ノンパレル・クラブの醜聞【ホームズ・パスティーシュ】
魚市場
ノンパレル・クラブの醜聞
……ホームズは、このところ極めて重大な二件の事件に携わっていた。第一の事件では、「ノンパレル・クラブ」における有名なカード不正事件に関連し、アップウッド大佐の非道なる行状を白日のもとに晒したのである……。
(『バスカヴィル家の犬』より)
− ノンパレル・クラブの醜聞 −
秋のロンドンは、煤煙と喧騒に満ち、帝国の栄光を背景に微かなざわめきを響かせていた。今なお鮮明に記憶するノンパレル・クラブの事件は、シャーロック・ホームズの最も鮮烈な勝利の一つとして私の心に刻まれている。
ヴィクトリア女王の即位五十周年を祝うゴールデン・ジュビリーを翌年に控え、街は華やぎに沸いていた。街灯の光は石路に揺れ、裏通りでは労働者の叫びと貴族の虚飾が交錯していた。ロンドンの空気には、繁栄の裏に潜む暗い秘密が漂っていた。
ベーカー街221Bの居間では、暖炉の火が赤い影を投げ、ぱちぱちと弾けていた。私は肘掛け椅子に腰を下ろし、タイムズ紙を手にしていたが、記事は一向に頭に入らず、隣の部屋から響くヴァイオリンの音に心を奪われていた。
シャーロック・ホームズが、リストの「ハンガリー狂詩曲 第2番」を奏でていたのだ。嬰ハ短調の旋律は、情熱と自由なリズムで部屋を満たし、激しい音階と繊細な調べが私の耳を捉えた。ホームズの弓は、まるで魔法のようで、ロイヤル・アルバート・ホールの舞台を思わせた。
「相変わらず、君のヴァイオリンは素晴らしい! リストの曲をこんな風に弾ける人は、ロンドンでもそういない」
ホームズは窓辺に立ち、演奏を終えて弓を下ろすと、椅子に腰を下ろした。彼はテーブルの上のタイムズ紙を手に取り、紙面をめくりながら微笑を浮かべた。
「ワトスン、君の賞賛はいつも真っ直ぐでいい。しかし、音楽はただの息抜きだ。今朝の新聞を見ると、ロンドンがどれだけ虚栄に満ちているかがよく分かる」
「虚栄?」
私は新聞を膝に下ろし、眉を上げた。
「ホームズ、何か面白い記事でも見つけたのか?」
彼は紙面を指で軽く叩き、鋭いまなざしを向けた。
「ワトスン、貴族の社交場は堕落の淵にある。ジュビリーの祝賀に向けてロンドンは盛り上がっているが、オペラの新作や競馬に熱狂し、サロンやクラブでは毎晩ブランデーと葉巻が消えていく。タイムズの記事によると、サー・ヘンリー・タルボットの愛人に関する醜聞が社交界を騒がせ、貴婦人たちが彼の破滅を囁いている。帝国の動きも気になる。インドのセポイ反乱の余波は続き、南アフリカではボーア人の不穏な動きが報じられている。しかし、新聞は表面しか書かない。ロンドンの裏には、もっと深い秘密が隠れている」
私は首をかしげた。
「タルボットの話は僕も耳にした。確かに、華やかさの裏で、社交界は醜聞だらけだ」
ホームズは笑みを深めた。
「ワトスン、ロンドンの夜では、どんな噂にも裏がある。貴族のサロンは欲望と策略の戦場だ。笑顔の裏には、金銭や名誉、時には犯罪が潜んでいる」
暖炉の火が激しく弾け、新たな影を投げかけた瞬間、階段を駆け上がる慌ただしい足音が響いた。ドアが勢いよく開き、若い紳士が姿を現した。
彼の顔は青ざめ、目は絶望と恐怖に揺れていた。四十代半ばと見える紳士は、震える手でステッキを握りしめていた。
「失礼、お邪魔します」
紳士は震える声で挨拶し、暖炉の光に青ざめた顔をさらした。
「ホームズ様、ワトスン博士、お二人の活躍は、ストランド誌の記事で拝見しております」
彼はステッキを握りしめ、ためらいがちに続けた。
「私はチャールズ・モートンと申します。どうか、この愚かな男を救ってください!」
ホームズはモートン氏を一瞥すると、椅子から立ち上がらずに口を開いた。
「モートン氏、銀行の融資担当者ですね。昨夜はクラブで遅くまでカードゲームに興じ、馬車で帰宅する途中にパブに寄った。結婚して久しいが、最近は経済的に厳しい状況だ。どうぞ、座って話してください」
私は唖然としてホームズを見た。彼の観察力にはいつも驚かされるが、こんな短時間でこれだけの情報を。
モートン氏は目を見開き、言葉を失ったようだった。
「ホームズ様、どうしてそのことを……?」
ホームズはほくそ笑み、指を軽く振った。
「簡単なことです、モートン氏。貴方の燕尾服は高級だが、袖口の擦り切れとコートの仕立てから、数年前のものだと分かる。右の手袋のインク染みと、左手の指に残るペンの跡は、銀行の帳簿を扱う仕事を示している。銀行の融資担当者は、社交界で顔を広げる必要があるから、クラブ会員である可能性が高い。コートの裾の泥は、ロンドンの裏通りを歩いた証拠だ。馬車の車輪が跳ね上げた泥の模様から、急いで移動したと分かる。シャツの襟の汗と、ポケットに突っ込まれたパブのマッチは、昨夜の寄り道を物語っている。結婚指輪の内側の磨耗は、家庭を持つ男が長年つけている証だ。だが、ネクタイの緩みとステッキの握り方から、経済的困窮による精神的動揺が見える。銀行員という安定した職につきながら、金に困っている。……もしかすると、賭け事に関する問題ですか?」
モートン氏は呆然とし、椅子に崩れるように座った。
「ホームズ様、驚くべきことに、すべてその通りです! 私はロイズ銀行の融資担当で、妻のキャサリンと娘のリリーがいます。しかし、昨夜、ノンパレル・クラブで破滅しました。私は全財産、2,000ポンドを一晩で失ったのです! アップウッド大佐のイカサマに違いありません!」
ホームズは軽く肩をすくめ、眉を寄せた。
「モートンさん、落ち着いて、最初から話してください。アップウッド大佐とはどんな人物で、なぜイカサマを疑うのですか?」
モートン氏は身震いする手で椅子に座り、額の汗をハンカチで拭った。彼の目は血走り、声は震えていた。
「アップウッド大佐は、戦場で名を馳せた軍人だったらしいのですが、ノンパレル・クラブでは誰もが怯える存在です! 堂々とした姿勢、揺るぎない落ち着きで、賭博のテーブルを牛耳る底知れぬ男です」
モートン氏は血走った目で訴えた。
「その不自然な勝ち方は、イカサマでなければ説明がつきません! 私の全財産を奪った彼の術中に、皆が恐れおののいているのです。私はノンパレル・クラブの会員で、ウィスキーポーカーというカードゲームに夢中でした。このゲームは、数年前にとあるアメリカ人商人がロンドンに持ち込んだものです。彼はミシシッピ川の蒸気船でギャンブラーとして名を馳せた男で、その粗野な遊びを貴族のサロンに広めました。酒飲みだった彼に因んで、ウィスキーポーカーと呼ばれています。今では、ウィスキーポーカーはノンパレル・クラブのテーブルを席巻し、貴族たちが毎晩、葉巻とカクテルを片手に賭けに興じています」
「ウィスキーポーカーについて詳しく教えて頂けますか?」
ホームズの問いに、モートン氏は目を伏せ、続けた。
「ウィスキーポーカーは、52枚のカードを使い、4人から6人でプレイするゲームです。各プレイヤーに5枚のカードが配られ、テーブルの中央にウィドウと呼ばれる5枚のカードが表向きに置かれます。レイヤーは手札をウィドウと交換するか、ウィドウ全体を取るか、パスするか選び、誰かがノックを宣言するとゲームが終わり、最強の手札を持つ人が勝ちます。多人数での駆け引き、ウィドウの変化、ノックの緊張感、相手の意図を読むスリルに、私はすっかり取り憑かれました。妻には『社交の場だ。仕事のために必要だ』と嘘をついていましたが、実際は賭けの虜だったのです」
モートン氏は声を詰まらせ、目を潤ませた。
「妻と娘は僕の帰りを待っていました。でも、私は彼女たちを裏切り、家の貯金を賭けに注ぎ込みました。先週、アップウッド大佐とのゲームで、2,000ポンド――私のほぼ全財産を賭けてしまったのです」
彼はハンカチを絞り、声を震わせた。
「最初は良い手札が揃い、興奮しました。ウィドウにスペードの10、ジャック、キングが並び、私はクラブのエースと9でストレートを狙いました。勝利を確信し、賭け金を吊り上げたのです。だが、アップウッド大佐は冷笑を浮かべ、『モートン氏、運は続くかな?』と囁き、冷静にチップを積んだ。その言葉に血が上り、さらなる賭けにのめり込みました。ウィドウを操る彼の手は、私の意図を読み切るようで、フォーカードやフルハウスで圧倒されました。一晩で全てを失い、妻に顔向けできません。キャサリンは泣きながら『家を売るしかない』と言いました。リリーの未来を奪ったのは私です」
ホームズは静かに頷き、モートン氏の言葉に耳を傾けた。
「具体的には、どんなイカサマを疑っているのですか?」
モートン氏は声を強めた。
「最初は、カードの裏に爪やインクで印をつける手口を疑いました。数年前、ブライトンのクラブでそんな事件があったと聞きました。でも、ノンパレル・クラブでは毎ゲーム、封のされた新品のトランプを使い、ディーラーが厳重に確認します。印をつける暇はありません」
ホームズは目を閉じ、指を軽く叩いた。
「他には?」
「次に、鏡を使ったイカサマを考えました。アメリカの賭博場で、テーブル下に鏡でカードを反射させる手口が使われたと聞きました。でも、ノンパレル・クラブのテーブルは厚いオークの一枚板で、隠し仕掛けはありません。ディーラーも信頼できる古株ばかりです」
「ふむ、興味深い」
ホームズが呟いた。
「共謀者がいた可能性は?」
私は思わず口を挟んだ。
「もちろん、共謀者による秘密の合図のようなものも疑いました」
モートン氏が続けた。
「咳や指の動き、テーブルを叩く音で情報を伝える手口です。ウィスキーポーカーは多人数で行うゲームなので、他のプレイヤーがアップウッド大佐と共謀して私を嵌めた可能性も考えました。でも、ディーラーや観客の目が厳しく、複数の共謀者が揃って動くのは難しいはずです。それに、アップウッド大佐は見知らぬ相手に囲まれても勝ち続けました。彼の目は氷のようでした」
ホームズは眉を上げた。
「他の参加者の共謀は、一番魅力的な仮説ですね。しかし、話を聞く限り、アップウッド大佐は本当にポーカーの才能があるだけなのかもしれない」
モートン氏の目は恐怖で揺れた。
「私も最初はそう思っていました。経験と観察で勝ちを拾っているのだと。ですが、一番恐ろしいのは、アップウッド大佐が目隠しでウィスキーポーカーに勝ったことです! 余りの勝率に不正を疑う声が上がったことがありました。すると大佐はネクタイで目隠しをすると言い出したのです。何も見えないはずなのに、ウィドウの交換、ノックの瞬間、すべてが完璧でした。私はその夜、彼のテーブルにいましたが、目隠しでチップの山を積み上げるのを見て、絶望しか感じませんでした。イカサマでないと、説明がつきません」
その話に、ホームズの目は好奇心で輝いた。
「……目隠し、ですか。非常に興味深い。モートン氏、明日、ノンパレル・クラブを訪ねましょう。ワトスン、君も一緒に来てくれるな?」
私は頷いた。ホームズの声には、抑えきれぬ好奇心と謎への渇望が滲んでいた。アップウッド大佐の謎に挑む彼の決意が、まるで燭台の光のように揺らめき、私の心を昂ぶらせた。
翌晩、夜の帳に包まれたロンドンを馬車で進み、ノンパレル・クラブへ向かった。新聞売りの叫び声や点灯夫の足音が夜を彩っていた。
ノンパレル・クラブは、セント・ジェームズ街にひっそりと佇む、荘厳なジョージアン様式の建物だった。街灯の淡い光を受けて輝くその外観は、磨かれた白大理石の柱と重厚なオークの扉が貴族的な威厳を放ち、通りすがりの者を圧倒した。
高い窓には緋色の垂れ幕が垂れ、かすかに漏れるシャンデリアの光が石路に揺れた。入口脇の真鍮製の銘板には『ノンパレル・クラブ』と控えめに刻まれ、選ばれた者だけがその扉をくぐることを許された。
裏路地に目をやれば、馬車の車輪が残した泥と給仕が吸う葉巻の煙が、華やかな表舞台との対比を際立たせていた。
オークの扉をくぐると、ホールは華やかさに満ちていた。葉巻の煙と紳士たちの笑い声、ピアノの音色が響き合てっいた。反射に夜イカサマを防ぐためだろうか、家具やピアノにはベルベットの総織布がかけられている。
ポーカーのテーブルでは、ゲームの参加者達が、テーブル上の小さな銀製のカードスタンドに置かれた手札を見つめ、思案していた。チップの軽やかな響きとカードの動きが緊張感を漂わせ、会員たちは燕尾服やシルクのドレスで身を飾り、ブランデーやウィスキーを手に財と名声を競っていた。
私はその壮麗さに目を奪われたが、モートン氏の青ざめた顔に心を痛めた。彼は大金を失ったテーブルを見つめ、震える手でステッキを握りしめていた。
ホームズはホールを見渡し、静かに囁いた。
「ワトスン、モートン氏、アップウッド大佐のイカサマを検証するには、実践が必要だ。ノンパレル・クラブの監視体制を確かめる。君たちは観客席で観察してくれ」
「ホームズ、君がイカサマを? 危険じゃないか!」
ホームズは微笑を浮かべた。彼の目には決意が宿っていた。
「ワトスン、科学的な検証だ」
そう言うとホームズはテーブルに着き、ウィスキーポーカーのゲームに参加した。ディーラーが新品のトランプを開封し、観客の前で確認する中、ホームズはまずカードの印を試みた。
右手の爪でスペードのエースの裏に微細な傷をつけようとした。だが、ディーラーの射抜く目が即座に動きを捉え、「失礼、カードに触れる前に手を確認します」と厳しく警告。ホームズは冷静に手を引き、「失礼、カードについた埃を払っただけだ」と誤魔化した。観衆の囁き声が広がり、モートン氏が不安そうに私を見た。
次に、ホームズは鏡のトリックを試した。懐から小さな凸面鏡を取り出し、テーブルの下で反射を試みたが、うまくいかなかったようだ。
監視員が「不審な動き!」と声を上げた。鏡を瞬時にポケットに戻し、ホームズは「単なるハンカチだ」と弁明したが、観客席から「何事だ?」と不満の声が上がった。ホームズの試みはまたも失敗。観衆の不満が高まり、「不正か?」と囁く声がホールに広がった。監視員が「沈黙を!」と叱責した。騒ぎが大きくなり、ゲームは一時中断となった。
その瞬間、重厚な足音と共に五十代の恰幅の良い紳士が現れた。ジェームズ・ハリ スン氏、ノンパレル・クラブのオーナーだ。灰色の口髭と落ち着いた物腰が特徴だが、額の深い皺が悩みを物語っていた。
葉巻を手に、威厳ある声でホールに響かせた。
「皆様、沈黙を願います! ノンパレル・クラブは清廉さを誇ります。些細な誤解です。ホームズ様、説明を頂きたい」
ホームズは立ち上がり、穏やかに応じた。
「ハリスン氏、ご迷惑をおかけした。科学的な検証のため、意図的に不審な行動を試みた。カードの印、鏡、どちらも失敗し、ノンパレル・クラブの監視体制の厳重さを確認した。イカサマは不可能だ。私の軽率さを詫びる」
ハリスン氏は視線を鋭くし、観衆に呼びかけた。
「皆様、静粛に! ホームズ様はロンドン一の名探偵です。この試みは、クラブの名誉を守るための検証だった。ゲームを再開し、ノンパレル・クラブの威厳を示そう!」
観衆は拍手で応え、騒めきは収まった。ハリスン氏がホームズに近づき、低く尋ねた。
「ホームズ様、はじめまして。ノンパレル・クラブのオーナー、ジェームズ・ハリスンでございます。貴方の活躍は新聞で存じ上げております。さて、今回の検証の目的は? ひょっとして、アップウッド大佐の勝率を巡る噂についてですか?」
ホームズはほくそ笑んだ。
「ハリスン氏、鋭いご質問だ。ぜひアップウッド大佐についてお話を伺いたい」
ハリスン氏は眉をひそめ、品位を保ちながら続けた。
「アップウッド大佐は当クラブの常連です。大佐に負けた会員が『大佐の勝ち方は異常だ』と不満を漏らし、店側と共謀しているという根も葉もない醜聞のせいで会員の足が遠のいております。クラブの名誉が傷つくことは、私にとって耐え難い苦痛です」
モートン氏が身震いした。
「私もその一人だ! アップウッド大佐に破滅させられた!」
私は口を挟んだ。
「ハリスン氏、トランプ自体に細工は? かつて、印刷業者のグッドオールが不正用トランプを作った事件があった。微細な模様の違いでカードの裏を見れば表が分かるという手口だ」
モートン氏が頷いた。
「ブライトンでそんな事件を聞いた!」
ハリスン氏は反論した。
「ワトスン博士、ノンパレル・クラブはデ・ラ・ルーから新品を調達し、ディーラーが確認。細工はありえません!」
ホームズは頷いた。
「ディーラーや配膳係に、アップウッド大佐の仲間がいるということは?」
ハリスン氏は胸を張った。
「ホームズ様、当クラブは清廉さを第一としております。ノンパレル《比類なき》の名に恥じぬ自負があります。ディーラーは十年以上の経験者、さらに監視員と呼ばれるイカサマを見破る専門の従業員もおります。咳や指の動きのような合図も見逃しません。彼らには充分な給料を与えています。アップウッド大佐の勝率は異常ですが、クラブが関与するなどありえません。どうか、この客離れを食い止めるお力をお貸しください」
ホームズは穏やかに答えた。
「私はアップウッド大佐の謎に興味があるだけです。ありがとう、ハリスン氏。良ければ、職員録を見せて頂けますか?」
ハリスン氏が職員録を取りに下がると、ホームズはノンパレル・クラブの賑わいを射抜く目で見渡した。シャンデリアの光の下、賭博の熱気が渦巻き、監視員の目がテーブルを監視していた。
ホームズは会員のサー・エドワード・ハリントンに近づいた。三十代のハンサムな貴族で、最近アップウッド大佐に大敗した男だ。
ブランデーグラスを手に、テーブルの脇で立っていた彼は、ホームズを見て丁寧に頭を下げた。
「ホームズ様、ワトスン博士。まさか、高名な名探偵とその右腕に、ノンパレル・クラブでお会いできるとは、光栄です。ウィスキーポーカーに挑戦なさるのですか?」
ホームズは微笑を浮かべた。
「先程、危うく出入り禁止になりそうでした。ところで、サー・エドワード。アップウッド大佐のゲームについて伺いたい。最近、彼に負けたそうですね?」
サー・エドワードは一瞬、顔を曇らせたが、品位を保ちながら応じた。
「その通りです、ホームズ様。アップウッド大佐の勝ち方は不可解です。マンハッタンを手にすれば、ウィドウの交換もノックも完璧です。まるでカードが透けて見えるようです。笑いものですが、会員の何人かが『大佐の勝利はマンハッタンにあり』と噂し、こぞって注文したのです。ですが、まるで無意味! 私も試しましたが、チップは瞬く間に消えました」
ホームズは頷きながら質問を続けた。
「他には? 気になることはありますか」
「上手く説明できませんが、アップウッド大佐が勝つ日は、店の空気そのものが変わってしまう気がするのです」
ホームズは頷いた。
「ありがとう、サー・エドワード。参考になります」
サー・エドワードがテーブルに戻ると、ホームズは私とモートン氏に囁いた。
「ワトスン、モートン氏、アップウッド大佐の秘密については、おおよその見当がついた。しかし、確証を得るためには、もう少し調査が必要だ」
私は感服した。
「なんだって、ホームズ。考えうるイカサマは全て不可能だったじゃないか」
ホームズが答えた。
「ああ。だから選択肢が絞られたのだ。およそあり得ない方法だが、故に露見しなかったのだろう」
モートン氏は希望を目に宿した。
「ホームズ様、ワトスン博士、真相がわかれば家族に顔向けできます。どうかお願いします!」
ノンパレル・クラブを出る際、ハリスン氏が近づき、微笑みを浮かべた。
「ホームズ様、職員録の写しです。こちらは当クラブのチラシになります。どうか当クラブの名誉をお守りください」
ホームズは頷き、「感謝します」と答えた。
ハリスン氏は一礼し、シャンデリアの光に消えた。私たちはモートン氏に別れを告げ、ベーカー街221Bに戻った。
ホームズはノンパレル・クラブのチラシと職員録を手に目を凝らした。
「ワトスン、これを見たまえ」
「『マンハッタン、サービスデー限定の特別な一杯』――これが、どうしたんだ?」
「アップウッド大佐は、マンハッタンを飲むときに勝つのではない。サービスデーの日、つまり水曜日と金曜日に勝つのだ」
「ホームズ、君にはもう、答えが見えているようだな」
「ワトスン、明日はアップウッド大佐の過去について調査する」
馬車の音が響くロンドンの夜が、私たちを包んでいた。
翌朝、テムズ川の湿った空気が漂うロンドンの街を、ホームズと共に進んだ。私は彼の調査に同行し、アップウッド大佐の過去を追う任務に心を昂ぶらせていた。
ホームズの頭脳は、まるで煤けた街を貫く電信の火花のごとく鮮烈だったが、その意図は私には依然として謎に包まれていた。市場の行商人の呼び声、馬車の鈴音、煤で黒ずんだ石造りの建物が朝の活気を彩り、電信局前の人だかりが新しい一日の喧騒を物語っていた。
私とホームズは、ホワイトホールにそびえるウォー・オフィスへ向かった。このイギリス陸軍を統括する省庁は、ウェストミンスターの中心、カンバーランド・ハウスの石造りの建物に居を構えていた。
照明が薄暗い廊下を照らし、書類の埃っぽい匂いが漂う記録室は、ボーア戦争の資料を保管していた。
事務官のジェームズ・フィッツロイが現れると、ホームズはボーア戦争の資料を求めた。フィッツロイは壮年の痩せた男で、眼鏡の奥の目が鋭く、渋々とした口調で「記録は部外秘だ」と閲覧を拒んだ。
ホームズは冷静に紹介状を差し出した。封蝋に押された紋章を見たフィッツロイの顔が強張り、「これは……」と呟き、態度を改めると、書棚へと向かっていった。
「ホームズ、あの紹介状は何だ?」
私は驚愕を抑えきれず囁いた。ホームズは微笑を浮かべ、鋭いまなざしを向けた。
「とある高官からのささやかな好意だよ。政府の奥深くに隠然たる影響を持つ人物だ」
「そんな人物を、どうやって?」
私は食い下がった。
「……古い知人さ」
ホームズの声には軽い皮肉が滲んでいた。フィッツロイが革装の記録簿を持ち戻ってきた。
「マイバ・ヒルの戦闘、92歩兵連隊の記録だ」と囁いた。
ページからインクと埃の匂いが漂い、戦争の厳粛な記録が我々を包んだ。資料には、1881年2月27日のマイバ・ヒル戦闘における第92歩兵連隊の詳細が記されていた。
アップウッドは大佐は英雄として名を馳せ、ボーア軍の奇襲による連隊壊滅中、砲弾の爆風で頭部を負傷。ピアノには記録がなく、軍医の報告によると、回復後は脳の損傷により、いくつかの障害が残った、と記されていた。
ホームズは眉を寄せ、名簿を指でなぞった。
「ワトスン、興味深い記録だ。脳への損傷は認知に様々な影響を及ぼすらしい」
「まさか、アップウッド大佐は本当に戦争の負傷で、透視能力を得たというのか」
一方、ホームズは小さく笑い、首を振った。
「ワトスン、透視など荒唐無稽だ。だが、君の勘は当たらずとも遠からずだよ。戦争が、普通ではない能力をアップウッドに与えたかもしれない」
フィッツロイが書棚の影から戻り、低く囁いた。
「アップウッド大佐のことをさらに詳しく知りたいなら、『赤獅子亭』へ行くといい。あのパブには、大佐の部下だった男が常連にいる」
彼の目は紹介状の封蝋にちらりと見やり、渋々とした協力を滲ませた。ホームズは軽く頷いた。
「感謝する。ワトスン、行くぞ」
私たちはウォー・オフィスを後にし、その足でテムズ河畔のパブ『赤獅子亭』へと向かった。古びた木造の店内は、退役兵で賑わい、ビールの匂いとタバコの煙が充満していた。カウンターには、傷跡だらけの木板と錫のジョッキが並び、壁には戦場のスケッチが飾られていた。
ホームズはカウンターでビールを注文し、給仕長らしき男に穏やかに話しかけた。「アップウッド大佐の部下だった常連をご存知ですか?」
給仕長はグラスを拭きながら、隅の席を顎で示した。
「あの傷顔の男が、大佐の部下だった」
ホームズは静かに頷き、その男に近づいた。傷跡が戦争の過酷さを物語る男は、ビールを手にしていた。
「失礼、アップウッド大佐をご存知ですか」
ホームズは穏やかに切り出した。傷顔の男はビールを握る手を止め、目を細めてホームズを睨んだ。
「警察か?」と低く唸り、傷跡が照明に浮かぶ顔に警戒が走った。
ホームズは微笑を浮かべ、静かに首を振った。
「いいえ、シャーロック・ホームズ、探偵です。ノンパレル・クラブでの醜聞について調べています」
その声は誠実で、鋭さを隠した。パブの喧騒が薄暗い空気を満たし、燭台が傷顔の男の傷跡を照らした。彼はビールをテーブルに置き、驚きと疑いの目でホームズを見た。
彼はビールを一口飲み、遠くを見つめた。「アップウッド大佐か」と呟き、眉を寄せて過去をたどるように沈黙した。
「アップウッド大佐は英雄だったが、爆風で倒れた後、別人になった。怪我からの回復後、俺たちを見ても誰だか分からない様子だった。軍服の襟や歩き方で話しかけてきた。『92連隊の伍長、お前、クラークだな』と、顔じゃなく階級で判断するんだ。戦友の顔を忘れたような口ぶりだった。戦争の心的外傷のせいかと思い、誰も深くは聞かなかったが」
男は肩をすくめた。私は傷顔の男の話を聞いて、思い出したことがあった。
「ホームズ、脳の損傷が記憶に影響したのか? 昨年『ランセット』で似た症例を読んだことがある。馬車の事故で頭部を負傷した患者が、家族の顔を思い出せなくなったという。妻を『赤いドレスの婦人』と呼び、友人を帽子や歩き方で判断したそうだ。側頭葉の損傷がこうした異常を引き起こすとされている」
ホームズに小声で伝えると、彼の目は輝いた。
「ワトスン、興味深い! その記事は今も手元にあるか? 後で確認したい。話を聞かせてくれて、ありがとう」
ホームズは傷顔の男に感謝を告げ、自分の持っているジョッキを男のジョッキにぶつけると、一気にビールを飲み干した。
私たちは赤獅子亭を出て、ベーカー街への帰路についた。221Bの部屋へ戻ると、暖炉の火が赤く揺れていた。私は書斎の棚から『ランセット』の1885年7月号を取り出し、ホームズに手渡した。
「ホームズ、これだ。『頭部外傷後の認知異常』という論文だ。馬車の事故で負傷した商人が、顔を認識できなくなった症例が詳しい」
ホームズは肘掛け椅子に座り、照明の下でページをめくった。彼の目は鋭く、ペンで記事の余白にメモを走らせた。
「『患者は顔の特徴を記憶できず、服の色や歩行パターンで家族を識別』――アップウッド大佐の言動と一致する。『側頭葉の損傷が原因の可能性』ともある」
私は誇らしく答えた。
「軍医として、こうした症例は印象に残る」
ホームズは雑誌を閉じながら口を開いた。
「この症例はアップウッド大佐の秘密についての鍵だ。彼の脳は異常な能力と欠陥を同時に抱えている可能性がある。私はモートンを提示で、ある計画を立てようと思う。ワトスン、そのために三日ほどロンドンを離れる。その間、レストレードに電報を打っておいてくれ」
私は驚愕し、食い下がった。
「ホームズ、どんな計画だ? どこへ行くんだ?」
彼はほくそ笑み、暖炉の火を見つめた。
「ワトスン、霧の裏に隠された真実を掴むには、霧の中に入り込む必要がある。三日後、ノンパレルで会おう」
その後二日間、私はロンドンに一人取り残された。レストレードへ電報を打ち、肘掛け椅子に座り、手帳を広げ、シップの印が入ったパイプを無闇に吹かしながら思考に思考を重ねた。しかし、いくら考えてもアップウッド大佐の勝利の秘密は、私にはわからなかった。
夕方、ホームズが戻ってきた。彼は笑みを浮かべながら、私にこう言った。
「準備は整った。完璧ではないが、アップウッド大佐を欺くには十分だろう」
ホームズは計画の詳細を語ることを避けた。
「ワトスン、霧が晴れるまで待ってくれ。モートン氏の破滅の原因は、明日の夜、明らかになる」
あくる日の晩、ノンパレル・クラブのホールは、嵐の前の森のような静けさに閉ざされていた。シャンデリアの光が緋色の幕に振れ、燭台が貴族たちの燕尾服に冷たく反射した。観衆の息遣いが重く響き、葉巻の煙が賭博の熱気を漂わせた。テーブルの中心に、アップウッド大佐が君臨していた。五十代の元軍人、堂々とした体格、灰色の髪、剣のようなまなざしが敵を射抜く。マンハッタンの琥珀色を揺らす手は揺るぎなく、唇の冷笑が冷酷な知性を放った。低く響く声は、マイバ・ヒルの戦場を生き抜いた威圧感でホールを支配し、観衆を凍りつかせた。
ピアノの部屋の隅で、ピアニストが『ハンガリー狂詩曲 第2番』を奏でていた。細い指が鍵盤を滑り、情熱的な旋律が響いた
今夜のアップウッド大佐の対戦相手は、依頼人であるモートン氏――彼はホームズにやや強引に参加させられた――そして、サー・ジェームズ・ハリントン、ロバート・ブラウン、大佐に大敗を喫した三名だ。そして、大佐の正面の席には、正体不明の紳士が座っている。謎の紳士は、右手でチップを叩きながら、シルクハットを傾け、鋭い視線で、テーブルに静かな自信を放っていた。
大佐はグラスを掲げ、謎の紳士を睨んだ。
「新顔だな。名前は?」
「シャーキー・ロックスンだ、よろしく、アップウッド大佐。どうやら、貴方がこのテーブルの王のようだが、今夜は私のカードがものを言う。ゲームを楽しもう」
謎の紳士は冷静に答えた。それにしても、なんという分かりやすい偽名だろうか。
大佐は唇を歪め、低く笑った。
「面白い男だ。ひとつ、教えてやろう。ノンパレルは貴族の社交場ではない。強者が弱者を喰らう戦場なのだよ。私のテーブルで生き残れるか、せひ試してみたまえ。私を倒せるかな? マイバ・ヒルの戦場で生き残ったこの私を?」
彼の目は氷のように冷たく、声には戦場で鍛えられた威圧感があった。
謎の紳士は動じず、答えた。
「マイバ・ヒルとこのテーブルは違う、大佐。貴方の手を読むのが楽しみだ」
大佐はグラスをテーブルに置き、目を細めた。
「まるで、探偵のような物言いだな。まあいい、ゲームを始めよう」
大佐は嘲笑し、琥珀色のグラスを掲げた。観客が歓声を上げた。同時に緊張がホールを包んだ。
ウィスキーポーカーが始まった。ディーラーが新品のトランプを厳かに開封し、封の裂ける音がホールの静けさを切り裂いた。ウィドウにスペードの8、ハートの6、ダイヤのJ、クラブの4、スペードの2が並び、燭台がカードスタンドの銀縁を冷たく照らした。ディーラーの手がトランプを配り、各プレイヤーがカードをスタンドに置くたび、観衆の息遣いが止まり、緊張が空気を貫いた。ロックスンは賭け金を軽く叩き、鋭いまなざしでアップウッド大佐の微かな動きを捉えた。
アップウッド大佐はマンハッタンを傾け、唇に微笑を浮かべたが、その目は対戦相手の手札を冷酷に読み解いていた。観衆の囁き声が響き、シャンデリアの光が賭け金の山を不気味に照らした。
第一ラウンド。ロックスンはシルクハットを軽く傾け、200ポンドの賭け金をテーブルに滑らせた。賭け金が木の表面を叩く響きが、戦鼓のように鳴り、観衆の騒めきを一瞬止めた。
アップウッド大佐は手札を一瞥、僅かに眉を動かしてパスを宣言した。
「アップウッド大佐が降りた!」と観衆が囁き合い、ホールに驚きの波が広がった。
モートン氏は一瞬安堵の息を漏らしたが、アップウッド大佐の冷たいまなざしに再びぞっとした。
ハリントンとブラウンもパスを宣言、視線をテーブルから逸らし、敗北を予感する兵士のようだった。
ロックスンはほくそ笑み、「今日は慎重だな、アップウッド大佐」と呟き、ウィドウのスペードの8を交換して賭け金をさらった。観衆の騒めきが再び高まり、アップウッド大佐の沈黙が嵐の前の静けさを思わせた。
第二ラウンド。アップウッド大佐は手札をじっくり見つめ、確信の笑みを唇に浮かべながら、400ポンドの賭け金をテーブルに叩きつけた。賭け金の山がテーブルを震わせ、観衆が息を呑んだ。
ロックスンは眉を上げてパスを宣言した。
「アップウッド大佐、今日は冴えているな」と呟き、微笑を浮かべた。
観衆がざわつき、「新顔が退いた!」と囁き合った。アップウッド大佐は「早々に退場か!」と嘲笑、賭け金を貪るようにさらった。
モートン氏はステッキを落とし、顔を覆った。ハリントンはグラスを握り潰しそうになり、ブラウンは拳を震わせ、テーブルを睨んだ。
レストレードは静かにアップウッド大佐を観察、その目には冷静さが宿っていた。アップウッド大佐の過信がホールの空気を重く圧した。
第三ラウンド。ピアニストが演奏の和音を変え、アップウッド大佐の眉がピクリと動いた。指がマンハッタンを強く握り、額に微かな汗が光った。
ロックスンはその動揺を捉え、800ポンドの賭け金をゆっくりとテーブルに押し出した。賭け金の響きが雷鳴のように鳴り、観衆のざわつきが止まった。「アップウッド大佐、運は続くかな?」と挑発する声は、剣を抜く音のようだった。アップウッド大佐は「生意気な!」と唸り、唇を噛んでコール。
モートン氏は震えながらパス、ハリントンとブラウンもフォールド、視線を逸らした。ウィドウの交換でアップウッド大佐の手が一瞬止まり、観衆が息を呑んだ。
ロックスンはウィドウのクラブのJを交換、静かに次の手を準備した。ホール全体が嵐の直前の静けさに閉ざされ、観衆の騒めきが緊張を増幅した。燭台の光がアップウッド大佐の汗を冷たく照らした。
第四ラウンド。アップウッド大佐の額の汗が滴り、グラスが微かに震えた。彼の目に確信の色が見えた。
ロックスンはそれを見逃さず、1,200ポンドの賭け金をテーブルに積み上げた。賭け金の山がテーブルを埋め、観衆が一斉に立ち上がった。「アップウッド大佐、全てを賭けてみないか?」と誘う声は、罠を仕掛ける狩人のように鋭い。
アップウッド大佐は「貴様の企みは読めた!」と叫び、オールインで2,000ポンドを突き出した。賭け金が崩れる響きがホールに鳴り、観衆の歓声がシャンデリアを震わせた。
ロックスンは冷静にコール、モートン氏は震えながらパス、ハリントンとブラウンは呆然と見つめた。
テーブルの空気は剣戟のごとく張り詰め、誰もが次の瞬間を待った。
ショーダウン。
ディーラーがカードスタンドの手札をめくる瞬間、ホールは死の沈黙に包まれた。観衆の目がカードに釘付けとなり、モートン氏の震える手が布を握り潰した。アップウッド大佐は10のワンペアを出し、勝利を確信した笑みが顔に浮かんだ。
「ワンペアでオールインだと!」
それまで勝負を冷静に見守っていた私も、思わず声を上げた。
「これで終わりだ、新顔!」と、アップウッド大佐が低く唸り、観衆が騒めいた。
だが、ロックスンは静かに微笑を浮かべ、カードをゆっくりと開いた。Jのワンペアだった。
ホールが沸騰し、歓声と拍手がシャンデリアを震わせた。賭け金の山はロックスンに渡り、観衆がテーブルを取り囲んだ。
アップウッド大佐はマンハッタンを叩き割り、ガラスが床に散乱した。「ヴィンセント、貴様、演奏を誤ったな!」とピアニストに向かって吼え、テーブルを拳で叩いた。
モートン氏は呆然と立ち尽くし、ハリントンとブラウンは信じられぬ顔でロックスンを凝視した。
その時、ヴィンセントと呼ばれたピアニストはゆっくりと立ち上がり、テーブルへと向かってきた。
黒い口髭と眼鏡、細い指が燭台の光に揺れ、観衆の視線が彼に集まった。ホールは歓声の余韻に震え、シャンデリアのクリスタルが賭け金の山を冷たく照らした。
アップウッド大佐は拳を握り、散乱したマンハッタンのガラスを睨み、怒りに身震いしていた。
「ヴィンセント、貴様!裏切ったな!」と再び吼え、ピアニストを指さした。
ピアニストはテーブルの前に立ち、静かに眼鏡を外した。口髭を剥がし、黒髪を整えると、鷹のようなまなざしが現れた。ホールが凍りつき、観衆のざわつきが止まった。「諸君、私はヴィンセントではない。シャーロック・ホームズだ」と彼は穏やかに切り出した。
アップウッド大佐は顔を蒼白にし、テーブルを押した。
「貴殿が、シャーロック・ホームズだと!」
ホームズは微笑を浮かべ、シルクハットを手に取った。
「アップウッド大佐、貴方のイカサマは見事でした。ディーラーや配膳係ではなく、ピアニストと共謀するとは。ピアノはホールの北西、緋色の幕の隣、テーブルから5メートル離れ、カードスタンドの対戦相手の手札が見える位置にある。緋色のベルベットカバーと監視員の目を欺き、貴方は鍵盤の音で手札を伝えさせた。ヴィンセントはただピアノを弾いているだけで、怪しい身振り手振りもしていなかった。監視役も共謀を疑わなかった。今夜、私は本物のヴィンセントと第三ラウンド前の休憩中、ピアノの陰で入れ替わり、演奏で相手の手札を役なしと誤認させ、2,000ポンドのオールインを誘ったのだ」
観衆が騒めき、シャンデリアの光がホームズの冷静な顔を照らした。
アップウッド大佐は「証拠はない!」と吼えたが、声は震えていた。ホームズは続けた。
「本物のヴィンセントは貴方の共犯だったことを認めました。逮捕免除と保護を条件に私に協力し、演奏の暗号を明かし、入れ替わりに協力してくれた」
「貴様に、なんの権限があって司法取引を!」
すると、ロックスンが立ち上がり、シルクハットを脱いだ。
「アップウッド大佐、ゲームは終わりだ。私は、シャーマン・ロックスンではない。スコットランドヤードのレストレード警部だ」
レストレードは続けた。
「もちろん、ヴィンセントに対する司法取引には、ヤードも了承済みだ。貴方のイカサマは明るみに出た。観念して頂こう」
アップウッド大佐はテーブルをひっくり返し、「貴様ら!」と叫んだ。
だが、観衆の視線は冷たくアップウッド大佐に突き刺さった。ノンパレル・クラブのオーナー、ジェームズ・ハリスン氏が前に出た。
「従業員の裏切りに慚愧する! 我が監督の拙さよ! されど、ホームズ様、貴方の英知のに感謝いたします。ノンパレル・クラブは、必ず信頼を取り戻すべく励むと誓わせて頂きます!」
モートン氏は涙を流し、「救われた!」と膝をついた。
観衆の拍手と歓声がホールを満たした。私は感服の息を漏らし、ホームズの策略に改めて驚愕した。
その後、アップウッド大佐はレストレードに睨まれ、蒼白な顔でホールを出た。
ノンパレル・クラブの夜は、ホームズの鮮やかな勝利で幕を閉じた。
ノンパレル・クラブの対決から翌日、ベーカー街221Bの居間は暖炉の火に照らされ、穏やかな静寂に満ちていた。私はソファに腰を下ろし、ノートに事件の記録を綴っていた。シャーロック・ホームズは肘掛け椅子に座り、パイプをくゆらせ、鋭いまなざしで虚空を射抜いた。レストレードは窓辺に立ち、書類を手にしながらホームズを一瞥した。外ではロンドンの霧が石畳を包み、馬車の鈴音が遠く響いていた。
チャールズ・モートン氏の2,000ポンドは、シャーロック・ホームズの計画によりささやかな依頼料を差し引かれたのち、取り戻された。もちろん、『賭け事はほどほどに、モートン氏。家庭を再び奪うかもしれない』というホームズの忠告とともに。
「ホームズ、ノンパレル・クラブでの対決は見事だった。イカサマの全容を教えてくれ!」
ホームズはパイプを置き、暖炉の火に目をやった。彼の声は静かだが、知性の輝きを帯びていた。
「ワトスン、レストレード、もう分かっていると思うが、アップウッド大佐の異常な勝率は、ピアニストのヴィンセント・クロウとの共謀によるものだった」
彼は立ち上がり、書棚から楽譜を取り出した。ショパンの『ノクターン 第2番 変ホ長調』のページをめくり、指で優雅な音符をなぞった。
「クロウは水曜と金曜のサービスデーに、このノクターンを演奏した。ノンパレルのサロンに響く繊細な旋律の中に、暗号が隠されていた。クロウは、カードの柄によって調を転じて演奏していた。鍵盤――C4からE6――でカードの数字を、音色――スタッカート、レガート、強弱の変化――でスートを表した。たとえば、出だしがスタッカートC4はスペードのエース、二小節目の最初の音がレガートB5ならハートのクイーンといった具合だ。ハリントン氏が、店内の雰囲気が違う気がすると言っていたのは、その為だ。大佐は絶対音感でこれを解読し、相手の手札を正確に読み取った」
私は唖然とした。
「だが、大佐の絶対音感はどこから?」
「1881年のマイバ・ヒル戦闘により後天的に得た能力だ。砲弾の爆風で大佐は側頭葉を損傷した。ウォー・オフィスの軍医記録によると、回復後に異常な聴覚能力――音高を正確に識別する後天的絶対音感が現れた。側頭葉の聴覚野は音の処理を司る。外傷で再編成されると、まれに絶対音感が発現する。『ランセット』1885年号に、馬車事故で音高を完璧に聞き分けるようになった患者が記されていたよ」
レストレードが書類を手に頷いた。
「クロウを借金の尋問で拘束したのは正解だった。奴は共謀を白状した。だが、クロウと大佐の関係はどうやって?」
ホームズは楽譜を閉じ、椅子に戻った。
「ウォー・オフィスでの調査だ。マイバ・ヒルで、アップウッド大佐の第92歩兵連隊の部下だった者の中に、戦後、ウィーンで音楽を学んでいた男がいた。それが、ヴィンセント・クロウだ。彼は帰国後、ピアノの腕を磨いたが、賭博で借金を負った。返済が遅れ、ロンドンの闇に潜む勢力に脅され始めた。しかし、2年前、大佐と再会して共謀を始めた。借金返済のため、クロウは暗号演奏でイカサマを支えたのだ」
私はさらに尋ねた。
「大佐のもう一つの異常、つまり、顔を認識できない症状は?」
ホームズはパイプに火を点けた。
「側頭葉の紡錘状回の損傷による相貌失認だ。大佐は、顔の識別が困難になり、服装や仕草で人を判断する。赤獅子亭の退役兵クラークは、大佐が戦友を階級章や歩き方で識別したと証言した。大佐の場合、絶対音感という恩恵を受けた代わりに、相貌失認という副作用が同時に発現した」
ホームズは目を細めた。
「その相貌失認こそ、我々の勝利の鍵だった。ワトスン、君も覚えているだろう。あの夜、ノンパレル・クラブの対決で、私は大佐の障害を意図的に利用した。クロウの口髞と眼鏡、鍵盤のタッチを模倣し、休憩中に彼と入れ替わった。大佐は顔を見ず、仕草で『クロウ』と判断した。私は『ノクターン』を演奏し、偽の暗号で彼を2,000ポンドのオールインに誘ったのだ」
レストレードが皮肉っぽく笑った。
「ホームズ、俺の演技も忘れるな。シャーマン・ロックスンとしての振る舞いはどうだった?」
ホームズは微笑んだ。
「素晴らしい演技だったよ、レストレード。君のチップを叩く癖、鋭い視線、大佐は君を私と誤解した。今回の協力は、君の演技力があってこそだ」
レストレードは書類を手に、得意げに口を開いた。
「ホームズ、ヤードの調査で分かったことがある。大佐の金――あの莫大な勝ち金は、ロンドンの闇の勢力に流れていたようだ。銀行記録に怪しい送金がいくつもだ。奴はただのイカサマ師じゃなく、もっと深い何かに関わっていたかもしれない」
「しかし、ホームズ、君がヴァイオリンの名手ということは知ってるが、どうやってピアノの演奏を?」
ホームズの目が光った。
「二日間の外出中に、音楽の名人に指導を受けた。彼女の才気は、かつてボヘミアの王を魅了したほどだ。ピアノと暗号の操り方を短期間で叩き込んでくれた」
私は目を丸くした。ホームズは手を振った。
「ワトスン、推測はなしだ。彼女の助けがなければ、大佐を欺けなかった。それで十分だ」
「しかし、クロウがよく協力してくれたな」
私の問いに、ホームズが答えた。
「クロウは3,000ポンドの借金を闇の勢力に握られ、命を脅かされていた。私は取引を提案した。『大佐を裏切れば借金を帳消しにし、ヤードが守る』と。クロウは第一ラウンドまで演奏し、体調不良を装って退席した。私が変装で代わった。彼は今、ヤードの保護下にある」
私はぞっとした。後に我々が知る、ロンドンの犯罪を網羅する巨悪の影を、この時点では誰も予見できなかった。だが、ノンパレルの事件は、その一端を垣間見た瞬間だったのかもしれない。
ホームズはヴァイオリンを手に取り、ショパンの『ノクターン』の旋律を奏で始めた。変ホ長調の優雅な音色が居間を満たし、暖炉の火がその音に揺れた。
ホームズはヴァイオリンを手に取り、ショパンの『ノクターン』の旋律を奏で始めた。変ホ長調の優雅な音色が居間を満たし、暖炉の火がその音に揺れた。
ロンドンの深淵に潜む知られざる巨悪は、霧の彼方でなお蠢いているが、シャーロック・ホームズの比類なき頭脳が闇を切り裂き、正義の光を灯した。
ノンパレル・クラブの醜聞【ホームズ・パスティーシュ】 魚市場 @uo1chiba
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