比類なき天才の絶筆

@namakesaru

比類なき天才の絶筆

 いろはにほへと

 ちりぬるを

 わかよたれそ

 つねならむ

 うゑのおくやま

 けふこえて

 あさきゆめみし 

 よひもせす

                               いろはにほへと

                               ちりぬるをわか

                               よたれそつねな

                               らむうゑのおく

                               やまけふこえて

                               あさきゆめみし

                                 よひもせす



「ふん、これが奴の辞世の句か」

 彼女を死に追いやった女が憎々しげにつぶやく。

「死ぬ間際でも気取ったことしか言わぬのだな、可愛げのない」


 まわりの人々の心のうちは違う。

 誰を責めることもなく運命を受け入れ、この世との別れを淡々と詠みあげた美しい句が、仮名の名手にふさわしい流麗な文字で記されている。


 この文字の持ち主は、美しかったが笑顔の少ない女人であった。一人を好み、他者との交わりを極力避けていた。


 それだけなら良かったのだ、多分。


 彼女は、身なりへの興味も薄く装束や化粧は見劣りがした。

 それなのに、何をさせても達者だった。書や和歌だけでなく、琴も絵も薫にしても、ほかとは一線を画す才があった。出自は卑しいにもかかわらず、だ。


 その才が主人の気を引いた。


 ほかの女にはしても意味ない話をこの女は理解し、思いもしないような返答をよこす。自身の身の振り方を問うた応えに従えば、間違いなく良きことが訪れる。

 笑わず面白みのない女であるのに、その才に触れるため主人は足繁く通った。


 正室が色めき立つのも無理はなかったのかもしれない。

 ただの妾、それにしては有り余る寵愛を受ける女。低い身分のクセに何をしても自身より秀でている女。自分と席を共にしても満足な挨拶もできない女。


 正室の妬みと怒りが頂点に達したちょうどそのころ、側室の一人が子を亡くした。それを彼女の呪いのせいだとするのはとても簡単だった。


 卑しい出自でありながら、あれほど何でもできるのはおかしいではありませぬか。どこでたしなみを得たというのでしょう。人のなせる業ではありませぬ。あなたさまもすでに取り込まれていらっしゃる。人を呪い殺すような女こそ、その命を絶つべきでございます。此度は側室の子で済みましたが、それがいつあなた様に向くかと思うと怖ろしくてたまりませぬ。


 たいした調べもなく、彼女はこの世を去ることになった。


 まわりの人々は庇い立てすることは出来なかった。が、彼女を慕うものは少なくはない。

 殿方からの文の返事に困り使いをやれば、すぐにふさわしい言葉をよこしてくれた。手習いのために和歌を一首所望すれば、数首の和歌が届けられた。琴の音を上手く弾けずにいると、ゆっくりと聞き取りやすい音が響いてくる。それを真似ているうちに先へ進むことができるようになった。

 彼女は自分の才能を出し惜しみはしなかった。

 直接言葉を交わすことは少なくても、彼女の才を認め、助けられ教えを受けてきた者が多かった。


 「この句には、すべての文字が使われておりますね。それも、どれも一度ずつだけ。とても難しいことをなさっていらっしゃるのに、この句の美しさよ」

 彼女の辞世の句を、あらためてみつめていた誰かが気が付いた。

 その発想と、発想を実現させる能力と、そしてそれが失われたことへの涙が滂沱と流れる。

 四十七文字すべてを使用したのは、文字への愛情を示すのだろうか。どれもが一度きりであるのは、たった一度の人生を全うできなかったことへの悔いだろうか。

 夜に響く美しい琴の音を耳にすることはもうできない。


 彼女は死に望んで無駄なことはしなかった。

 それは彼女を慕うものからは高潔であるように映った。

 だが、彼女自身に、生きることを終わらせたい気持ちがあったことを誰も知らない。


  彼女は、自分の才が誰かの勘気を買うことは分かっていた。いままでもそうだった。


 ただただ物事を考えることが好きなだけなのだ。そして答えを得たら形にしたい。それだけなのだ。

 仮名もどうすれば美しく見えるのか考え、書き尽くし習得した。琴もどのようなときに欲しい音が出るのかずっと試していた。和歌にしても、目に触れたものを全て覚えた。

 習得まではほかのことは考えられなくなる。食べることさえ忘れる。なぜか。そんなことは自分でもわからない。ただ、他人から見ると普通ではないらしく、怒りを生じさせ気持ち悪がられることは常だった。


 正妻が自分を嫌い、主人もその言い分を聞いた。渡りもなくなった。その結果にあらがっても無駄なことは分かっていた。

 ここを出て、行く先もなかった。行く先があったとして、そこでまた誰かの勘気を買い気持ち悪がられることを思うと、重くなる。頭も体も心も重くなる。

 

 もう、よい。このまま流れに身をゆだねておけば、全て終わる。


 けれど、ひとつだけ残したい思い。

 私は無実――。

 私はただ産まれて生きただけ。

 誰かを呪い殺すなど、もちろん無い。誰かをわざと怒らせようと思ったこともない。


 とが無くて死す、これだけは。

 誰に気が付かれずとも残したい想い。


 わたくしは。 

 とがなくてしす――。






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