日の和うところ
「日和さま、日和さま」
今でもたまに、昔の夢を見る。
私は幼い子どもで、でもあの子も負けないくらいに幼かった。
守ってやれたはずなのに、守らなくてはならなかったはずなのにと、悔やむ夢を見る。
「日和さま」
幼いあの子は、私をそう呼ぶ。
これから姉弟になるのだから、そう呼ぶ必要はないと言ってもあの子は私をそう呼んだ。
まるでひどく美しいものに触れるような手つきで、私の手を握る。
ふわふわと温かくて、木漏れ日のように、ちらちらと眩しい。
あの子は優しい子で、とても純粋な子だった。
私の父は偉い人だから、私も偉かった。
父に次ぐ偉い人になるためにと、勉強やら作法やらの授業がたくさんあった。
できないことがあるたびに殴られたり、蔵に閉じ込められたりして、よく泣いていたのを覚えている。
できないことは罪で、それに対する罰を与えられているのだと、教師たちは口を揃えていった。
できないことがあると罰せられた反面、できることがあると、これ以上ないほどに褒められた。
それはただ嬉しくて、私は成長していくにつれてできないことが減っていって、罰をくだされる回数も次第に減っていった。
教師たちの言うことは、基本的に合っていた。
学ぶことは、つまらないものでもなく、学べば世界が見えてくる。
私は恵まれていて、世界には嫌な人がたくさんいるけれど、私はそれらから守られた存在であること。
でも本当に嫌な人なんていなくて、ただ不幸な状況があって、不幸な人が生まれるだけであること。
パーソナル・イズ・ポリティカル。
「日和さまは、立派なお父様の子どもでございますから、きっと世界を動かせる方になりますよ」
賢くあることは義務なのだと理解した。
父の子として、恵まれた者として、それは義務で、怠慢であることは許されないのだと。
あの子が来たのは、そう、私が小学校に上がって、すぐだったはずだ。
あの子は新しい母の連れ子で、でも新しい母には嫌われていた。
新しい母は嫌な人だった。
まだ幼い息子を引きずるようにして歩いていた。
使用人たちは新しい母から私を遠ざけようとしてくれていたけれど、あの子を守ることはしなかった。使用人にとって私は使えるべき主で、あの子は部外者だった。
一度だけ、新しい母に締め出されたあの子を部屋に入れてあげたことがある。
あの子は馬鹿だった。
私と同い年であることが信じられないほど、馬鹿で素直な子どもだった。
「なにをしているの?」
夜遅くまで勉強をしていて、息抜きに外に出たら膝を抱えてうずくまるあの子がいた。
冬の、体の芯まで震えるような、冷えた夜だった。
「日和さま…、ママが、だめって、カノが、だめな子だから…」
純粋な母への愛を溢れさせたその目にぞわりと背が震えたのを覚えている。
どれだけ母に殴られても母を愛していて、どれだけ突き放されても母を追いかけるために立ち上がる。
純度の高い、愚かな、愛。
「とにかく、入って。風邪をひいてしまうでしょう? 今温かいものを用意させるから」
母に怒られてしまうからと首を振るあの子を、義務感から半ば強引に部屋に連れ込んだ。
温かいココアを飲ませて、冷えてしまっていたあの子をお風呂に入れて、ぽかぽかになったあの子は「ありがとう、日和さま」とつたなく笑って新しい母のもとに帰っていった。
以来、私はあの子を避けた。
無理に避けようとしなくても、いつからかあの子は離れにある蔵で暮らすようになっていたから、顔を合わせることは殆どなかった。
エスカレートしていく暴力にも、ネグレクトにも、すべて気がついていたけれど、死にはしないだろうと高を括っていた。
あの蔵の冷たさも、暴力の苦しさも忘れて、私はそんなことを思っていたのだ。
私とあの子が高校二年になって、あの日はそう、よく晴れていて、学校は早帰りだった。
ただいま帰りましたと家に入ると、玄関に汚い靴があることに気づいた。
揃えられていない靴を揃えて、ああ、あの子か、と思い出した。
長いこと、存在すら覚えてはいなかった。
今日はヴァイオリンのレッスンがあったはずだから、防音室でヴァイオリンの練習をしよう。
一度部屋に寄って、着替えて、防音室に足を向ける。
「…?」
赤い、血。
見た瞬間、嫌な予感がした。
その血は引きずられるようにして防音室に続いていた。
新しい母は今頃茶会に出かけているはずだ。午前中は家にいたはずで、もう家を出たあとなのだろう。
父はゴルフに、そう、ゴルフに。
玄関にゴルフセットが立てかけてあった。
まだ出かけていないのか、それとも別の用事が入ってしまったのか。
父はたしか、今日は一日休暇をとっていたはずだと────
ガチャリと防音室の扉を開けて、ヴァイオリンのケースでそこにいた父をぶん殴った。
ガンッ、と鈍い音がして、父は倒れ込んで動かなくなった。
「これはどういうことでありますか、お父様」
弱きものを助けるために学ぶのではなかったか。
不幸な人をなくす世の中を作るために、愛しい家族を守るために、─────。
思考を、断ち切る。
都合の悪いことは考えない。高貴な人間が、高貴なままであるための常套手段。
「ひ、より、さま…?」
かすれた声で呼ばれた。
ボロ雑巾のようになってしまったあの子を抱き上げて自室に連れ帰った。
あの子は軽くて、血まみれで、呼吸も浅くて、それでもきちんと、全身でこの世界に存在していた。
自分のベッドに寝かせて、傷跡を見なくてはと服を脱がした。
脱がせて、軽率に脱がせたことをひどく後悔した。
服の下にいくつもの痣を抱えて、満足な食事も愛も、学も与えられないで、この子はずっと、そうやって、生きていたのだ。
お風呂に入れようとしたらひどく嫌がったので、庭にあるプールで全身を洗わせた。
お風呂という場所自体が苦手なようで、プールだと大人しく洗われてくれた。
キラキラと光る水面を見て、あの子は驚いたようだった。
「切り傷が治ったら、入れるよ」
そう言うと、はっとしたように目を逸らした。
きれいなものをきれいだと言うことは罪ではない。
それも、いつか教えられたらいい。
あの子から流れる黒い水が完璧に透明になるまで、徹底的に洗った。
切り傷には消毒をして、軟膏を塗ってから絆創膏を貼った。
無視できないような大きな痣は保冷剤で冷やした。
女物の服しか持っていなかったけれど、私よりも小さく細いこの子にはこれで十分だった。
刃物を怖がって髪を切ることはできなかったので、ゴムで一つに束ねた。
あの子は話さなかった。
昔から、あまり話す子どもではなかったと思う。
なにか行動を起こすたびに新しい母の顔色を伺って、びくびくとしていた子ども。
「しばらく、ここで暮らしてほしい」
そう伝えると、あの子は戸惑ったようにこくりと頷いた。
数日後、父に呼び出されて、あれをやったのは自分ではなく、新しい母である旨を知らされた。
新しい母が出かけたあとも半狂乱で叫ぶものだから、使用人に防音室に放り込ませ、様子を見に行ったところだったのだと説明された。
「左様でしたか。状況も知らず身勝手な行動を起こしてしまいました。申し訳ございません」
父はため息をついて、頷いた。
「いい。今回だけは特別に罰は与えない。ただ、これからあの子に関わることはやめなさい」
「お父様」
「なんだ?」
父と話すのは久しぶりだった。
父は私を娘としてではなく、ただ一人の人間として見ている。
利用価値があるか、存在理由があるか、守るに値するか、利益を生むか。
父にとって私は道具であり、父もまた、私にとって世界を知り得るための道具でしかなかった。
この人の娘として産まれてきてよかったと何度も思った。
この人のお陰で私は世界を知り得る。
「私は、お父様から特別愛と呼ばれるようなものを受け取った覚えはありません。お母様は幼い頃に亡くなったので、私は使用人や、家庭教師の方々に育てていただきましたが、あの人達も親代わりにはなり得なかったように思えます。お父様、───」
──── 人間とは、愛を与えられぬとああなるのでございますか?
人間の感情の成り立ち、人間の心の支配の仕方、心理戦の戦い方。
一通りのことは学んだ。
学んだときに、自分のことに当てはめて考えなかったのは、自分に通常を当てはめて考えてはいけないとわかっていたから。
「お前は私の娘に産まれてきた時点で、神に愛されている」
なるほど、そういう考え方もあったか。
「与えてくださった教えに感謝いたします」
じっと父の顔を見て、待ってみた。
自分の感情のメーターが動くことを期待して、でもいくら待っても、私の感情は平坦なまま、動くことはなかった。
自分は欠陥品か。人として正しくない。
正しい感情の筋道はいくらでもわかる。
今の自分は怒り、悲しむべきだ。
涙を流し、絶叫し、世の不条理を嘆くべきなのだ。
今日は学びの多い一日だったなとただそんなことを思って、父の部屋を出た。
言ってしまえば、父もまた欠陥品なのだ。
私と同じように育ち、私と同じような思考で、世界の不条理を利用しながら守れる範囲で守りたいものだけを守る。
父は、あの子と出会わなかった私の未来そのもので、それはどこか明るい未来にも思えた。
「あっ、あの、おかえりっ、なさい、ひより、さま…」
部屋に戻ると、あの子に言われた。
少し呆気にとられて、理解した。
そうか、この部屋からあの子が出られない以上、この日和の部屋があの子にとっての家となるのか。
「ただいま」
おかえりと言われたら、ただいまと返す。
そんな当たり前のことに、あの子は驚いたようだった。
父の論理を借りて言うと、この子は神に愛されなかったということなのだろう。
神に愛されなかったから、学も与えられず、馬鹿で愚かで、すぐに死んでしまいそうなほどに弱い。
ならば何故。
「ありが、とう」
この子は、神に愛された天使のような、無垢な笑顔で笑うのだろう。
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