もしも主人公なら
ハルタカ
心の色
それは冬の終わりのことだった。
雪がまだ歩道の端に名残を残していたある朝、僕は校舎裏(なぜ僕はそこに行ったのか分からないが、おそらくなんらかの
彼女は
だけど、僕には彼女の心の声が見えていた。
僕の目には、他の人には見えない「色」が映る。人の心は色でできている。喜びは橙色、怒りは赤、悲しみは青、孤独は灰色。そして絶望は、すべての色を飲み込むような漆黒。僕は人を見ると、その人の感情がオーラのように色となって見える。澪の周囲に広がっていたのは、彼女の髪の色にそっくりなそれだった。
「大丈夫?」
僕の言葉に、彼女は顔を上げた。目は驚きに見開かれていたけれど、すぐに伏せられた。けれど、その一瞬だけ、黒の中に微かに、白が混じった。
希望の色だった。
数日後、学校で僕は彼女に話しかけてみた。彼女はいつも通り、休み時間になると一人で本を読んでいた。僕は彼女に近づき、声をかけた。
「何読んでるの?」
声をかけた瞬間、彼女は一瞬びっくりしたようにしたが、すぐに目を伏せてしまった。けれど逃げるような素振りはなかった。ただ、ページの隅を指でなぞるようにしながら、小さな声で言った。
「……小説。ミステリー」
僕は彼女の声に聞き覚えがあった。ボソボソと話してはいるが、透き通る芯のあるような声だ。
「へえ。僕も好きだよ。読んでるとなんだかワクワクするよね。ミステリーって」
これは本心だ。僕はミステリー小説をよく読む。さらにそれに留まらず、インターネットの某小説投稿サイトに自作のミステリー小説を投稿したりもする。毎回投稿すると、意外と多くの人が読んでくれているようで、自己肯定感が上がるのだ。
僕は彼女を見た。彼女は机に突っ伏したままだ。相変わらず黒主体の暗いオーラだが、やはり少しだけ白も見える。おそらく僕が話しかけることに対して嫌悪感を抱いているわけではないのだろう。僕は確認してから会話を続けようとする。
「個人的にはトリックよりも動機に惹かれるんだよね。まあこんなことを言っても、ほとんどの人はわかってくれないんだけどさ」
彼女はちょっと顔を上げて、少しだけ目を細めた。それは笑ったようにも見えたが、一瞬で消えて、代わりに問いかけが戻ってきた。
「動機……どうして?」
「うーん……人の心って、多分どんなトリックよりも複雑だからかな。この人が好きとか、あれが好きとか、あれが嫌いとか……そういう単純な一本の糸が絡み合って心になって、ミステリーにおいては動機として現れる。その人の全部がそこに詰まってる気がするんだ」
僕がそう言うと、彼女は一瞬だけこちらに目線を合わせた。
「あなた……変わってる」
「はは、よく言われるよ」
僕は笑った。彼女の周りの黒が、ほんのわずかに薄れていくのが見えた。心の色は、少しずつ、少しずつ変わっていく。
それから僕は少しずつ彼女と話すようになっていった。ほとんどはミステリー小説の話ばかりだが、そのうち色々なことを話すようになっていった。彼女が心を開いていくのがわかり、嬉しいと素直に思った。
僕には、忘れられない言葉がある。
それは一年前、僕自身が心を閉ざしていたころのことだ。当時の僕は遅めのいわゆる反抗期というやつで、家族との関係はあまり良くなく、かといって友達もあまりいなかったし、相談できる誰かもいなかった。なぜこの世界はこんなに苦しいんだろう。なぜこんなにも醜いんだろう。今思えば捻くれていた自分が全て悪いのだが、当時は全て周りのせいにして、世界の色を見ようともしていなかった。そして、何もかも終わってしまえばいいのに、世界が滅んでしまえばいいのにと、終末的な考え方になっていた。
ある日、下校の途中で通る歩道橋で立ち止まった。とてもここから飛び降りる覚悟はないが、いっそ誰かが背中を押してくれれば楽なのにと考えながら景色を眺めていた。するとその時、背後から誰かの声が聞こえた。
「――大丈夫。あなたの色は綺麗だよ」
振り返ると、真後ろには誰もいなかったが、辺りを見渡すと、走っていく黒髪少女の背中が見えた。小さい声ではあるが、透き通っていて、芯のある声だった。彼女の言葉の真意は分からなかったが、不思議と胸に沁みて、涙が溢れた。その言葉だけで、僕は自分の存在が否定されていないような気がする。世界の色が汚いと思っていたのは、自分の色が汚いと思い込んでしまっていたからだった。あの時から僕の目は、人の心の色が見えるようになった。
今になってわかったことがある。あの時の少女は、澪だ。なぜ彼女があんなことを言ったのか、なぜ今の彼女はその言葉と対照的に黒い色を持っているのかは分からない。もしかしたらあれは僕の夢か幻覚の類だったのかもしれない。
それでも彼女は、僕を救ってくれた。だから今度は、僕が、彼女の世界を救う番だ。
春が来るころ、澪の周囲にあった黒は、少しずつ淡い色に変わっていった。彼女は少しずつ目を合わせて話してくれるようになり、たまに僕に小さな冗談を言うようにもなった。クラスメイトとも、少しずつ話すようになっているみたいだ。
「澪の色、今日は水色だね」
「それって、どんな気分?」
「うーん……ちょっと不安だけど、どこか心が軽い。そんな感じ」
「……正解かも」
こんな会話もできるようになったころ、僕は思い切って言った。
「澪は前に、僕に『色が綺麗だ』って言ってくれたよね」
彼女は目を見開いた後、ふっと視線を落とした。
「……覚えてたんだ。私も忘れかけてたよ」
「うん。あの言葉が僕を救ってくれたんだ。あの時は色々大変でさ、もう人生どうにでもなれって感じだったんだけど、澪の言葉で前を向けたんだ。なぜ澪があの時そんな言葉をかけてくれたのかは分からないけど、それでも僕の世界は、澪に救われたんだ。だから、今度は僕が君を――」
「……救われてるよ、もう」
澪が僕の言葉を遮るように言った。その言葉は、あの時と同じように、確かに心の奥に響いた。
その日の澪の心は、淡い桜色をしていた。
桜が散る季節、僕たちは卒業式を迎えた。卒業式の日、朝早く教室に行くと、先客がいた。彼女は髪を肩まで切っていた。今日が卒業式だというのに、相変わらず本を読んでいる。少し大人びた表情で、でも僕に気がつくと、小さく手を振った。
「髪、切ったんだね」
「うん、過去との決別って感じ」
「はは、かっこいいな。うん、似合ってるよ」
「ありがとう。――ねえ、私も見えるようになったよ」
「何が?」
「心の色」
「え……ほんとに?」
「うん。今のあなたの色、ちゃんと見える」
「どんな色?」
彼女は少し考えて、答えた。
「金色。光みたいな、希望みたいな色。それでいて稲穂の色みたいに優しさもある、そんな色」
それは、かつて僕の世界に彼女の言葉が灯した色だった。今、それが僕の中で、彼女を照らしていた。
僕は救世主になんてなれないし、なれなくていい。それでも、もしも僕が主人公なら、僕は君の世界を照らしたい。僕という命の灯火で、精一杯照らしたい。それで君の世界が少しだけ優しくなるなら、明るくなるなら、それでいい。
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