第二話 森の呼び声、最初の絆

森の奥から響く澄んだ音色は、まるで細い絹糸のようにソフィアの意識を手繰り寄せた。疲労困憊のはずの身体が、不思議と軽く感じられる。本能が、あるいは科学者としての探究心が、その音の正体へと彼女を突き動かしていた。


音のする方角へ、慎重に足を進める。ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながらも、ソフィアは木々の間を縫うように進んだ。陽の光も届きにくい森の深部は、昼なお暗く、不気味な静寂と、時折響く獣の声だけが支配する世界だ。だが、あの澄んだ音だけが、この陰鬱な場所に不釣り合いなほど美しく響き渡っている。


どれほど歩いただろうか。不意に、視界が開けた。そこは、苔むした岩々に囲まれた小さな泉のほとりだった。そして、その泉の傍らで、ソフィアは音の主を見つけた。


倒れていたのは、まだ十歳にも満たないであろう少年だった。粗末な革の服をまとい、手には小さな木製の笛を握りしめている。顔色は蒼白で、浅く速い呼吸を繰り返していた。彼の足からは、赤黒い血が流れ出し、周囲の苔を染めている。おそらく、魔獣にでも襲われたのだろう。


「…大丈夫?」


ソフィアは、警戒心を解かぬまま、そっと声をかけた。少年は、か細い声でうめき、怯えたようにソフィアを見上げる。その瞳には、痛みと恐怖の色が濃く浮かんでいた。


「動かないで。傷を見せて」


ソフィアは、前世の記憶の中から、応急処置に関する知識を引き出した。幸い、ドレスの裾を裂けば包帯の代わりになる。泉の水で傷口を洗い、持っていた薬草――幸運にも道すがら見つけていた止血効果のあるもの――を噛み砕いて塗りつけた。


少年の傷は、牙で抉られたような深いものだった。このままでは破傷風か、あるいは失血死してしまうかもしれない。一刻も早く安全な場所へ運び、適切な治療を施さなければ。


「しっかりして。私はソフィア。あなたを助けに来た」


ソフィアは、力強い口調で言った。その声には、不思議な説得力があった。少年は、こくりと頷き、ソフィアの手に弱々しくしがみつく。


周囲を警戒しながら、ソフィアは少年を背負った。華奢な身体には不釣り合いな重さだったが、火事場の馬鹿力というものだろうか、不思議と力が入る。問題は、どこへ向かうべきかだ。この森に、人の住む場所などあるのだろうか。


「…あっち…僕の村…」


少年が、途切れ途切れの声で指差した。ソフィアは、その方角へと歩き出す。少年の温もりが、冷え切ったソフィアの身体にわずかな暖かさを与えてくれた。


道なき道を進むこと数時間。ついに、ソフィアは森の中にぽっかりと開けた空間を見つけた。そこには、粗末ながらも人の手が入った数軒の小屋が建ち並び、畑らしきものも見える。小さな開拓村だった。


村人たちは、見慣れぬソフィアの姿と、彼女に背負われた少年に気づくと、驚きと警戒の入り混じった表情で集まってきた。特に、屈強な体つきをした一人の男――年の頃は二十代半ばだろうか――が、鋭い目つきでソフィアを睨みつける。


「テオ! おい、テオじゃないか! 一体何があった!」


男は叫び、ソフィアからテオと呼ばれた少年を乱暴に引き剥がそうとした。


「待ってください! 彼は酷い怪我をしています。安静にさせないと」


ソフィアは毅然とした態度で男を制した。その迫力に、男は一瞬たじろぐ。


「あんたは誰だ? なぜテオと一緒に…もしや、あんたがテオをこんな目に…」


疑念に満ちた視線が、ソフィアに突き刺さる。無理もない。今の彼女の姿は、泥と血にまみれた元貴族令嬢。どう見ても怪しい人物だ。


「私はソフィア。森で彼を見つけ、手当てをしました。信じられないかもしれませんが、彼を助けたい一心です」


ソフィアの真摯な瞳と、テオの「…この人が、助けてくれたんだ、兄ちゃん…」という弱々しい言葉が、村人たちの警戒心をわずかに解いた。特に、テオの兄らしい男――レオンと名乗った――は、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、ソフィアを村の集会所らしき小屋へと招き入れた。


小屋の中では、村の長老らしき老婆が、テオの傷の手当てを始めた。だが、その知識は古く、迷信じみたものも多い。ソフィアは、見ていられず口を挟んだ。


「その薬草では効果が薄いでしょう。傷口はもっと清潔に保たなければ。それから、このハーブを煎じて飲ませれば、熱を下げる効果が期待できます」


ソフィアは、森で採集してきた薬草を取り出し、その効能と使い方を説明した。前世の薬学の知識が、こんな形で役立つとは思ってもみなかった。村人たちは、ソフィアの淀みない説明と、見たこともない薬草の知識に目を丸くする。


「…お嬢さん、あんた、一体何者なんだね?」


長老の老婆が、探るような目でソフィアを見つめた。


「私は…訳あってこの森に来た者です。今はただ、テオさんの回復を願っています」


ソフィアは言葉を濁した。追放された元悪役令嬢などと、正直に話せるはずもない。


数日後、テオの容態は奇跡的に回復した。ソフィアの的確な処置と、彼女が調合した薬草のおかげだった。村人たちは、ソフィアに対する警戒心を解き、感謝の言葉を口にするようになった。特にレオンは、ぶっきらぼうながらも、ソフィアの知識と行動力を認め始めているようだった。


この村――アーク村と名付けられていた――は、常に貧困と危険に晒されていた。痩せた土地、乏しい収穫、そして何よりも、森に潜む魔獣の脅威。ソフィアは、この村の現状を目の当たりにし、自分の知識が、彼らの生活を少しでも豊かにできるのではないかと考え始めた。


「村長、皆さん。もしよろしければ、私にいくつかお手伝いさせていただけませんか?」


ソフィアは、村の集会で切り出した。


「例えば、この村の井戸水ですが、少し工夫すればもっと安全で美味しい水になります。それから、皆さんが使っているカマドも、改良すれば薪の消費を抑え、もっと効率よく調理ができるはずです」


ソフィアは、前世の知識を元に、簡易的な浄水フィルターの構造や、燃焼効率の高いカマドの設計図を、地面に木の枝で描いて説明した。村人たちは、最初は半信半疑だったが、ソフィアの熱意と、その説明の論理性に引き込まれていく。


「…本当に、そんなことができるのか?」


レオンが、疑わしげに尋ねた。


「ええ、できますとも。科学は、決して魔法ではありません。正しい知識と手順さえ踏めば、誰にでも再現可能なのです」


ソフィアは、自信に満ちた笑みを浮かべた。その笑顔は、かつての「氷の華」とは違う、温かく、そして力強い輝きを放っていた。


数日後、ソフィアの指導のもと、村人たちは浄水装置と改良型カマドの製作に取り掛かった。最初は戸惑っていた彼らも、ソフィアの的確な指示と、実際に目の前で形になっていく「魔導科学」の成果に、次第に興奮と期待を膨らませていく。


そして、ついに最初の試作品が完成した。井戸から汲み上げた濁った水が、ソフィアの作った装置を通すと、驚くほど透明な水に変わる。改良型カマドは、少ない薪で勢いよく燃え上がり、鍋の湯をあっという間に沸騰させた。


「おお…!」「すごいぞ!」「まるで魔法だ!」


村人たちの歓声が、アーク村に響き渡った。それは、ソフィアにとって、どんな賛辞よりも心に響くものだった。


だが、そんな喜びも束の間、村に新たな脅威が迫っていた。見張りの村人が、血相を変えて駆け込んできたのだ。


「大変だ! グレイファングの群れが、村に向かってくる!」


グレイファング――この森で最も凶暴とされる狼型の魔獣。その群れに襲われれば、アーク村などひとたまりもない。村人たちの顔に、絶望の色が浮かんだ。


「…ソフィアさん、あんたなら、何か手はないのか?」


レオンが、祈るような目でソフィアを見つめた。その視線には、以前の疑念はなく、ただ純粋な信頼だけが込められていた。


ソフィアは、静かに頷いた。彼女の頭脳は、すでにこの危機を乗り越えるための最善策を導き出そうと、猛烈な勢いで回転を始めていた。

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