世界はまだ塗りかけで

灯守 透

世界はまだ塗りかけで

【第一章:灰色の世界】

秋。

カーテン越しの光は、夏よりも斜めに差し、白く沈んでいた。

空はどこか薄く、乾き始めた風が制服の袖から忍び込んでくる。

暖房が入るにはまだ早く、冷房が終わるにはもう遅い。そんな曖昧な気温の中、教室の空気だけが粘ついていた。

僕は教室の端で、スマホをいじりながら昼休みをやり過ごしていた。

名前は小林歩夢。

この街で一番の進学校に通う高校一年生。

田舎でも都会でもない、何も起きないこの中途半端な街の、少しだけ“賢い”場所に僕はいた。

でも、周りの“賢い人間たち”が交わす話題は、いつもくだらなかった。

芸能人の不倫。Netflixの恋愛ドラマ。バンドの推し。SNSで話題のコスメ。

どれも生産性のない話ばかりだ。

──思考停止して、与えられた話題を口にして、感情を薄めて笑って。

そんなことを繰り返して、何になる?

この先、すべての仕事がAIに代替され、スキルよりも“考えられる人間”が問われる未来がくるというのに。

本当に賢い人間なら、未来に備えるべきだろう。

僕は誰にも気づかれないように、イヤフォンを外した。

彼らの雑音に混じるのが、たまらなく嫌だった。

「おーい、小林!」

顔を上げると、小川が手を振っていた。

成績は平均以下、明るくて誰とでもすぐ仲良くなるタイプ。

いわゆる“いい奴”で、典型的な陽キャだ。

だけど僕は、彼のことを内心では軽蔑していた。

努力も思索もせずに、「みんなと楽しく」が正義だと思っているような人間だ。

──僕の“友人”。

一応、そういうことになっている。

世間体のため。

「高校生活を楽しんでいます」と、他人に見せるための飾りにすぎない。

「昨日さ、美希ちゃんから聞いたんだけどさ。お前のこと、好きらしいぞ?」

「話したこともないのに? 僕の何を知って好きになったんだろうね」

「出たよ〜、そういうとこ! いいじゃん、好きになるのに理由なんていらねーって!」

……くだらない。本当に、くだらない。

高校生の恋愛なんて、どうせ長続きしない。

何も知らないままくっついて、何も学ばないまま別れる。

それに感情を消耗して、自分の価値を誰かに委ねて、傷ついて。

そんなものに、なぜ貴重な時間を費やせるんだろう。

僕は勉強する。

努力して、官僚か医者になる。

凡人と同じ土俵に立たないために。

笑っている連中の何十倍も考えて、何百倍も未来を構築する。

──それが、僕の“生き方”だった。

放課後。

帰り道の交差点で声をかけられた。

「小林くん、偶然だね! 良かったら一緒に帰らない? 家の方向一緒でしょ?」

美希だった。

ふわっと軽い声。

笑うと少し目が細くなる顔。

クラスでは明るくて、男女問わずに話しかけられているタイプ。

なるほど、たしかに人から好かれる要素は揃っている。

「ああ、うん。別にいいよ」

並んで歩く道すがら、美希は話し続けた。

内容は予想どおりだった。

「あのドラマ、泣いた〜!観た? 絶対観て!」

「今日の空、めっちゃ綺麗じゃない?」

「猫ちゃんがさ、足にスリスリしてきてさ〜、可愛すぎて死んだ!」

──ドラマなんて観る時間はないし、空は昨日と同じでしかないし、猫が可愛いなんて、動画でも見ていればいい。

どうでもいい。

それでも、美希は楽しそうに笑っていた。

そんな彼女を見ながら、ふと思った。

──いずれ、僕もこういう子と付き合って、結婚して、子どもができて、老いて、死ぬのか。

何も起こらない人生。予想どおりの未来。退屈だけど、安全で、正しい。

だけど、何かがずっと引っかかっていた。

このままレールの上を歩くだけで、僕の人生は終わるのか?

それが“幸せ”と呼ばれるものなら、僕はその定義自体を疑いたくなる。

家に帰ると、いつもの静かなリビングが迎えてくれた。

父は市役所に勤めていて、母は小学校の教師をしている。

夕方のニュースが流れ、母の包丁の音が響く。

平和で、整っていて、模範的で、でもどこか不自然だった。

部屋に戻って、勉強机に向かう。

ノルマのように教科書を開いて、BGMとして音楽を流す。

誰が歌っているかなんて、どうでもいい。

脳が静まればそれでいい。

──音楽は、ただの“壁”だった。

思考と、退屈とを隔てる、厚めの壁。

AIと将棋を指してみたり、話題のビジネス書を拾い読みしたり、

最近バズっていた“地頭力を鍛える”系の本を読んだりして、

自分が“思考している人間”であることを、ひとつひとつ確認していた。

「歩夢、ご飯できたわよー!」

階下から母の声がした。

聞き慣れた、優しい声だった。

「はーい」

僕の家庭は、世間的には“勝ち組”に分類されるはずだった。

父も母も、真面目に働いていて、教育熱心で、収入も安定している。

塾にも通わせてもらって、模試代もケチられたことはない。

両親はいつも言っていた。

「勉強しなさい。将来の選択肢を増やすためよ」

「いま努力すれば、後でやりたいことを選べるの」

「地頭があるのはいいこと。だけど、それだけじゃダメよ」

──間違っていない。すべて正論だった。

でも、正しいだけじゃ足りないこともあるんだって、どこかで思っていた。

正しさの剣は、切れ味が鋭すぎて、

時に心には届かずに、ただ空を斬るだけのこともある。

この日までは、僕はそれでも迷わず机に向かっていた。

小説なんて、ただの娯楽。

音楽も、映画も、恋愛も、全部“意味がない”と切り捨てていた。

でも、この“秋”の中で、

僕の中の何かが、ゆっくりと、確かに揺れ始めていた。

──灰色だった世界に、わずかなノイズが混じり始めていた。

【第二章:最初の涙】

ある日の放課後。

教室に残っていた僕の背中を、いつもの声が叩いた。

「小林! 今から映画行こうぜ! 今流行ってる『最後に、隣にいてほしい人へ』ってやつ!」

振り返ると、小川がニヤニヤしながらチラシを振っていた。

“感動必至”“号泣ラブストーリー”“映画館で一番泣ける”──そんな煽り文句が踊っている。

「ああ、みんなが話してたやつか……。俺はいいや。勉強あるし」

流行りの恋愛映画。

観たところで、何かが変わるとは思えなかった。

今、恋愛している奴らは自分を重ねて泣き、

恋愛を知らない奴らは理想の未来を重ねて泣く。

どっちにしても、そんな他人の物語に一喜一憂して、自分の感情が揺れるような恋愛なら、最初からしない方がいい。

感情に振り回されることを“青春”と呼ぶなら、僕はそれを要らないと思った。

「それ、私もまだ観てないの。一緒に行ってもいい?」

横から美希が加わった。

あどけない笑顔で、当たり前のように話しかけてくる。

彼女の言葉に、小川がさらに声を上げた。

「おいおい、美希ちゃんも来るってさ。もう行くしかねえだろ、小林!」

……ここで断ったら、“付き合いの悪いやつ”って思われるんだろうな。

面倒ごとは避けたい。それだけで、僕は頷いた。

「……わかったよ。行くよ」

映画館に向かう途中も、会話はいつものように軽いものだった。

「小林くんって、映画とか観るの?」

「こいつ、映画なんて生産性がないって観ないんですよ」

「観たことくらいはあるよ」

「え、どんなの?」

「テレビでやってたやつ。バーにいる探偵が依頼を受けて謎解くやつとか、喋るライオンが出てくるやつとか……」

「全然分かんない〜」

「おもしろそうじゃん。どうだった?」

「……まあ、展開が読めたし、特に印象には残ってない」

小川が肩をすくめる。

「お前さ、生きててつまんなそう〜」

──じゃあお前らは、どうなんだよ。

不細工なのに女にモテるミュージシャンの下品な曲に人生を救われたって言って、

学生時代友達もいなかった陰キャが描いたアニメで胸を熱くして、

欲望と虚飾でできた“見た目だけの俳優”が泣く映画に感動する。

それが、幸せな人生ってやつなのか?

──何も考えなくても感動できる人間は、安上がりでいいな。

映画館に着くと、ロビーにはカップルと女子グループばかりだった。

ポップコーン、タピオカ、フルーツソーダ。

“デート”か“映える”か、そのどちらかのために人が集まっているように見えた。

「いや〜美希ちゃんありがとうな〜。女の子ばっかりで助かった。小林と二人じゃ拷問だったわ」

「ううん、私も一人で映画観るのはハードル高かったから、ちょうど良かったよ」

「お前、興味ないって顔して、しっかりコーラとポップコーンのセット買ってるじゃん」

「うるさいよ……」

「ふふっ、可愛い」

くだらない。

でも、ポップコーンがあれば、せめて無駄な時間を咀嚼できる。

──映画なんて、時間の浪費だ。

そう思っていた。

……そのときまでは。

映画は、静かな病室から始まった。

白い天井。酸素の音。

シーツの上で手を握り合う、老夫婦。

──「大丈夫だよ。最後まで、ちゃんとそばにいるからね」

画面が暗転し、時間は過去へと遡る。

若い頃のふたりが出会い、ぎこちなく言葉を交わし、恋に落ち、同棲し、結婚する。

夜中のラーメン屋、ケンカ、妊娠、出産、すれ違い、再会、再びのラーメン。

季節が巡り、月日が重なり、人生がゆっくりと色を変えていく。

物語は、再び病室に戻る。

老いた彼が、妻の手を握り、かすれた声で話す。

──「ラーメン、また一緒に食べたかったな。君との時間は、全部が宝物だったよ」

──「最後に隣にいてくれるのが君で、本当に良かった。ずっと、ずっと愛してる」

照明がふっとついて、エンドロールが流れた。

館内は静かだった。

それなのに、どこかで泣き声が聞こえた。

鼻をすする音、息を呑む音、濡れた指で目元を拭う音。

隣の小川と美希も、目を真っ赤にしていた。

小川が僕の顔を見て、驚いたように言った。

「お前……泣いてるじゃん」

美希が微笑むように囁いた。

「小林くん……映画で泣くとか、なんか意外。でも、素敵だよ」

その瞬間、ようやく自覚した。

頬をつたう温かいもの。

目の奥に残る熱。

胸の奥が、ずっと波打っている。

──僕は、泣いていた。

最後に涙を流したのがいつだったかなんて、思い出せなかった。

叱られて泣いた子ども時代?

傷ついた恋?

いいや、それらとは全く違う何か。

これは、名前のない感情だった。

他人の人生を通して、自分の心の底が揺さぶられた。

ストーリーに引っ張られたのではない。

“そこにあった愛”を、僕は確かに見たんだ。

──空が、今日だけ特別に綺麗に見えた。

──風が、肌をやさしく撫でていた。

──電線にとまる鳥が、妙に嬉しそうに見えた。

──猫が通り過ぎる足音すら、音楽のように聞こえた。

日常の全てが、少しだけ輝いていた。

この名前のない感情がなんなのか、知りたくてたまらなかった。

帰宅してすぐ、スマホで映画の情報を調べた。

監督、脚本、主演──どれも違う。

僕が心を奪われたのは、原作小説だった。

──“この物語は、著者がかつて愛した人へ送る、最後のラブレターです”

その一文に、胸がざわついた。

ただの作り物じゃなかった。

誰かの“ほんとう”がそこにある気がした。

翌日、本屋へ向かった。

教科書以外の本を買うためにレジに並ぶのは、たぶん初めてだった。

読み始めてすぐ、映画とは違う世界が開いた。

映像がない分、言葉がダイレクトに心に響いた。

声も表情も、全部が僕の頭の中で、僕のためだけに再構成された。

──「ねぇ、今でも覚えてる? あの時の夜風の匂い」

──「君が笑っただけで、明日を信じられたんだよ」

読了と同時に、また涙が零れていた。

これは、愛を告げる物語なんかじゃない。

きっと、誰にも届かなかった言葉を、世界に放つための祈りなんだ。

作者は、自分の気持ちをどうしても伝えられなくて、物語に託したんだ。

それが、たまたま僕の心に刺さっただけだ。

でも、その“たまたま”が、世界を変える。

──言葉には、景色を変える力がある。

僕は、人生で初めて知った。

心を動かされるって、こういうことなんだ。

この日から、僕の世界は少しだけ塗りかけのまま、色づき始めていた。

【第三章:捉えなおす世界】

それからの僕は、早かった。

まるで渇いていた喉が水を求めるように、小説を読んだ。

流行りの恋愛小説、百年読み継がれている古典、芥川賞・直木賞を取った作品。

何冊も、何十冊も、目を通した。

けれど、どれもが心を打つわけではなかった。

難しい言葉を連ねすぎて、映像が浮かばない小説。

どんでん返しのために退屈を我慢させられるミステリー。

自意識だけが膨らんで、結局何が言いたいのか分からない“文学”。

どこかで聞いたことがあるような、既視感だけの青春物語。

──これが、名作と呼ばれるものなのか。

ページを閉じながら、そう何度も思った。

でも、ある作品に出会ったとき、僕は再び泣いた。

言葉が、やさしく、鋭く、心に触れてきた。

一行一行が、呼吸のように自然で、深くて、静かだった。

登場人物の声が、心の奥に直接届いた。

ページを捲るたびに、僕の世界は少しずつ色づいていった。

──これだ。

これが、僕が味わいたかった“美しさ”だ。

その作品は、物語の力を教えてくれた。

目に映る景色の意味を変えてくれる。

同じ空でも、同じ音でも、心が変われば受け取る色が変わる。

人は、捉え方ひとつで、世界をいくらでも塗り替えられるのだと。

それ以来、僕は、読むことに夢中になった。

昼休みも、放課後も、本を読んだ。

電車の中でも、風呂の中でも、ベッドに入ってからも、手はページの上を離さなかった。

小川や美希に言われた。

「小林、お前最近ずっと本読んでるよな。成績下がってるって噂だぞ」

──どうでもいい、と思った。

テストの順位も、将来の安定も、今はどうでもいい。

世界が色づいて見える、その“瞬間”を味わいたかった。

小説の中では、知らなかった言葉が無数に踊っていた。

それを調べ、覚え、使ってみたくなる。

僕の辞書アプリの検索履歴は、詩人みたいに美しい単語で埋まっていった。


ある日の放課後。

小川と美希と三人で、校舎の裏にあるベンチで話していた。

「なあ、小林。最近はどんな小説が刺さったんだ?」

小川が冗談混じりに訊く。

「これ、良い。セリフ、描写、すべてが綺麗だ。読んだあと、外を見て思ったんだ。……雨すらも、美しいって」

「……なに言ってんだ、お前……おかしくなったんじゃねぇの?」

「素敵だよ、小林くん」

美希が笑った。「本当にそういうふうに思えるなら、世界はきっと素敵なんだと思う」

僕は頷いた。

「人は、捉え方ひとつで、同じ世界をまったく違う色で見ることができる。小説には、その“視点”を変える力がある」

「やめてくれ〜! ついていけねぇ! もう、全然わかんねーよ!」

小川は頭を抱えて笑っていた。

「……でもさ」

僕はふと、空を見上げた。

「こうやって何気なく話してるこの時間も、きっと“今だけ”なんだと思う。いつかこの放課後を思い出す日が来るって、今なら分かる」

美希はその言葉に、少しだけ驚いたような顔をして、それから優しく笑った。

「いつか、小林くんの書いた小説、読んでみたいな」

僕はその言葉を、黙って受け取った。

小川の言葉は、正論だった。

「官僚か医者になるって言ってたお前が、なんで小説なんかにのめり込んでんだよ。なれるかもわかんねーだろ?」

──その通りだと思う。

勉強して、進学して、安定した職業について、家庭を築いて、老後を迎える。

それが世間の言う「正しい人生」だ。

その道から逸れた瞬間、社会は「失敗」と呼ぶ。

でも僕にとって、その“計算された幸せ”は、ただのシミュレーションに見えた。

予想通りに進む人生は、小説に例えるなら凡作だ。

すべての展開が先読みできる物語に、誰が心を動かされる?

──僕は、読者でいたくなかった。

物語を、描く側に回りたかった。

帰宅してすぐ、僕はノートを広げた。

小説を書いてみようと思った。

自分の手で、世界を“色づける”文章を綴ってみたいと、心から思った。

しかし、それは想像以上に難しかった。

前半と後半で辻褄が合わなかった。

登場人物の言動に矛盾が生じた。

最初に書いたことを思い出すために、何度も自分の文章を読み返した。

──文章を書くって、こんなに疲れることだったのか。

構成を練って、プロットを組み立てて、語彙を探し、推敲を重ねる。

今まで馬鹿にしてきた“退屈な小説”も、完成させるまでにどれだけの時間と神経が使われたか、ようやく理解できた。

僕は、あらゆる短編を書いてみた。

家族の物語。

恋人の話。

死にゆく人の独白。

SNSに上げると、ぽつぽつと感想が届いた。

「感動しました」

「この物語に出会えてよかった」

「小説家の卵ですね」

──たった数行の感想でも、心が跳ねた。

この世界のどこかで、僕の言葉を読んでくれた誰かがいる。

その事実が、何よりのご褒美だった。

僕は創ることに夢中になっていた。

これまでの僕は、与えられたものを消費するだけの存在だった。

でも今は違う。

頭の中の言葉を形にし、自分の景色を他人に渡す。

そんな“創造の快楽”に、僕は取り憑かれていた。

音楽も、映画も、アニメも、街並みも、通学路の電柱も、全てが“種”になった。

この花は、物語の比喩に使えそうだ。

この風景は、登場人物の心情に重ねられるかもしれない。

人と話すことも、ただの雑音ではなく、“何か”のきっかけに変わった。

──アウトプット先があると、インプットは世界そのものになる。

それに気づいた僕は、ようやく言えた。

「自分のためにならない趣味は無駄だ」なんて、昔の自分は間違っていた。

今の僕にとって、映画も、音楽も、友人との会話さえも、すべてが意味を持っていた。

世界が、ようやく“使えるもの”に見えはじめていた。


ある日、僕は両親に真剣な顔で呼び出された。

「歩夢、成績がどんどん下がってるらしいな」

父が切り出した。

「うん、知ってる」

「学校の先生からも連絡があった。ずっと小説ばかり書いてるって」

母が少し心配そうに言う。

「歩夢、小説家にでもなるつもり?」

「うん」

父の眉がピクリと動いた。

「今まで積み上げてきたものを捨てるつもりか? 後悔するぞ。“あのとき逃げなければ”“頑張っていれば”って、いつか絶対に思う日がくる」

「それは、“小説を書いていれば”って後悔も同じでしょ?」

「お前は今、“必ず手に入る未来”と、“得られるか分からない夢”を天秤にかけてるんだぞ?」

「でも、得られるか分からないからこそ、魅力的なんだよ」

「……それは若いから言えるんだ。お前はまだ、“失うこと”の重さを知らない。安定ってのは、退屈の裏にある幸福なんだ」

「市役所でしか働いたことのない人間が、世界の幸福を語るのは滑稽だよ」

「お前──!」

「まあまあ」

母がやわらかく割って入った。

「私は、歩夢がここまで何かに夢中になってるの、初めて見た。……ちょっとくらい様子見てもいいと思うよ」

父はしばらく黙っていた。

そして、低い声で言った。

「……分かった。ただし、勉強はしろ。お前はまだ16歳なんだ。“一つに絞る”には早すぎる。逃げ道は、残しておけ」

──父の言葉は、正しかった。

でも、正しさだけの剣は、僕の胸には届かなかった。

【第四章:色づいた余白】

それから、僕は学校に行かなくなった。

通学路の朝の匂いも、チャイムの音も、制服を着る感触すらも、少しずつ生活から抜け落ちていった。

代わりに、机の上には原稿用紙とパソコン。

日々のほとんどを、物語を書くことに費やしていた。

短編を書いてはネットに投稿し、小さな文学賞に応募する。

自分の名前で、知らない誰かに“世界の切れ端”を手渡す。

それが僕の毎日だった。

音楽が、こんなにも心を震わせるものだったなんて知らなかった。

映画が、こんなにも感情を揺さぶってくるものだなんて思いもしなかった。

風も、光も、街の雑踏も、すべてが“書くための種”に見えた。

僕は、今まで見えていなかったものを、たくさん拾っていた。

そしてそれらを、できる限り綺麗な言葉で、誰かに渡そうとした。


美希や小川とは、たまに会っていた。

かつては“体裁のため”だった人間関係も、今では大切な“観察と記録の対象”だった。

僕にとって、青春という時間は、作品を耕すための土壌だった。

ある日の花火大会。

夕焼けを背に、駅の改札で待ち合わせた三人。

浴衣姿の美希は、なんとなくいつもより大人びて見えた。

「ほら、小林くん誘って良かったでしょ?」

「……まあ、な」

小川は照れたように頭をかいた。

夜空に音が弾け、無数の光が咲いた。

「……花火って、綺麗なんだな」

ふと、僕は口にしていた。

「前は、暑いし混むしうるさいしで、なんで見に来るんだろうって思ってた」

美希が笑う。「でも今は違うんでしょ?」

「うん。光も、音も、人のざわめきも、全部、今だけの景色に思える」

「お前、変わったな」

小川が真面目な顔で言った。

「小林、お前の成績、もう落ちるとこまで落ちてるらしいぞ。ギリギリ二年生にはなれたけど、このままじゃ三年には進級できないってさ。……大丈夫なのかよ?」

「大学も、高校も、もういいかなって思ってる」

僕は小さく答えた。

「やりたいことなら、もう見つかってる。僕にとって勉強は、もう“選択肢を増やす道具”じゃない。必要ないんだ」

小川は、しばらく黙っていた。

美希が微笑んだ。

「小林くんらしいと思うよ」

打ち上がる光の下で、二人の横顔を見た。

小川の真剣なまなざし。

美希の笑顔。

夜空に散る火花。

人混みのざわめき。

すべてが、今この瞬間にしか存在しない、かけがえのない景色だった。

──僕は、本当に、小説に出会えてよかった。


書いて、書いて、書きまくった。

自分には才能がないのかもしれない。

選んだ道を間違えたのかもしれない。

そんなふうに思う夜もあった。

けれど、あの日スクリーンで見た風景、ページの中で出会った“感情の名前”、

それらが僕に刻んだ“景色の彩度”は、嘘じゃなかった。

夜の部屋は、いつも静かだった。

キーボードの音だけが、世界に文字を刻んでいく。

賞には落ちた。

応募しては落ち、投稿しては反応が薄い。

少しずつ、現実が体温を奪ってくる。

“僕の選択は、間違っていたのかもしれない”

そんな声が、何度も胸の奥から湧いてきた。

でも、戻ろうとは思わなかった。

もう、戻れなかった。

気づけば、両親の会話が耳に入ってくる。

「なんでああなってしまったんだ……」

「育て方を間違えたのかもね」

「お前があの時肯定したからだろ!」

「あなたがずっと押しつけてきた反動じゃないの?」

──どうでもよかった。

いや、本当はどうでもよくなかったけど、もう“書くこと”の邪魔になる感情は、全て“種”に変換することにした。

すべてを、物語の燃料に。


最近は、夕方の散歩が習慣になっていた。

理由は、親に顔を合わせづらいから──だけじゃない。

夕陽に照らされた街が、ただただ綺麗だった。

川の水面が、金色に光っていた。

買い物帰りの主婦が、袋を下げて信号待ちしていた。

犬のリードを引く老人、部活帰りの学生、神社の前で将棋を指している爺さんたち。

風の中の声、音、匂い──

全部が、胸にしみた。

何度もシャッターを切るように、僕は目の前の景色を焼きつけた。

そして、言葉に変えていく。

──僕は、世界を“撮っている”。

──それを“描いている”。

──そうすることでしか、生きている実感を得られない。

ある日の夕方。

橋の下を歩いていると、小川と美希が並んで歩いているのが見えた。

手を繋いでいた。

「俺があの時、映画誘ったのが悪かったのかなぁ……」

「え?」

「小林が、ああなっちまったのって、俺のせいだったのかなって」

「……大夢は何も悪くないよ。小林くんは、小林くんのまま、今いちばん幸せなんだと思う」

「……それなら、いいんだけど」

──この感情も種になる。



数日後。

ようやく、満足のいく短編が書き上がった。

僕は、新人賞の応募フォームに原稿を貼りつけ、送信ボタンを押した。

──送信完了。

たったそれだけの操作なのに、心臓が強く脈を打った。

まるで、自分の命の一部を送り出したような感覚だった。

僕のこの選択が、正しいかどうかは分からない。

未来にならないと、その答えは出ない。

もしかすると、あの日軽蔑していた馬鹿な連中に僕もなってしまったのかも知れない

でも、少なくとも──

灰色だった世界は、今、僕の目には色づいて見える。

誰かの言葉で、物語で、世界は塗り替えられる。

そう信じる心だけは、嘘じゃない。

もし、僕の描いた物語が、誰かの目に届いて、

ほんの少しでもその景色を変えられたなら。

その人にとって、世界が明るく見える瞬間が生まれたなら。

──それだけで、もう十分なんだ。

物語を書くことは、未来に手紙を送ることだと思う。

それを誰が読むかなんて、分からない。

でも、その手紙が届くことを信じて、僕は書き続ける。

世界はまだ、塗りかけで。

けれど、だからこそ──

この余白には、僕が描いていい。


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