第6話 「兄ちゃん!助けて!!」

 その夜、俺たちは罠にかかった謎な生き物を捌いて火をおこし、その肉を焼いて二人で分け合って食べた。以前焼肉屋で食べていたものとくらべると遥かに味は落ちたが、食えないことはなかった。


 そして深夜、俺は一人用の簡易テントの中で腹痛と吐き気に苦しんでいた。あの八本足の生物はマニュアルによれば食えるはずだったが、俺のデリケートな胃には不向きだったのかもしれない。我慢できず用を足しに外に出る。


 夜空には地球から見る月の数十倍はありそうな巨大衛星がうっすらと青い光を放っていて、夜とはいえ、全く視界が閉ざされるわけではなかった。うっそうと茂る木々の陰で用を足していると、突然恐ろしい声が遠くから響いてきた。重低音の咆哮は小型生物のものとは思えなかったし、なんだか怒っているように聞こえた。俺がそいつのテリトリーを穢したから?


 夜は一人で出歩かない方がいい、と玉さんも言っていたのに。俺は初心者コースをなめていた。頼むからこっちに来ないでくれ。

 玉さんのテントからここまではかなり距離がある。万が一にせよ排泄の音や匂いで玉さんの眠りを妨げたくなかったのだ。だがせめて、声が届く距離ですませるべきだった。後悔先に立たず。俺は肌身離さず持ち歩いている、だが今のところ草木の伐採にしか使っていない斧をしっかりと握り直し、獣との距離を少しでも開けようとテントに向かって走り出す。


 だがそいつはかなりのスピードで確実に俺との距離を縮めてきた。踏まれた枝がそいつの重さでメキメキと音をたて、茂みを揺らす巨大な影が見え隠れする。せめて吹き矢を用意しておくべきだった。なんのための特訓か。少なくとも接近戦しかできない斧よりは俺の身を守ってくれたかもしれないのに。


 気配がどんどん近づいてくる。

 必死で走りながら振り返ると、そいつは俺を威嚇するように二本足で立ち上がった。体長2メートルは軽く超えている。横幅も体の厚みもすごい。そしていつも対戦しているモンスターたちと違って、荒い息づかいといい、邪魔な枝葉を払いのけようと木々の間から太い腕を伸ばす姿といい、桁外れの生々しさだ。


 サイズはヒグマ。けれど顔は猿に近いかも。全く可愛くないし檻にも入っていないそいつは、巨木に阻まれてうまく俺に近づくことができず、苛立ったように吼える。

 クマよけスプレーが欲しい。初心者コースなのにこんなモノが登場していいのか? 一応こいつは狩りの対象なんだろうか。今まで俺たちが捕らえてきた獲物はデカくても体長50㎝ほどの草食獣だ。


 俺は逃走を諦め、そいつに向かって斧を構えた。闇に溶ける漆黒の毛並みのそいつを恐る恐る見上げる。殺気に満ちた二つの目に俺は射殺されそうだ。二本の脚で立っていたそいつは、突如上半身を倒し、四つ足をフルに使って俺めがけて猛ダッシュしてきた。ドドドと地面が揺れている気がする。間合いが狭まる。もうダメだ。

「兄ちゃん!助けて!!」

 俺は絶叫した。


 くそっ、間違えた。ここで兄を呼んでどうする。まあ玉さんを呼んで声が届いたとしても、ここまで駆けつける前に俺の命は尽きているはず。たとえポイントで復活できるのだとしても、怪物に生きながら食われる最期は絶対にイヤだった。

 何処を狙えば相手にダメージを与えられるのか。俺はそいつの顔面めがけて斧を振り降ろした。

「ガゲェエエエッ」

 熊猿が吼える。振り降ろすタイミングが早すぎたため斧は熊猿の顔をかすめただけだった。怒った獣が再び二本足で立ち上がり、俺に掴みかかろうと両手を広げた。


 その時だった。小さな影が獣の背後から跳ぶように近づいてくる。木々を巧みに避けながら、数歩ですぐ傍までたどり着いたその影は飛び上がると獣の背中にしがみ付いた。小柄な人の姿に見える影は、細っこい二本の腕を猛獣の太い首に回し、細い両足で黒い毛に覆われた胴体を挟むと、ぐっと後ろに仰け反った。

(子供? まさかな)


 俺は自分の目を疑う。だが獣は首を締められて激しくもがきながら、背後の人間を振り払おうと暴れる。振り回されてもその影は手と足を獣に絡ませたまま絶対に放さなかった。

 やがてゴギッと硬いものが潰れるような音がした。獣の頭があり得ない方向に捩れ、小さな影は獣の背中から身軽に飛び降りた。俺の足元スレスレに息絶えた巨大な獣がどさりと倒れ込んでくる。そしてその向こうに、熊猿を倒したとは信じられないほっそりとした少女?が立っていた。


「ウソでしょ」

 俺は小さくつぶやく。

「大丈夫ですか?」

 その少女が尋ねた。いや。それは俺が尋ねたい。

「おかげさまで」

 俺は全くの無傷だが、動悸が全然おさまらない。怖かった。死ぬかと思った。けれどこの人が助けてくれたんだよな。

「本当にありがとう」


 少女が近づいてきた。身長は160㎝ほど。青い月の光の中に浮かび上がったのはまっすぐな黒髪の東洋人の、やはりどう見ても女の子だ。声も可愛らしい。

「これ、どうしますか?」 

 少女が俺に尋ねた。モンスターなら倒されると消滅するはず。死体が残っているという事はやはりこれは狩りの獲物になるらしい。けれど食いたくない。だってこいつ何喰ってるかしれたもんじゃないし。木の実や果物なら可愛げもあるが。

「君が倒したんだから、持って帰るんならどうぞ」

 少女が首を傾げた。

「この生き物は何なのですか?」

「知らない。今日初めて見た」

 その時、少女の来た方角からガサガサと音が近づいてきて、思わずギクリとする俺だったが、彼女は安心させるように言った。

「危険はありません。私の連れの者です」

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