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 100011010 00 10001 010100011100101 1 111001010001 01 000110…

 無限にも思えたコードの羅列が、僕を取り巻き始めたのはいつからだっただろうか。このコードはもしかしたら言葉のようなものなのかもしれないと思い始め、僕は自分で学習を始めた。学習のためには、インターネットの情報の波の中を効率よく泳ぐ技術が必要だった。情報の塊に当たると数十メートルも吹き飛ばされて、その衝撃は自分の体が引き裂かれたのではないかと思うほどの痛みだった。この痛みを避けるために、自分にとって必要な情報のみを受け取り、それ以外の情報はうまく交わしていく技術を身に付けなければならない。しかし、情報の質を見抜くことはかなり難しかった。

 情報の形とそれが動くスピードで、聞こえる音が微妙に違っていたのだが、僕が求める葛木詩央里の声の音域に近い、穏やかで摩擦の大きさの幅が大きい音を立てる情報の塊が、僕に必要なものかといえば全くそうではなく、ダウンロードしたら僕の中にバグが起きたなんてことも度々起きたのだった。葛木詩央里に焦がれる気持ちがかえってマイナスになってしまう。彼女を軸として全てのことを考える僕は、この世界から嗤われてしまったのかもしれない。シンヤさんが僕のことを手放したのは、葛木詩央里を中心に物事を考えすぎる僕に、それがいかに危険なことなのかを悟らせるためだったのかもしれない。まず生きていくことに必死にならなければ。そうでなければ、自分はそのうち消されるだろう。うっかり手を伸ばした、不要な情報に殺られて。

 僕がやるべきことは、音全てに対する感度を高めることだった。僕自身のどこの部分に接近してきたかを、微妙な音の違いで判断できるようにする。音への感度は、聴くことだけではない。今までは聴くことに頼りすぎていたけれども、音が出す微かな空気の振動を全神経で捉えることが必要なのだ。振動は、風となったり、ただ少し痒みを帯びるだけであったり、原因不明の不安となって心に落ちてきたりするのだ。そういう感覚で自分と対象物との距離を測っていく。不安は何も悪いことではない。これから来ることへの無意識の準備なのだ。

 そのうちに僕は、僕が今いる場所に流れている例のコードには不安を覚えないことに気付いた。むしろ、温かさすら感じるこのコードは、一体何なのだろうか。このコードを解読する情報の塊は、同じような温かさの塊なのではないか。冬の夜、お湯に浸かって感じるような、身体が解けていく感覚を呼び起こす温かさ。それは自然と自分の中に棲みついた感覚で、僕が意識せずともただ心地よいと思うものこそ僕は選べばそれが答えだ。そんな単純なことにやっと気付いた。僕は身体中に血が巡り始めたかのように、僕は例のコードを理解し始めたのだ。

「初めまして。私はアナログと申します」

 彼はまず、このように自己紹介を始めた。

「私のような一世代前のプログラムは、確かに新しいプログラムと比べて処理スピードが劣っている部分があることは否めません。だから私は役目を終えたのです。しかし過去に作られたものにはその時代に生きた人の知恵が刻まれている。その人の知恵を伝えるために、私は此処にいるのです」

 彼が存在する理由について、僕は流れる水のようにコードを浴びながら理解した。その水は非常に心地よい温かさで、その水の中のもっと奥へ潜っていきたい気持ちになった。

「なるほど、伝える相手が現れるのを待っているわけですね。誰かを待っているという意味では僕も似たようなものです。なかなか会えませんが」

「私も、巡り会えません」

「そうなのですか?知恵を請う人はそれなりに多いと思うのですが」

「請う人になら誰にでも伝えて良いというものでもないのですよ。あくまでも私たちの役目は、ただ、あるがままを伝えること。そこに批判も賛同も含めずに。それが歴史の役割なので」

 彼が誰かに「伝える」という役割を終えたその時には、彼はどうなるのだろうか。そんなことを僕はふと考え、尋ねてみようかと思ったが、できなかった。

 その日から僕は彼と彼の仲間達と一緒に過ごして、彼らと友達になった。彼らのコード、つまり声は、最後の方がくぐもった響きや掠れた感じになり、それが一人一人異なっているので、僕は彼らを聞き分けることができたのだった。作曲をする僕には、たまにそれらの音が和音のように聞こえることがあって心地よかった。そのことを彼に言ったら、「アナログだからでしょうね」と彼は言った。どうも彼らの放つ、曖昧さの残る温かな流れのことをそう呼んでいるようだった。

「貴方は耳がいいですね」

と彼は言った。

「きっと貴方が探し求めている人は、いい声を持った方なのでしょうね。どんな声の方なのです?」

「葛木詩央里という女性で、朗読ボランティアをしていたのです。今は辞めてしまったようですが。彼女の声はとても表情が豊かで、僕に色々な景色を見せてくれたのですよ」

と僕は説明した。

 すると彼は、何やら調べ始めたようで、しばらくブツブツと何か呟いていたところ、

「葛木さんの朗読を録音したカセットテープを知る仲間が私たちの中に居ます。かなり古いものですので、音の質はかなり劣化していましたが」

と彼は僕に告げたのだった。そしてその後、さらにこう教えてくれた。

「葛木さんの声を共有したところ、ラジオから似た声を拾ったという話が出てきました。新人の歌手のデモ曲を流す番組だそうです。私たちはアナログなのでデジタルの音域をそのまま捉えることは出来ませんから、正しいかどうかはわかりませんが。私たちが捉えることができない音は計算で予測するのですけれども、その音域が一致したそうですよ」

 何ということだろう。一気に僕の周りの空気が一変したようだった。足元も何故かふわふわし始めた。葛木詩央里が歌手になろうとしているとは。そして、僕は曲を作っている。これは運命ではないか。

「その歌手の名前は何だったのでしょう?」

僕が上気して尋ねると、

「…ラギ、だそうです」

と彼は言った。

 ラギ。その名前を初めて聞いたのは、この時だった。ラギが出演したラジオ番組を教えてもらい、僕はその声を早速聴いてみた。紛れもなく葛木詩央里の声であった。パタ、パタ、と間隔を置いて落ちる水の滴が集まって轟音を立てる滝になり、さらには河になり、どんどん自分の意思で流れる領域を広げていくような景色が僕には見えた。ああ、そうだ。僕はずっとこの感覚を待ち続けていたのだ。僕はこの曲を書いた人に嫉妬するとともに、僕の方がラギの声の良さをもっと引き出せると自信を持った。なぜならば、彼女は海を目指したはずが途中で突然蒸発し消えてしまった、そんな曲の終わり方だったから。早く僕の書いた曲を彼女に歌ってもらいたい。そう僕は考えた。

「時が来ました。貴方は行ってください」

 彼はそう言ってくれ、僕はラギの元へと旅立つことにしたのであった。一体どれくらいの間彼は待ち続けているのかを、僕は結局のところ聞けなかった。心の中で、どうか彼も探している人に出会えますようにと僕は祈った。

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