第3章:波紋

第9話 文化祭の喧騒

 まるで燃え尽きる前の蝋燭が、最後にその輝きを増すかのように、私たち、水無月澪と東雲晶の間に漂っていた、あの濃密で、どこか終末的な甘美さを伴う共犯関係は、橘穂乃花という招かれざる闖入者によって、その最も危うく、そして最も美しい均衡を脆くも崩されようとしていた、あの旧音楽室での事件を境に、新たな、そしてより複雑な局面へと否応なく移行せざるを得なかった。私たちの、誰にも汚されることのない、二人だけの閉ざされた聖域は、確かに、そして無残に踏み荒らされたのだ。その事実は、まるで心の奥深くに刺さった、鋭利なガラスの破片のように、常に鈍い痛みを伴って私たちを苛み続け、私たちの関係性に、拭い去ることのできない不吉な影を落としていた。


 それでも、私たちの魂は、まるで互いの存在という名の磁場に引き寄せられる鉄粉のように、以前にも増して強く、そして切実に互いを求め合っていた。穂乃花に、あの決定的な瞬間を目撃されてしまったという恐怖と絶望は、皮肉なことに、私たち二人の絆を、より強固で、そしてどこか悲壮感すら漂う、秘密を共有する者同士のそれへと変質させたのだ。私たちは、まるで嵐の中を共に漂流する難破船の乗組員のように、互いの存在だけを唯一の頼みの綱とし、このどうしようもない現実と、そしてこれから確実に訪れるであろう更なる困難に、二人だけで立ち向かっていかなければならないのだという、暗黙の覚悟を固めていた。もはや、私たちには互いしかいない。そう信じることでしか、心の平衡を保てなかった。


 季節は、まるで私たちの心の変化に合わせるかのように、初夏の気だるい湿り気を帯びた暑さから、徐々に、しかし確実に、秋の気配を色濃く纏い始めていた。空はどこまでも高く澄み渡り、校庭の隅に植えられた桜の葉が、まるで血の色のように赤く、あるいは燃えるような黄金色にその色を変え、はらはらと風に舞い散っては、乾いた地面の上に儚い模様を描き出している。そんな、どこか物悲しく、そして感傷的な美しさに満ちた季節の到来と共に、私たちの通う高校では、年に一度の最大のイベントである文化祭の準備が、本格的に、そして喧騒の中で始まった。


 校内は、まるで熱病にでもかかったかのように、どこか浮足立った、しかし同時に焦燥感にも似た、独特の高揚感と熱気に包まれていた。各クラスでは、それぞれの出し物の準備に追われ、放課後の教室や廊下は、段ボールやペンキの匂い、そして生徒たちの賑やかな話し声や、時折響き渡る楽しげな笑い声、あるいは意見の衝突から生まれる怒声や泣き声で、まるで蜂の巣をつついたような喧騒に満ち溢れていた。それは、普段の、どこか抑圧された、規則正しく単調な学校生活の中では決して味わうことのできない、非日常的で、そしてどこか解放的な、特別な数週間だった。生徒たちは、この文化祭という、一年に一度だけ許された「お祭り」の短い期間だけ、普段自分たちを縛り付けている様々な制約や役割から解き放たれ、創造する喜びと、仲間と何かを成し遂げるという達成感を、思う存分味わうことができるのだ。


 そんな、学園全体が熱狂的なお祭りムード一色に染まる喧騒の中で、東雲晶は、まるで水を得た魚のように、あるいは生まれながらの女王がその輝きを遺憾なく発揮するかのように、生徒会長として、そしてクラスの中心人物として、その類稀なるリーダーシップと、誰をも魅了するカリスマ性を遺憾なく発揮し、精力的に、そして献身的に活動していた。彼女の周りには、常に多くの生徒たちが、まるで太陽の周りを巡る惑星のように集まり、彼女の的確な指示や、周囲を明るく照らし出すような笑顔に、全幅の信頼と、そしてほとんど信仰に近いような憧れの眼差しを向けていた。彼女が発する一言一句が、まるで魔法の言葉のようにクラス全体の士気を高め、停滞していた準備作業を驚くほどスムーズに進展させる。彼女は、この文化祭という舞台で、誰もが認める完璧なヒロインであり、そして希望の象徴そのものだった。その輝きは、あまりにも眩しく、そしてどこか近寄りがたいほどの神々しささえ放っていた。


 一方、私はと言えば、そんなクラス全体の、熱狂的で、どこか私にとっては居心地の悪い喧騒の輪から、まるで腫れ物でも避けるかのように遠く離れ、美術室の隅の、埃と油絵の具の匂いが微かに漂う、いつもの古い木の机の上で、誰にも見せるつもりのないスケッチブックに、ただひたすら、自分の内面に渦巻く、言葉にならない混沌とした感情を、鉛筆の黒い線と、そして晶から託された、彼女の魂の色彩が宿るパレットの鮮やかな絵の具を使って、叩きつけるように描き出す日々を送っていた。クラスの誰も、私に文化祭の準備を手伝えとは強要しなかったし、私自身も、その喧騒の中に自ら飛び込んでいこうという気は、毛頭起こらなかった。それは、もはや私の「役割」であり、そして私が最も安心できる「居場所」だったのだ。まるで、深い海の底にひっそりと暮らす、光を嫌う深海魚のように。


 けれど、そんな私の、孤独で、しかしある意味では満たされた静寂な時間は、時折、まるで水面に投げ込まれた小石のように、不意に破られることがあった。それは、クラスの準備作業の喧騒からほんの束の間だけ抜け出してきた晶が、まるで息継ぎでもするかのように、あるいは秘密の逢瀬を楽しむかのように、私の隣に、そっと、そして悪戯っぽい笑みを浮かべて腰を下ろし、小さな声で、しかし熱っぽく、文化祭の準備の進捗状況や、クラスメイトたちとの間で起こった些細なトラブル、そして彼女自身が感じているプレッシャーや疲労について、堰を切ったように、しかし周囲に聞き取られないように細心の注意を払いながら、早口で語りかけてくるときだった。

「聞いてよ、水無月さん。うちのクラスの出し物、演劇なんだけどね、主役の子が急に風邪で練習に来られなくなっちゃって、もうみんなパニックで、どうしようかって大騒ぎになっちゃって……。結局、私が急遽代役でセリフを一部読むことになったんだけど、もう緊張しちゃって、心臓が口から飛び出しそうだったんだから。あんな大勢の前で、あんな恥ずかしいセリフを読むなんて、考えただけでも鳥肌が立つわ……」

 彼女は、まるで子供が母親に今日の出来事を報告するかのように、その大きな瞳をきらきらと輝かせながら、そして時折、疲労と興奮でほんのりと頬を上気させながら、私にだけ、その日にあった出来事を、まるで宝物でも見せるかのように語って聞かせる。その時の彼女の表情は、普段の、生徒たちの前で見せる完璧なリーダーとしての仮面を脱ぎ捨てた、もっとずっと無防備で、年相応の少女のそれだった。そして、そんな彼女の、私にだけ見せてくれる特別な表情や、信頼しきった眼差しは、私の心の奥底にある、誰にも見せたことのない、柔らかくて温かい部分を、優しく、そしてくすぐったいほどに刺激した。

 けれど、同時に、私は、そんな彼女の、クラスの中心で太陽のように輝いている姿と、そして私の前だけで見せる、どこか影のある、壊れやすいガラス細工のような素顔との間に横たわる、あまりにも大きな、そして残酷なまでのギャップに、言いようのない寂しさと、そして彼女が私からどんどん遠い、手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという、漠然とした、しかし確かな不安を感じずにはいられなかった。まるで、自分が一人だけ、舞台の薄暗い袖に取り残されて、スポットライトを浴びて輝く彼女の姿を、ただ羨望と諦観の入り混じった複雑な気持ちで見つめている、観客の一人でしかないかのような、そんな圧倒的な疎外感。その感覚は、私の胸を、冷たく、そして鋭く締め付けた。


 文化祭の準備が大詰めを迎え、校内全体が、まるで祭りの前夜のような、独特の、そしてどこかヒステリックなまでの興奮と熱気に包まれ始めた頃。私たちのクラスの準備も、連日連夜、遅くまで続き、生徒たちの疲労もピークに達しつつあった。そんなある日の放課後、私は、晶から「どうしても、クラスの展示に使う背景画の一部を、水無月さんの独特のタッチで描いてほしいの。お願い、ほんの少しでいいから、力を貸してくれないかな」と、ほとんど懇願に近いような形で頼まれ、断り切れずに、クラスの喧騒のただ中へと、重い足取りで赴くことになった。

 教室の中は、まるで戦場のような、混沌とした状態だった。床には、色とりどりのペンキの染みが無数に飛び散り、壁には、描きかけの巨大な背景画や、意味不明なスローガンが書かれた模造紙が、所狭しと貼り付けられている。生徒たちは、皆一様に寝不足で目の下に濃い隈を作り、埃と汗と、そしてどこか焦げ付いたような甘い匂いが混じり合った、独特の匂いを漂わせながら、それでもどこか楽しそうに、そして必死の形相で作業に没頭していた。

 私は、そんな、私にとってはあまりにも異質で、そして居心地の悪い空間の片隅で、晶から指示された、背景画のほんの一部分――それは、深い森の奥深くにある、神秘的な泉を描くという、比較的地味で目立たない箇所だった――を、託されたアクリル絵の具と筆を使って、黙々と描いていた。周囲の喧騒は、まるで厚いガラス壁の向こう側で起こっている出来事のように、どこか遠くに感じられた。私は、ただひたすら、自分の内なる世界と、目の前のキャンバスだけに意識を集中させようと努めた。

 しばらく無心に筆を動かしていると、不意に、背後から、聞き覚えのある、そして私にとってはあまり好ましくない、甲高い声が聞こえてきた。

「あれー? 晶、見て見てー! あの水無月さんが、珍しくクラスの準備に参加してるじゃない! 明日は槍でも降るんじゃないかしらねー?」

 橘穂乃花だった。彼女は、クラスの中でも特に目立つ、派手な髪色の友人たち数人に取り囲まれながら、私の方を指さし、あからさまに嘲るような、そして見下すような笑みを浮かべていた。その目には、私に対する明確な敵意と、そして晶に対する、歪んだ独占欲のようなものが、隠しようもなくぎらぎらと燃えている。

 晶は、私のすぐ隣で、別の作業をしながらも、常に私のことを気遣うように視線を送ってくれていたが、穂乃花のそのあまりにも無遠慮で悪意に満ちた言葉に、さっと顔色を変え、私を庇うように、しかしどこか怯えたような声で、毅然と反論しようとした。

「穂乃花っ! そんな失礼なこと、水無月さんに言っちゃダメじゃない! 彼女は、私がどうしてもってお願いして、わざわざ手伝いに来てくれてるんだから……!」

 けれど、穂乃花は、そんな晶の悲痛な制止の声など全く意に介する様子もなく、さらに意地悪く、そして粘着質な笑みを深めながら、晶の肩に馴れ馴れしく手を置き、まるで秘密でも打ち明けるかのように、しかし私にもわざと聞こえるような声で、晶の耳元に囁いた。

「ふーん、そうなんだぁ。晶ってば、本当に水無月さんのこと、大切にしてるんだねえ。まるで、壊れ物でも扱うみたいに。でもさあ、晶、あんまりあんな子とばっかり一緒にいると、晶自身の評判まで落ちちゃうかもしれないよ? 色々変な噂も経ってるし……。晶のためを思って、忠告してあげてるんだからね?」

 その、悪意に満ちた言葉は、晶の心を、そしておそらくは私の心をも、鋭利な刃物のように深く、そして決定的に傷つけた。晶は、顔面蒼白になり、何も言い返せずにただ俯いて、その華奢な肩を小刻みに震わせている。私には、その震えが、怒りなのか、悲しみなのか、あるいは絶望なのか、わからなかった。

 教室の喧騒が、一瞬だけ、まるで潮が引くように遠のいたような気がした。そして、その静寂の中で、私は、ぐらぐら、がらがら…と、自分の心の奥底で、何か大切なものが、音を立ててゆっくりと、しかし確実に崩れ落ちていくのを、ただなすすべもなく感じていることしかできなかった。

 文化祭という、華やかで、そしてそれ故に残酷な舞台の上で、私たち三人の、歪で、そしてどこか痛ましい関係性は、もはや誰の目からも隠しようのない形で、白日の下に晒されようとしていた。そして、その先に待っているのが、果たして喜劇なのか、それとも悲劇なのか、今の私たちには、まだ知る由もなかった。ただ、私の胸には、まるで嵐の前の静けさのような、不吉で、そしてどこか甘美なまでの破滅の予感が、重く、そして息苦しく立ち込めていた。それは、避けられない運命の足音のようでもあった。

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