かみさまの泣くところ

@noa_0410

エピローグ 桜の逢うところ

わたしの家には、「神様」がいた。


まぁそれはそれは、偉い「神様」だった。

「神様」は幼かったわたしの背中を蹴り飛ばして、酒を買ってこいと怒鳴る。

わたしを庇ってくれた母を殴り倒して、母の顔にはいつも大きなあざがたくさんあった。

母の目の周りはパンダのように黒くなって、お風呂にも入らなくなって、結局、母も「神様」になった。

わたしの家では、毎日毎日お酒の匂いがした。

きっと母は、「神様」に抗うより、「神様」に染まってしまったほうが楽だと気づいたのだと、随分あとになってから思った。


小3になって、初めて盗みをした。

スリルを楽しむためのものでも、親への反抗心から行ったものでもなく、ただ単純な飢えを満たすためにやった盗みだった。


わたしがかわいい子供だった頃は、「神様」に殴られても「神様」を愛していたし、「神様」に蹴り飛ばされてもわたしが悪いのだと信じていた。


それも長くは続かない。

どれだけ願っても、時の流れは「神様」にも変えられなくて、わたしは大人になっていく。


「神様」を愛さなくても、「神様」に愛されなくても、生きることが許される世界を知る。


あの人たちを「神様」と例えるのなら、わたしは「反逆者」なのだろうか。

愛すべき「神様」を愛することを放棄し、筋違いの自由を求めようとしたのだから。


「…どんな名前がいいかなぁ?」

「んー、元の名前はなんだっけ?」

「ちひろちゃん、だった気がする」

「いい名前だね」

「そう、なの? 俺、漢字読めないから、わかんない」


「神様」には呼んでもらえない名前だったから、仲間に読んでもらえる名前に変えて貰った。


「んー、これはどう…?」

「これなんてよむの? ア…い、さ」

「うん。桜が綺麗でしょう? そんな日に出会えたから、逢桜ちゃん」

「いいと思う。いいなまえ」

「そう? ありがとう」


お酒の匂いも、「神様」の気配もない場所だった。

ただ穏やかに過ぎる時間を微笑み合う大人が二人いて、それを酷く美しいとおもった。


わたしの手を握って、視線を合わせるためにしゃがんでくれる。

「神様」はそんなことしない。「神様」は常に頭の上にいる人たちだ。


「アイサ、アイサだって!」


大きい声にびっくりしたわたしを庇うようになだめる。


「叶、驚かせてどうするんだ。逢桜はこれから家族になるんだから、大切にしないとだめだよ」

「タイセツ、たいせつに…」

「大切ってわかる? このあいだ梨穏に教えてもらってなかったかい?」

「んー、こないだ習った…、けど、よくわかんないなぁ」

「まぁ、ゆっくりわかればいいんじゃないかな。急ぐことでもないしね」


「神様」は、いつも悲しそうで、いつも苦しそうだった。

でもあの人たちはいつも穏やかで、いつも微笑みあっていた。


どうして?と逢桜が問うと、大人は教えてくれた。


「お金だよ。世の中にはどうしようもない大人ってのはいてね、そういう大人がそうなってしまったのは、たいてい、その人のせいではないんだよ」


その人の視線はいつも優しい。逢桜はその人の目が好きだった。


でも逢桜は知っている。その人の目がいっそう愛しさに溢れる瞬間を。


「パーソナルイズポリティカル。個人的なことは、実を見てみると、たいだいのことは社会の問題だ。逢桜の“かみさま”はきっと、どうしようもない、ずるずるとした、そんな理由で苦しいんだと思うよ。それは逢桜の“かみさま”の自業自得でもあるけど、」

「はは! まーた日和がわかんないこと言ってる!」


叶。


その人の目が一層に細められて、うんと嬉しそうな顔になる。

二度と咲くものかと固く閉ざされた蕾が、思わずあっけなく咲いてしまったような、春の暑さにやられて、花も知らぬうちに咲いてしまったような、そんな顔。


「アイサ、アイサ」


叶はいつも、重ねて逢桜を呼ぶ。

まるでこの名前を呼びたくてしょうがないと言うように、事あるごとに、二度。


まるで別の世界に迷い込んだような響きが、逢桜は好きだった。


「なあに? 叶くん」


声を出せるようになった。

「神様」は、うるさいといって許してはくれなかった。

逢桜はうたう楽しさを知った。


「たのしい?」

「うん、たのしい」


叶はいつも楽しそうに逢桜を呼ぶ。

唄うように、口ずさむように。

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