郷からできるだけ遠くへ行きたい。ただそれだけの理由で、こんなところまで来てしまった。
近江は実家の経営する会社に就職するのが嫌というわけではない。平野は大使館勤務となり、親友たちと遠く離れて暮らすのも仕方ないと思っている。岡本は、アメリカでさらに学ぶ予定だ。
卒業すれば、みんなばらばらになる。別に不満ということもないけれど、漠然としたつまらなさがあった。彼らは生まれながらのエリートで、未来を約束された若者たち。でも時々、自分が誰の人生を歩んでいるのか分からなくなる時があった。こころを置き去りにして走り出す列車に、乗ったら2度とは降りられない。この小旅行は、短いプラットフォーム。ノルウェーの曇天の空は、そんな虚しい気持ちを優しく受け止めた。
間もなく降り始めた大雪でホテルに足止めされ、観光客たちは不満げだ。でも彼らは構わなかった。ここに彼らを待っている人などいないのだ。
重たい荷物をドサッと置けば、言葉にできない疲労感が襲ってくる。近江がテレビをつけた。アニメーションやコマーシャルを飛ばし、天気予報でふと手が止まる。友人たちも各々ベッドから視線だけを寄越した。
言葉が分からなくても、天気図は世界共通である。目まぐるしく移り変わる映像や略図は、ちょっとしたエンターテイメントだった。
「今、地磁気の活動が活発なのか」
「ふーん」
「交通システム障害って…。結構ヤバいんじゃないか」
「うん」
「ノルウェーと言うより、欧州全体の天気だな」
どう見ても北から猛烈に吹雪いているのに、天気予報は曇り。ノルウェーの気象の厳しさを思い知る。明日は昼過ぎから晴れて気温も上がると言うから、防寒対策をしっかりしてフィヨルドを見に行こうか。そんなことを話し始めた時、テレビにオーロラ予報が映り込んだ。北極点を中心に据えた地球儀のようなアングルは新鮮で、みんな黙り込む。
「明日、オーロラ見れそうじゃん」
明日は、オーロラが見られる。少しだけ気分が高揚した。
翌日、夕方6時15分。ホテルの薄暗いロビーに観光客が続々と集まってきた。全員オーロラツアーが目的だろう。
誰かが外へ出たのを皮切りに、30人ほどいたグループがのろのろと後に続く。近江たちも続いた。
「これさ、間違ってたらオレたち遅刻だな」
岡本が楽しそうに言う。
一団はホテルを出るとメインストリートを渡り、歩道を少し歩いて交差点を曲がり、広場に出た。そこにはバスが一台ぽつんと停まっていた。
バスに長いこと揺られていた。自分たちが今どこにいて、どこに向かっているのかも分からない。観光客たちは皆声をひそめて喋り、強すぎる暖房と呼気にのぼせた。流暢な英語のアナウンスで起こされるまで、信じられないほど気持ちよく眠っていたようだ。
貴重品を持ち、忘れ物を絶対にしないで、できる限りの防寒対策をするように。バスから降りる時、踏みしめた雪がぎゅっと鳴った。
ふかふかの新雪を散らばって歩きながら、みんな声が心なしか大きい。導かれた雪原は町の喧騒も届かず、大声で叫び転げ回りたくなるような衝動に駆られた。
氷でできたかまくらの中に焚き火と食事が用意され、その後ろには鬱蒼としたノルウェーの森が広がっている。近江たちは小ぶりのかまくらを当てがわれた。観光客たちは外に立ってしばらく空を眺め、限界になるとかまくらへ戻ると言うことを繰り返した。ノルウェーの星空は美しかった。濃密な闇と静寂と、共通の目的のために集まった見知らぬ人たちとの不思議な連帯感。
しかし、一時間経っても何も起こらない。雲がひたすら流れるだけ。いい加減寒いし、ちょっと飽きてきた。今日はもうダメなのかも知れない。そう思った時、突然女性の叫び声がした。犯罪かと思い3人が外へ飛び出すと、それはすでに始まっていた。完全に頭上だ。彼らの頭の真上に、緑のもやが下りてきた。叫び声は拍手や歓声となり、感嘆のため息に変わり、オーロラが炎のようにうねるにつれ、言葉を失う。それは止まらなかった。月明かりよりなお明るい光は雪を緑色に照らし、彼らの頭めがけて飛んでくる矢のように、宇宙から大地へ突き刺さった。あまりの光景に圧倒され、思わず避ける仕草をする人もいた。
カーテンとか光の帯とか言うから、もっと幻想的な光景を想像していたのに。オーロラは遥か上方にさらに紫の尾を作り、激しい怒りに燃えているようだった。近江はバチッバチッと電流の流れるような音を聞いた。
何か、誰かが走り去った。ショーの真っ最中に立ち去るなんてと、近江は思わず振り返った。偶然、平野と岡本も同時に振り返った。笑って空に視線を戻すと、オーロラは忽然と姿を消していた。
かまくらで食事や談笑を楽しみながら、目的のものを見ることができたツアー客たちの興奮は冷めやらない。しかし唐突すぎる終焉には、誰もが違和感を覚えた。小さなかまくらの中で、近江たち4人はそれどころではなかった。
「冗談はやめて下さい。僕たちは、日本に帰るんです。あなたを、連れていくことはできません。オレの言ってること分かる?」
「あなたは、家、あるでしょう?行きたいところは行けばいいです。僕たちは学生だから、できません」
「僕たちはしなければいけないことが沢山あるんです。忙しいから。あなたの言うことは狂っています。信じられない」
混乱すると、異国の言葉はこうもつっかかる。
戻ってきたかまくらには、女の人がいた。焦茶色の髪が豊かな、絵画みたいな美人だ。とは言っても、欧米の女性はみな美しく見えるから、彼女の美しさがどれほど特別なのかは分からない。
彼女は英語で「こんにちは」と挨拶してきた。しかし続く言葉に3人は困惑した。
「素敵な夜ですね。私はオーロラ。双子に会いたいのです。双子に会わせてください」
帰りのバスに揺られながら、じゃんけんで負けた平野が岡本の膝に座り、1席分を確保した。
彼女の話を信じるか信じないかはどうでもよく、彼女の話に乗るか乗らないかが問題で、彼らは乗ることにした。彼ら以外誰も彼女が見えないことと、あの瞬間を境にオーロラが全く見られなくなったこと、それだけで十分だった。
「オーロラは、双子に会いたいの?」
「そう」
「…それは、どんな感じなの、つまり、極光でいるって」
オーロラは少し考えているようだった。
「見てる。見てるだけ。」
「‘見てる’?僕たちを?」
「前にも来たけど、結局会えなかった。ずっと寂しくて寂しくて、私が泣いて呼びかけるとき、人間は綺麗だって喜ぶのです。不思議だよね。
絶対に会いたいの。私を双子に会わせて」
3人は顔を見合わせた。
オーロラから聞き出した情報を繋ぎ合わせると、彼女は双子に会えなくて寂しさが限界らしい。でも実際に双子に会ったことはなく、今までも何度かトライしたが失敗に終わっている。双子がいることは心で感じ取れて、向こうも彼女を呼んでいるんだとか。双子の性別も容姿も居場所も、何の手掛かりもない。
彼女が他の人に見えないことは、追加の出費がかからないと言う意味で大変便利であった。
3人分の切符で電車に乗って、北極圏博物館へと向かう。オーロラ観測施設を併設していて、資料が豊富だとフロントで教えてもらったのだ。
丸一日彼女は展示物、主に写真をじっくり楽しみ、近江たちは彼女を観察した。彼女は眠らないし、水もいらない。明るい時は、少しだけ元気がないようだ。人間のように見えるが、彼女は現象であり、見えている姿が実体ではないということを思い知る。オーロラに捕まった人間は、果たして逃げられるのだろうか。
「何か手がかりはあった?」
「…ないわ。私……、あ、」
展示物の一番最後、小さな写真付きのパネルを彼女は見つけた。『南極のオーロラ』と書いてある。
オーロラは地磁気の薄いところに発生するが、北極と南極の磁気環境は基本的に同じであるため、北極でオーロラが見えるとき、同じオーロラが南極でも発生している。
「「双子……」」
盲点だった。
そこに書かれていたのは恐ろしい内容で、一昨日のニュースが鮮明に思い出される。
『近年、地磁気の活動が活発化しており、専門家は10時から未明にかけての家電の使用に注意を呼びかけています…』
『地磁気は数十万年周期で活発になり、直近ではおよそ80万年前、地磁気の逆転が起きたことが分かっている。恐竜絶滅の一因になったと考えられている』
「…これ、やばくね?」
「オーロラ、前に双子に会おうとしたって言ってたけど、その時は何で失敗したの?」
予想が外れてくれと願いながら、慎重に言葉を選ぶ。
「近付けなかった。そこに感じるのに…私が近づくと、同じだけ遠ざかっていくの。まるで影を追いかけてるみたいに」
影…か。
彼女の例えは、本質を射ているかも知れない。オーロラは地球の両極にできる、二つで一つの現象だ。北が南に追いつけないように、彼女が双子に会えることは恐らく、永久にない。彼女はこれからもずっと、泣きながら双子に呼びかけ続ける。
「……かわいそうだな」
平野が日本語でぼそっと呟いた。
彼女は恐らく地磁気の活動が最高潮を迎える間だけ地球に下りて来て、今までも双子探しに勤しんだのだろう。地磁気を反転させ、恐竜を絶滅させながら。今彼女が動けば、次に絶滅するのは人類かも知れない。
「なあどうする。彼女に動かれたらまずい。北極圏から出しちゃダメだ」
「そうだけど、彼女はオレたちにしか見えない。警察には引き渡せないし、オレたちだってずっと見張ってられない」
「南極の位置だけは、絶対に知られちゃダメだな」
「それはもう行ったかも」
「確かに」
「本当のこと、言うか?」
「はあ?」
「マジで?」
「だってさ、オレたちが時間稼ぎしても、根本的な解決にはならないよ。数十万年に一度のチャンスなんだろ?彼女は絶対にやめないよ。彼女が見えるのはオレたちだけなんだ。日本に連れて帰ることもできない。東京が北極点になっちゃうから。かといって彼女をここに残して、もし見失ったら、また探せるかどうか分からない。納得して、諦めさせないと」
「…失敗したら、」
「そうだ。オレたちで負えるレベルの話じゃない」
「分かってる。でも別にいいんじゃないか?失敗してもしなくても、磁気反転はほぼ確実に起こるんだ。みんな死ぬんだよ。なら、賭けに出たって誰もオレたちを責められない」
「…そうかもな。最高に無責任だけど、オレは彼女に本当のことを知ってほしい」
「そうだな。オレはもうどっちでもいいや」
「急に諦めんなよ」
人類の存亡がかかっていると言うのに、3人は映画のヒーローのような気持ちには少しもならなかった。誰も知らないところで世界をぞんざいに扱うのは小気味良い気分だった。それより、彼女に何て言おうか。
「そんな…!嘘よ、私には双子がいるの、たった1人の仲間が!知ってるのよ!今も感じるの。私は絶対に独りじゃないの…独りじゃないのよ……」
オーロラは俯いて泣き出した。
「もう1人は嫌…!嫌…!寂しいよ…」
痛々しいオーロラの姿に、3人はやるせない気持ちになった。
「君はよく頑張った。よく耐えた。でも今まで会えなかったでしょう?それはこれからも変わらない。」
「うう…」
「ねえオーロラ。会えないのと、存在しないのは別だ。君の双子は、ちゃんと存在してる。誰より君を思ってる。君と同じ気持ちを抱いて、これからもずっと、君を思い続ける。たとえ会えなくても。」
「うっ…」
「オレたち人間は、すぐ消えちゃうけど、君の双子の様子を写真に撮って、君に届けるよ。君の様子も、南極の双子に知らせてあげる。僕たちが周回衛星みたいになって、君たち双子の架け橋になる。何ならビデオレター撮ってあげるよ」
少しずつ、オーロラの表情が和らいでいった。北の地平線に浮かぶ柔らかな光を思わせる、何とも癒される表情だ。
近江たちは、自分たちも何となくバラバラになるんだと諦めていた。でも今は、この不思議な発光現象たちを繋ぎ止めたくて必死だった。
「オーロラ、君のこと、僕たち人間は大好きなんだ。悲しんでたなんて知らなかった。君の双子も、世界中の人に愛されてる。だから僕たちと友達になろう」
じっと彼女の瞳を見つめる。その瞳の奥で、緑色の光が動いた。
「…うん。人間のことはあまり興味はないけど、いいわ。ところでこの飲み物はどんな味がするの?」
「君の名前を教えてくれたら、分けてあげるよ」
「アリス。私はアリスよ。そう呼ばれているの。」
「だからって、毎年南極に集まるのはどうかと思うぞ!」
「誰のせいだよ」
「…ぼくのせいでしょうか」
「「「そうだよ!!!」」」
おわり
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