夢と未来と私

 静まり返った夜の部屋。天井から降り注ぐ蛍光灯の白い光は、咲良さくらの机の上を淡く照らしていた。外では風も止み、虫の声さえ聞こえない。窓の向こうには街灯のオレンジがぼんやりと滲んでいる。そんな夜の静寂の中で、カリカリと鉛筆の音だけが机の上に響いていた。

 片隅には、進路希望調査と書かれた紙が置かれている。第一希望の欄には「◯◯大学・教育学部」と、彼女の文字で丁寧に書かれていた。教師にも、両親にも喜ばれる、堅実で良い選択。それは「正しい未来」と言ってもよかった。しかし、咲良の胸の奥はずっとざわついていた。

 放課後の教室。何気ない会話の中で、友人がぽつりと放った言葉があった。

「絵本作家なんて、良いだね」

 それは否定でも侮蔑でもなかった。むしろ純粋な好意だったはずだ。咲良のことを応援する気持ちもしっかりと伝わった。でも、「夢」というその言葉が、どうしようもなく心に引っかかった。

 ――そう、これはただの夢。現実とは違う、儚くて、子どもじみたもの。

 ふとあることを思い出した。机から立ち上がり、部屋の隅へと歩く。小さな白いチェスト。下から二段目の引き出しをそっと開けると、薄く積もった埃がふわりと舞った。そこには、埃を被ったスケッチブックが何冊も重なっていた。その一冊の隅には、小さな花のシールが貼られていた。まだ小学生だった頃、咲良自身が笑いながら貼ったものだ。何の意味もなく、ただ「可愛いから」という理由で。

「これ、大人になったら絵本にするんだ」

 そう言って、嬉しそうに母に見せた日のことを、彼女ははっきりと覚えていた。その時の自分は、まっすぐで、疑いを知らず、未来を信じていた。けれど、あれから何年も経った今、その子はまるで霧の向こうにいるようで、輪郭さえ曖昧だった。

 そっとページをめくると、幼い筆致で描かれた動物たちが顔を覗かせた。ウサギが空を飛び、ネコが言葉を喋る。魔法の花園では、小さな女の子が冒険をしていた。背景の色鉛筆の跡はまだ鮮やかで、紙の隅には誤って押しつぶした消しゴムの跡もある。少しだけ懐かしく、少しだけ恥ずかしい。

 咲良は思い出す。あの頃、どんな気持ちで絵を描いていたのか。学校から帰ってランドセルを放り出し、夢中でクレヨンを握っていた。あの熱量。あの喜び。誰に見せなくても、描いているだけで胸が高鳴った。

 絵本作家になりたい。そう言ったとき、母は少し困った顔をした。

「素敵だけど、現実は厳しいからね」

 咲良はそれが責めではなく、心配だとすぐに分かった。母なりに、娘に安定した未来を歩んでほしかったのだ。それは当然の愛だった。

 けれど、それでも胸に芽生えた違和感は、いつの間にかどこかにしまってしまった。受験、進学、就職と、まるでレールの上を歩くように、咲良は現実の選択肢を選び続けた。夢は次第に遠いものになっていき、自分でも、いつの間にか無かったことにしようとしていた。

でも。

涙が一滴、スケッチブックの上に落ちた。

「もしも、私が主人公だったら……」

咲良は目を閉じた。あの頃の自分のように。物語の中の勇敢な少女のように。物語の中の主人公なら、どんな困難にも立ち向かって、自分の願いを貫くことができる。失敗しても、転んでも、最後には笑って夢を掴む。――あの頃、自分が描いていたのは、そんな子たちだった。

「夢を、追いかけてたのかな」

スケッチブックをなでながら、ふと呟く。

「このスケッチブックのことを忘れたわけじゃない」

咲良は目を閉じて、そっと呟いた。

 「思い出すのが怖くて、ずっと見ないふりをしてたんだ……」 

 ふいに、部屋の空気が変わった。窓は閉まっているのに、カーテンがふわりと揺れた。どこからか甘い花の香りが漂ってくる。

 風ではない何かが、部屋の中を通り過ぎた。窓は閉まっている。エアコンも動いていない。それでもカーテンは揺れ動いている。

 咲良ははっとして顔を上げる。振り返った視線の先、部屋の隅に“誰か”が立っていた。

 それは自分自身によく似た人物だった。

 けれど鏡に映った姿ではない。そこに立っていたのは、咲良自身に似ているけれど、少しだけ大人びた女性だった。髪は同じ色で、瞳も同じ。でも、その表情には、確かな決意と柔らかさがあった。

 ――これは、私?いや、ちがう?

 そう思ったとき、立っている女性はにっこりと笑った。

 「後悔するよ、勇気を出して」


 咲良は息を呑んだ。

 自分の目の前にいる存在はいつ現れたのか。とても自分に似ていることは確かだが、今の自分とは髪の長さも、目つきも、表情も、雰囲気も何もかもが違う。真っ直ぐで、迷いのない光を秘めた目。まるで、絵本の世界で勇敢に冒険をする少女のように、いや、それ以上に強く、美しく見えた。

「あなたは……誰?」

 震える声で問いかける。するとその人物は、ふっと優しく微笑んだ。

「私は、夢を追いかけたあなた」

 その一言で、途端に胸が締め付けられる気がした。夢。今日、友達に言われた言葉。儚くて、子供じみたもの。押さえつけて、潰してしまいたいもの。しかし目の前の女性が発する「夢」は、なんだか意味合いが違う。とても暖かいもののように感じる。

「なんで……未来の私がここに?」

「それは私もわかんない。でもわかることはある。あなた、今夢を諦めようとしてたでしょ」

はっとした。それと同時に、自分の頬を伝う涙の存在に気がつき、服の袖で拭う。

「……夢なんて、追いかけたってどうせ……」

「失敗するかもしれない。誰にも認められないかもしれない。そう思って、諦めようとしたんだよね」

 図星だった。咲良は唇を噛み締める。

「だって…そうでしょ?子供の頃の夢とか大人になったらみんな押し潰される。現実を見なさいって言われる。まして私みたいに別に才能もない人間が夢なんて語ったって、鼻で笑われるか呆れられるだけだよ。私だって諦めたかったわけじゃない、でも諦めるしかないんだよ。私ももうそういう年齢になっちゃったんだよ」

咲良はまるで噴水のように、今まで押さえていたものが噴き出すように、涙声で捲し立てた。呼吸が乱れる。そうだ、自分には才能なんてないし、夢を語ったところでそれを叶えられる手立てもない。それよりも現実を見て、誰かが敷いてくれたレールに乗って進む方が楽だ。

 しかし目の前の女性は、依然として笑顔で咲良を見つめる。

「でも、私は今こうしてあなたの目の前にいる。夢を諦めようとしても、諦めなかったあなたがいたから私はいるんだよ」

 大人になった咲良は、そっと埃を被ったスケッチブックの上に手を重ねた。その仕草には、優しくも確かな強さが感じる。その光景を見て、今の咲良は再び涙を流す。

「もう一度、夢を見てみない?」

「……でも、怖いよ。夢を口にするのも、前に進むことも、全部」

「怖くて当たり前、でも、怖いってことは、まだその夢を大切に思ってる証拠なんだよ」

 そう言って彼女は咲良の手を優しく握る。その姿は、もう誰かではなかった。確かに、自分自身だった。忘れようとして心の奥底に押し込んでいた、本当の自分。咲良の涙は、もうしょっぱいそれではなかった。決意に満ちた輝きのある涙が、頬を伝うとともに彼女の未来をぼんやりと明るくしてくれるようだった。

「……もう一度、描いてみようかな。今の私の絵で」

涙に塗れ、それでも確かに希望を秘めている彼女の目を見て、未来の咲良は安心したような表情になった。

「うん。その一歩が、物語の始まりになるんだよ」


 ふと気がつくと、部屋の空気はもとに戻っていた。揺れていたカーテンも静まり返り、花の香りももうしない。だが、咲良の胸には、確かに灯る暖かいものがあった。

 彼女はそっとペンをとり、スケッチブックの新しいページをめくる。そこには、無限の可能性に満ちた白いキャンバスが広がっていた。

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