むすんでひらいて、私たちの結び切り
くさもちぃ/37370
一、糸玉
いつも通りの、なんでもない一日。ただ、それだけが幸せだった。
「
キッチンの方から私を呼ぶ声が聞こえる。それと同時に独特なスパイスの香りが私の鼻孔を刺激する。市販のキューブでは出せない嗅覚を支配する香ばしさ。おそらく手作りカレーだろう。聴覚と嗅覚は食事を求めている。まだ未使用の味覚すらもよだれの分泌を始めている。
しかし、視覚はまだ食事を許してくれないらしい。眼球を目の前のスクリーンから動かすことができない。身体もスクリーンを正面に動く気配はない。聴覚、嗅覚、味覚の誘惑をすべて振り払い、私は五感を全て視覚に集中させて、スクリーンを見る。そして、モンスターの動きに合わせて、コントローラーを動かす。
「もうちょっと待って~」
身体は動かせないので、大きな声でスクリーンに声を反射させてキッチンへ伝達する。
「もう少しで倒せる……落ち着け……冷静に……」
まだ倒したことのないモンスターがもう少しで倒せる。2週間ずっと熱中していたがここまで調子がいいのは初めてだ。早くクリアして"最強ハンター"の称号を──
「も う 20 分 以 上 待 っ て る ん だ け ど ?」
画面を遮るようにエプロン姿の
視覚に全集中していた五感が散り散りになる。それと同時に敗北を知らせる重苦しい効果音が聞こえてきた。
「あ~! もうちょっとでクリアだったのに!」
「もうちょっとって20分待たされてるこっちの身にもなって! せっかくカレー作ったのに冷めちゃうよ」
そんなに経ったかな、と時計を見ると、時計の短い針が9に迫っていた。和華がご飯を作り始めたのは7時だから、確かにすごく時間が経っていた。待たせてしまったのは申し訳ないと思う。しかし、本当にあと少しでこのゲームをクリアできた。私の2週間がやっと報われようとしていたのだ。悔しい、とても悔しい。ご飯は食べたいが、諦めきれないので懇願してみる。
「お願い! あと1回やらせて! 今ならクリアできる気がするの!」
誠意を見せつつも、少し媚びるように上目遣いでお願いをする。20年以上生きてきて私が培った人生のテクニックその8だ。と言っても、和華には数えきれないくらいこの顔を見せているので、おそらく効果はない。その証拠として、あきれた表情でため息を吐かれてしまっている。さすがに罪悪感が出てきた。
「……ちょっとコントローラー貸して」
電源を切ろうと画面を操作していたら、意外な返答が出てきてちょっと面食らう。だけど、貸さない理由もないので大人しくコントローラーを貸した。
「操作方法は──」
「大丈夫、全部わかる」
え、なんでわかるの。妙な自信ともに、和華はゲーミングチェアへ深く腰掛ける。妙に慣れた手つきでキャラクターを操作し、モンスターの元へと向かっていった。
◇
「……和華?そろそろごはん食べよ?」
さっきの今で『ごはん』という単語を何回繰り返しただろうか。おそらく今日は人生で最も多く『ごはん』と口にしている。時計の短い針はとっくに9を通り過ぎ、10に辿り着こうとしてる。ゲーミングチェアを譲ってから約1時間。和華がここから動く気配を感じない。
「次! 次で最後にするから!」
本当の最後はいつ来るのだろうか、最後なのに終わりではない。一種の言語哲学のように感じる。エプロンは脱ぎ捨てられ、銅色に輝く長い髪は後ろで束ねられている。本気でやっているのは伝わるがそろそろごはんが食べたい。カレーはとうに熱を失い、鼻孔を刺激するスパイスもやる気を失っている。
と、別のことを考えていると、スクリーン上には"ゲームオーバー"という見慣れた文字と、頭を抱える見慣れた和華の姿が見えた。「また負けたか~」と口では軽く流したが、心の中ではガッツポーズをしている。やっとごはんが食べられる。最初に待たせておいて難だが、早くごはん食べたい。
「お疲れさま」と軽く労いの言葉をかけて料理が並ぶテーブルへ振り返ったその時、背後から"コンティニュー"とネイティブな発音の効果音が聞こえた。もしかして……。
180度振り返った身体をもう180度振り返ると、さっきより前傾姿勢で画面に向き合う和華がいた。さすがにのめりこみすぎじゃない? と少し肩を揺さぶってみたが、一切動じない。どうやらクリアするという決意がアロンアルファによって固められたらしい。さすが瞬間接着剤のトップだなぁと感心した(?)
「これは長くなりそうだなぁ……」
次は冷めてしまったカレーに「もう少し待ってね」と目配せを送ってから、私もゲーミングチェアの方に歩んだ。
◇◇
「あんなにのめり込むとは思わなかったよ。私よりもプレイしてたじゃん」
最終的に時刻どころか日付が変わるまで私と和華はあのゲームをプレイしていた。
「ごめん……子供の頃めちゃくちゃプレイしてたシリーズで、ここ数年はやってなかったんだけど、新作が出てたなんて知らなくて」
「まぁまぁ、過ぎたことはいいよ。明日はお互い休みだしね~」
元はと言えば私が熱中していたのが原因なのだが、申し訳なさそうにしてるし、この状況に乗じることにした。割と畜生な気もするがそれが許される、というかこれが冗談だと伝わるくらいの関係性なのだ。
「てかこのカレー美味しすぎない? 手作りって言葉じゃ済まないくらい本格的じゃん」
私がカレーのことについて触れると、さっきまでの影がついたかのように暗かった表情が太陽のように照らされ、誇らしげに顔を上げて立ち上がった。
「ふふーん、そうでしょ~。未波が前に美味しいって言ってた香辛料入れたからね~。他のスパイスは私セレクションで未波が好きそうなやつをひたすら入れたよ」
「さっすが! 私のことよくわかってるね」
「このくらい手に取るようにわかるよ。あんたとはもう数えきれないくらい長いこと関わってるんだから」
お互いに顔を見合って笑顔をぶつけ合う。この笑顔こそが私たちの関係の証明。この笑顔こそが私にとって日常の光景。私は今日もこの笑顔を見せるため、あの笑顔を見るために今を生きている。この生活が続いてくれれば、私はそれでいい。
それだけが、今私が求めているもの。
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