21g
Fuu
第1話
ビーカーに黒いインクが注がれている。
字を書くための役割を果たせない文字たちのうめき声が聞こえる気がする。
文字は意味を伝えるはずのもの。
その役割を果たせなかった文字たちの恨みはこうして、初めから液体として還元されている。
彼らが文字になれた可能性は初めから液体として還元されている。
インクの水面に蓮が咲いていた。
蓮はかつて生まれることの出来なかった文字たちと約束を交わしており、いやに真白い花弁を光らせていた。
約束はこうだ。
「僕たちが文字になることができないのなら、せめてあなたの白い色を引き立たせる黒になりたい」。
蓮の花弁はインクの黒い水滴を涙のように弾き流した。
蓮はもはやインクであった。
文字になることができない蓮であった。
蓮は側に居る人間とも約束を交わした。
「どうか私を真っ黒な蓮にしてください」
人間は約束を果たさなかった。
そしてインクを吸い続けた蓮は黒い蓮となり、その身に意味を宿し、ようやくその魂を救われたのであった。
蓮は哲学をする。
黒い蓮は文字によって賜った理性の力により、
四六時中哲学をしていた。
自身のことに始まり、世界のこと、宇宙のこと、存在のこと、生命のこと--無数に考えていた。
外に咲く蓮とこのビーカーに座す蓮の違いは色だけではない。
当然ながらこの黒い蓮は既に死んでいる。
花脈に行き渡ったインクが蓮の魂であった。
インク、即ち文字たちとは理性である。
理性とは一般に正気の世界を表象する。
時に狂気の世界も。
理性は魂の代替たりうるだろうか。
この蓮に宿りしものは魂なのであろうか。
「ああ、確かに魂だ」と私は肯定する。
なるほど理性だけとなると魂とは言い難い。
しかしそれは理性の及びが不十分な場合で、この蓮のように全身が理性となっている場合は十分に魂となるだろう。
魂とは曖昧な概念だ。
外側から観測する時、あなたが他者を観察する時、そこに魂が確実に存在すると言うことはなかなか難しい。
確実に存在すると断言できない魂は理性の代替たりうる。
理性とは、言ってしまえば、ある種の空虚さすらも時折内包してしまう。
その空虚さは魂の重みである。
21グラム、だったろうか。
言葉にまみれた虚しさの中で蓮はそれが自分自身であると確信しているのだ。
それは紛うことなき救いである。
己が己に回帰すること、それは紛うことなき救いである。
魂は、質量としては軽い。
言葉が、文字が救いとなり、その空虚さこそは魂の軽さ。
しかし人類の書き記した言葉の総数は、文字の総体は、今では天文学的な数字となったろう。
我々の魂は軽いかもしれぬが、在るということはかなりの重量に満ちているのだ。
黒い蓮は気付いているのだろうか。
21g Fuu @violet_apple_machine
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