第5話 終わりの輪郭

第1章 迷惑な死

 


滑り台の上に座るなんて、何年ぶりだろう。

夜の公園。雨のにおいが風に混じり、ブランコが軋む音だけが響いている。

人気はない。街灯も少ない。

なのに、この公園には、どこか“人の記憶”が残っているように感じた。


冷たい鉄。擦り減ったコンクリート。割れたタイル。

何かが終わってしまった場所の匂いがする。

だから私はここに来たのかもしれない。


「…冷たっ」


思わず声が出た。金属の座面が、骨まで冷える。

右足を引きながら、そっと腰を下ろす。杖を滑り落とさないよう、膝の上に置いた。


右足にはボルトが入ってる。

左足の膝下は、神経がうまく働かない。

医者の言葉を借りれば、“一応、歩行は可能な状態”。

でも、そんなの、ただ「死んでない」ってだけだ。


死のうとして、死にきれなかった人間には、

もはや、死ぬ自由も、生きる義務もない。


私──三枝 玲(さえぐさ・れい)は、かつて“働く大人”だった。

新卒で入った会社は、出版業界の端っこにある編集プロダクション。

自分の名前が記事に載る。それが、ただ嬉しかった。


最初のうちは、夢中だった。

でも、それは燃えてたんじゃない。燃やされてただけだ。

気づけば、寝るのは週に2日。シャワーは深夜のコインシャワー。コンビニ飯をかき込み、カフェインで頭を動かし、誰にも“NO”を言えないまま、どんどん壊れていった。


最初に声を失ったのは、電話口だった。

次に、笑顔が消えた。

やがて、言葉が詰まり始め、謝ることでしか呼吸ができなくなった。


ある日、社内チャットにメッセージが来た。


──「もう来なくていいよ。おつかれ。」


それだけ。

社内アカウントも、翌日には消えていた。


私は、たぶん、あの瞬間が人生の終点だった。

ビルの屋上に立ったのは、その夜。

何も怖くなかった。

ただ、「ありがとう」も「さようなら」も何も残さずに、

空に吸い込まれるように、飛んだ。


次に目を覚ましたのは、病院の天井だった。

酸素マスク、痛み止め、ギプス、そして母の泣き顔。


「なんで…どうして、こんなこと…」


ごめんね、なんて、思わなかった。ただ、悔しかった。

どうして、死ねなかったんだろう。


痛みは、意識より先にやってくる。足を切断せずに済んだのは奇跡らしい。

でも、“動く”と“歩ける”は別物だ。

リハビリに入ってすぐ、担当の療法士が言った。


「目標は“社会復帰”です。前向きにいきましょう!」


その言葉が、いちばんの暴力だった。


社会復帰?

私は、社会に殺されかけたんだよ?


それでも、退院の日は来た。

身内の紹介で、障害者向けの求人にも申し込んだ。市役所にも行った。ハローワークにも行った。でも、“履歴書に空白のある人間”の顔を見ると、みんな、目をそらした。


「ご事情は、理解しました」

「もう少しリハビリに集中された方が…」


その言葉の裏にあるのは、ただ一つ。


「うちでは雇えません」


それからは、転々とした。

知人の家に身を寄せ、福祉の申請をして、でも、そのたびに“ダメになった私”が胸に刺さった。

生活保護は…怖かった。

働ける人間が、福祉に頼るなとネットで叩かれていたから。

何より、あの会社の連中が私を「福祉に逃げた女」と笑う姿が、頭から離れなかった。


逃げられない。でも、生きてる。

どこにも行けないのに、生きてる。


杖をついて歩くたびに、思い出す。

屋上の風。

夜景の光。

地面に落ちていく“あの静けさ”。

たぶん、あの瞬間だけが、人生でいちばん安らかだった。


滑り台の端に、缶コーヒーが転がっていた。

「おつかれさまです」って書かれたラベル。

飲みかけのまま、誰かが落としたんだろう。


私も、あんな感じかもしれないな。

飲みかけの命。

もう誰にも必要とされないもの。


「…でも」


私は、小さな声で、呟いた。


「誰にも必要とされないなら…“迷惑”にでもなってやればいい」


誰にも覚えられなかった命なら、せめて、“傷”として残ってやる。

誰にも望まれなかった人生なら、せめて、“損害”として刻まれてやる。

制度に。帳簿に。損益表に。マイナスの値で、生きた証を残してやる。


私の名前は、誰の記憶にも残らなかった。

でも、事故報告書には残せる。

保険会社の記録には残せる。

誰かの会議資料には、“損害発生源”として残せる。

それで、いい。それしか、ない。

 

滑り台から立ち上がり、杖を握り直す。空は、じきに雨になるだろう。

傘はない。必要ない。どうせ、濡れる場所はもう決まっている。


私はもう一度、死ぬ。でも今度は、ちゃんと制度の中で。

ただの“死”じゃない。誰かの心を削る、“記録”として死ぬ。


そうしてやる。

制度の中で、最後まで、迷惑になってやる。

──それが、私の正義だ。



―――――――――――――――――――――――



第2章 制度の使徒

 


終電が終わったあとのバス停。

濡れたアスファルトに、街灯の光がゆらゆらと揺れている。


時間は、午前2時を回っていた。公園を出て、目的もなく歩き、ふと足を止めたのが、この停留所だった。

誰もいないと思っていた。けれど、ふと後ろから足音が近づいてきて、私はとっさに身構える。


「困っているようですね」


その声は、妙に落ち着いていた。

けれど、耳に触れた瞬間、背中がゾクリとした。


私は、振り向かなかった。視線だけを動かして、声の主を確認する。

スーツの男だった。深夜に似つかわしくないほど、仕立てのいい、無地のスーツ。

雨に濡れても皺ひとつ見えないような、生地の質感。


年齢は、30代後半から40代くらい。

整った顔立ち。だが、笑っていない。目だけがこちらを静かに射抜いている。


「誰?」


「私は蘇我。制度設計とライフコンサルティングを担当している者です」


「…は? こんな時間に? ここで? 何の冗談?」


「冗談ではありません。私は、必要な場所に現れ、必要な提案だけを行う。それが仕事です」


胡散臭い。そう思った。

でも、胡散臭さを通り越して、気味が悪い。この男は、まるで“最初から私を知っていた”ような雰囲気を纏っている。


「君、さっき“誰にも必要とされないなら迷惑にでもなってやる”って、呟いたね」


心臓が跳ねた。

喉の奥で声が詰まる。


「聞いてたの?」


「それ以上の“沈んだ気配”が、ここに漂っていたから。

…だから、私は現れたんだ」


何者だ、こいつ。

声も、仕草も、言葉選びも、全部が冷静すぎる。


しかも、あからさまな同情や励ましがない。

それが逆に、不気味で、でも耳をそらせない。


「あなた、自殺を止めるタイプじゃないよね?」


「ええ。止めません。制度的には、止める権利も、義務もありません」


「じゃあ…何しに来たの?」


「制度の提案です」


制度。

その言葉が、奇妙に響いた。死にたいって言ってる人間に、制度の話?


「私は、あなたの命に“設計価値”を提案しに来ました」


「…設計?」


「はい。事故死、という形で処理された場合に、あなたの命に最大1500万円の“損害価値”が発生します。支払先を特定の団体に指定することで、その金額は“誰かを生かす制度”に変換可能です」


私は、まったく理解が追いつかなかった。

けれど、妙に説得力のあるその声に、耳だけは自然と向いていた。


「簡単に言えば──あなたが死ぬことで、誰かが生きられる構造が、制度によって成立します」


「…怖。なにそれ。怖すぎるんだけど」


「怖くて当然です。でも、これは現実に存在する保険制度と法令のもとに、正規に設計された仕組みです」


「…つまり、何? 死ねば金になるって言ってんの?」


「“命には価格がついている”。それを、使うか否かはあなた次第、ということです」


寒気がした。けれど、その中に、微かに“安心”のような感情が混じったのを、自分で自覚してしまった。

制度。正規。合法。


――ああ、この男は、私の命を“失敗”にしない方法を知っているのかもしれない。


「…で? 私がその制度で死んだら、誰が得すんの?」


「あなたが望めば、受取人は指定できます。今回、私は“生活困窮者支援信託団体”を受取人に指定する提案書を持っています。

その団体は、福祉と生活再建の支援を目的に作られた公益法人です。あなたの死は、その団体を通じて、別の“生き残るべき人間”のために役立ちます」


 


まるで、遺言のようだった。

けれど、違った。この男は、感情で話していない。

ただ、書類を読むように、“事務的な死”を差し出してきたのだ。


「…それで? 私の希望って、聞いてくれるの?」


「もちろんです」


「だったら、一つだけ条件がある」


私は、ぐっと前に出て、杖を突く音をわざと強く鳴らした。


「私、前の職場、あの会社に殺されかけた。体も心も壊れて、自殺して、それでも生き延びた。だったら…

死ぬことで、あの会社を叩き潰してくれ」


蘇我は、まったく動じなかった。


「可能です」


「…早っ」


「あなたが望む相手に“損害”が残るよう、制度設計の調整はできます。

そのためには、いくつか条件があります。施設の位置、所有関係、あなたの行動履歴──すべてが揃えば、“記録”として残ります」


そう言って、彼はスーツの内ポケットから、書類の束を取り出した。


「これは、死亡事故時に発生する損害賠償構造の案です。あなたがこの構造の中で死亡すれば、個人賠償責任保険から賠償金が発生し、それが信託団体へ支払われます。

事故の発生場所が、相手企業の所有・管理下にある施設であれば、“管理責任”が記録され、保険料の増額や社会的評価の低下が生じます」


「…マジで、そんなことできるの?」


「すでに、いくつかの案件で実行済みです」


「うわ、ほんとにやってんだ…」


「私は、売るのではありません。“選択肢”を提示しているだけです」


「やべぇ奴じゃん…いや、でも…」


私は、言葉に詰まった。

でも、なぜか、次の言葉がするりと口をついて出てきた。


「…あの会社に、ちゃんとダメージを与えられるなら。私の“最後”にも、意味があったって思えるかもしれない」


「制度は、感情では動きません。でも、制度によって“感情が報われる場”は、設計可能です」


その言葉が、なぜか刺さった。

私はこの社会で、ずっと否定されてきた。何をしても「意味がない」と切り捨てられてきた。だけど──

この男の目の前では、私の死に、意味があるらしい。


不気味だ。怖い。気持ち悪い。

でも、私はその提案に、魅せられてしまった。

たったひとつの願いを叶えるために、私の命は、“制度”という刃になる。


私は小さく笑った。


「…じゃあ、あんた。私の死、設計してよ。ちゃんと、“迷惑”にしてくれ」


「承知しました」


蘇我は、書類に一枚一枚、付箋を貼りながら、静かに言った。


「あなたの死は、制度に記録されます。そして、社会にとって、確かに“損失”だったと認定されるように。

私はそれを、正確に、設計いたします」



―――――――――――――――――――――――



第3章 設計と制裁

 


建物は、都市部から少し外れた旧工業団地の一角にあった。

表札のない古びた鉄扉。建物は元・社員寮──今は名ばかりの福祉施設。


中に入ると、雑然とした生活用品とパーティション。どこにでもある“支援施設”のそれだった。

…表向きは。


「こちらが、事故現場になる予定の階段です」


蘇我のパートナーである女性が、無機質にそう言った。

髪をまとめ、書類を抱えた姿は、どう見ても福祉団体の事務担当そのものだった。


「契約書類はこちら。施設は“生活困窮者再起支援団体”がCSR契約により正式に賃借しています」


三枝は、それを聞いて首を傾げた。


「CSR…って?」


「企業の社会貢献活動名目です。建物の所有者──かつてのあなたの勤務先が、不要となった旧施設を“地域貢献の一環”として、我々に提供しています。

もちろん、形式的な契約も、賃貸料も、適正な価格で処理されています」


「へぇ。あいつら、“善意の団体”に場所貸してたんだ…」


三枝は、鼻で笑った。


「そうやって株主にでもアピールしてたわけね。“うちの会社は社会貢献してます”って顔して──

まさか、その団体があいつらの元社員に使われるとは思ってないだろうけど」


蘇我は無言で書類を差し出した。

そこには、今回の制度設計図が記されていた。



【制度設計構造:概要】


物件契約関係

・物件所有者:旧勤務先企業

・借主:生活困窮者再起支援信託団体

・契約形態:CSR目的の賃貸契約(修繕責任は所有者に明記)


事故設定

・対象箇所:階段の金属製手すり

・既知の破損リスク:2年前に労基署より是正指導済(未対応)

・事故態様:深夜帯、団体使用者の転落死(記録付)


保険構造

・三枝加入:個人賠償責任保険(信託構造を含む)

・事故による損害:団体が設置した設備の破損、施設運用不能による逸失利益

・支払先:信託団体(受取人)

・金額目安:1500万円(死亡時の損害構造+運用補填)


企業へのダメージ

・記録:事故報告書、施設管理責任、CSR活動の瑕疵記録

・IR上の影響:信頼性評価低下、保険料上昇リスク、内部通報の増加


三枝は、その図を見て笑った。


「…すげぇな、あんた」


「制度は、法と整合性の上に構築されます。感情や善悪を排し、“事実”だけで運用される。だからこそ、強い」


「これ…バレないの?」


「事故が自然であれば、問題はありません。本件では、施設の老朽化と過去の是正勧告が記録されており、“予見可能性”を企業側が放棄した形になります。さらに、団体の設置物に損害が出るため、保険支払いは妥当とされます」


「…なにそれ。ほんとに、私、死んでいいんだ」


「設計上、あなたがこの場所で事故死すれば、企業には“責任ある記録”が残ります。

あなたの死は、制度に変換され、“損失”として企業に刻まれる」


「マジで…怖いよ、あんた」


三枝は、そう言いながら、震えていた。

それが恐怖なのか、興奮なのか、自分でもわからなかった。


「…この建物の、この階段。

あいつらが改善しなかったって知ってる場所で、私が死ぬ。

それだけで、ちゃんと“記録”されるんだ」


「はい。事故証明書、管理記録、保険支払い通知。すべてが証拠になります」


「ねえ、蘇我」


「はい」


「私の死って、あんたにとっては何?」


「“設計対象”です。感情の理解は、想定していません」


「…冷たすぎて、逆に安心するわ」


三枝は、不思議と笑えた。

この男の前では、悲しみも怒りも、意味を持たない。


ただ、死が“仕組まれている”ことに、この世界の誰よりも、自分が価値を持ったような気がした。


「…で、死んだあとの処理は?」


「団体側で処理します。企業は事故対応に追われ、記録が残り、あなたの存在を“直接的に見つめる”ことになります。

そして、報道こそありませんが、“されるかもしれない”という恐怖が、社内を蝕みます」


「報道はされない?」


「ええ。表に出す必要はありません。制度とは、“内側から壊す”ものであって、“晒す”ものではありませんので」


「うわ…やっぱあんた、怖いわ」


三枝はそう言いながら、手すりに手を置いた。


ギシ、と、鈍い音が鳴る。

誰が見ても、老朽化しているのがわかる鉄。


「ここで、死ぬ。あいつらの“善意の施設”で、元社員が死ぬ…皮肉ってレベルじゃねぇな」


「すべて、設計です」


蘇我は静かに答えた。


「あなたの命は、“迷惑”に変換されます。制度上、完璧に。誰にも否定できない方法で」


そして三枝は、黙ったまま、しばらくその手すりを握り続けた。


今度こそ、死ぬ。でも今回は、意味がある。

ただ壊れるのではなく、壊して終わる。


そのための、最終設計。



―――――――――――――――――――――――



第4章 壊れた構文

 


午後11時過ぎ、施設の仮眠室。天井の蛍光灯がチカチカと音を立てていた。

部屋には古びたロッカー、剥がれた壁紙、使い古された布団。

まるで時間が止まったような空間だった。

三枝は、折りたたみ式のローテーブルに向かい、ペンを握っていた。


退職願。


今さら意味のない書類。でも、それを“書く”ことには、何かしらの意味がある気がしていた。


「この書式で合ってたっけ…」


独り言をつぶやきながら、紙に「退職理由:一身上の都合」と書いた。

自分で書いて、自分で笑う。

“あんたのせいで死ぬんだけど”、なんて正直に書けるわけもない。

この言葉の下に、どれだけの人間の心と体が押しつぶされてきたんだろう。

“上司からのパワハラ”も、“連日の残業”も、“誰にも相談できなかったこと”も。

すべてが、この7文字に包摂され、飲み込まれ、捨てられる。

それが社会の処理構文だった。


「壊れたのは、私じゃない…構文の方だ」


三枝は静かに笑った。退職願を畳み、封筒に入れる。

すでに提出する先などないけれど──これでいい。


スマートフォンを取り出し、電源を入れる。

通知はゼロ。着信もゼロ。最後に連絡を取ったのは、数カ月前。

元同僚に「元気?」と送ったきり、既読がつかない。


もう一度、メッセージアプリを開く。

過去の履歴をたどると、ひときわ目に残る名前があった。


──「佐伯 美香(さえき・みか)」大学時代の同期で、かつて最も信頼していた存在。

三枝は、メッセージ作成画面を開いた。


「ごめん、いろいろ話したかったけど、うまく言葉にならなくて。

本当はあの時、“やめたい”って言えばよかったんだよね。

でも私、ずっと“頑張るのが正しい”って思ってた。

壊れるまで気づけなかった私がバカだったよね。

あの会社の人たちは、きっと、私がいなくなったことも忘れてる。

でも、私は私のやり方で、“覚えてもらう”ことにした。

一度だけ、制度に名前を刻んで、死ぬつもり。

…だから、さよなら。

読まれなくてもいい。残しておきたかっただけ。」


最後まで書いて、送信はせずに保存した。既読なんて、もう期待していない。

でも、書かずにはいられなかった。


時計を見る。23:43。そろそろだ。

ポケットの中のスマートフォンが震えた。蘇我からだった。


「準備は整っています。予定通りで、よろしいですか?」


文字が淡々と並ぶ。感情は感じられない。それが、逆に安心だった。


「了解」


三枝は、そう一言だけ打ち込んで、送信した。


その瞬間、心のどこかで「もう戻れない」と思った。

けれど、その実感が、ようやく“安心”を与えてくれた気がした。


布団を畳み、仮眠室を出る。


薄暗い廊下。誰もいない。深夜の施設は、世界の隙間みたいに静かだった。


階段の前で、立ち止まる。


事故は、ここで起きる。いや、“起こるように設計されている”。

古びた金属の手すりは、すでに数年前から錆が浮いていた。

労基の是正指導が入っていたことも、蘇我の調査で明らかになっている。

企業は、それを放置した。

そしてその企業は──今も、堂々と社会貢献をうたい、この建物を“寄付”している。


その皮肉の上に、私の死は設計された。


「…いいね。完璧な、迷惑だ」


三枝は、そう呟いた。


すべては帳尻が合っていた。

個人賠償責任保険の保険金は、事故後、信託団体に支払われる。

事故調査書類には、企業の管理責任が記録される。

保険会社のシステムには、事故発生施設として企業の名称が残る。


さらに、そのCSR活動に関する書類には、「信託団体との契約施設で死亡事故発生」との記録が付される。報道こそされないが──企業内部では、「報道されるかもしれない」という恐怖だけが、静かに広がっていく。


私は、死ぬ。でも、それは“制度に変換された死”だ。


足を、階段の一段目に乗せる。


手すりに手をかける。

冷たい鉄。

ゆっくりと軋む音がする。

これが最後の感触か。そう思ったとき、不思議と心は静かだった。


「…行こう」


その言葉を、誰に言ったのか、自分でもわからない。

でも、ひとりきりじゃなかった気がした。

誰かが見ていてくれる気がした。

少なくとも、制度は、私を“記録”してくれる。


私は、“死ぬ自由”を選んだ。でも、それは“生きる義務”を押し付けられた世界に、唯一返せる“設計された答え”だった。

この世界に、私の死は、“損害”として残る。制度が、私の存在を証明する。


そう思えた瞬間、私はついに笑った。心から、穏やかに。


──カチリ、と、階段のライトが点いた。

誰もいない施設の中、誰かが階段を降りたような、気がした。



―――――――――――――――――――――――



第5章 損害と記録と沈黙



「事故報告書、届きました。深夜1時34分、階段からの転落。即死です」


パートナーの女性の声が、インカム越しに届く。蘇我はハンドルの前に書類を広げたまま、目を伏せた。

助手席には、ファイルが一冊。表紙にはシールが一つ貼られている。名前:「三枝 玲」。年齢、職歴、保険種別、設計完了の印。すべての項目が、黒いインクで揃っていた。


「施設の修繕履歴、企業側の保管台帳に記載漏れあり。是正指導の未対応も含め、IRリスクの可能性が高いとのことです」


「事故処理は団体側が完了?」


「完了しました。企業側は“社会貢献施設内での事故”として一報。報道対応は予定されていませんが、IR・法務が動いています。事故場所は“自社所有の老朽施設”という表現で処理された模様です」


蘇我は、ふっと息を吐いた。

窓の外は、夜明け前の灰色。空も、街も、誰も起きていない時間だった。


「支払いは?」


「信託団体に対し、個人賠償責任保険から1500万円。死亡時点で有効な契約であり、異議申し立てはありません。事故調査報告書と一緒に、支払い処理中です」


「企業への請求も進めて」


「すでに損害賠償請求を送付済みです。団体が正式に企業の管理責任を問う形で、施設の修繕義務違反、名誉毀損、及び運営妨害に対する損害を算出。

請求額は1000万円。うち600万円は施設運営補填(逸失利益、人件費、対応コスト)300万円は再起支援基金への充当100万円は事務手数料および外部法務費用──との内訳で構成されています」


「記録される?」


「はい。企業名義で保険会社の事故管理台帳に登録済。次回更新時に、企業側の賠責保険料が引き上げられる可能性が高いです」


蘇我は静かにファイルを閉じた。

静寂が、車内に落ちる。

あの企業のどこかで、誰かが顔色を変えているだろう。広報が、IRが、社長が、会議室に集まって、あの事故の対応に追われている。

事故は事故だ。だが、それが“誰の死”であったかを、彼らが認識する瞬間。そのとき初めて、損害の意味が“記録”から“痛み”へと変わる。


「彼女は、制度に刻まれました」


パートナーの声が、通信の向こうで言った。


「三枝 玲、事故死。階段の破損。支払い額、1500万円。企業への記録、1件。損害請求、1件。すべて、設計通り」


「よろしい」


蘇我は短く答える。

モニターに、事故報告書のPDFが表示されていた。


【事故発生日】5月16日【被害者】三枝 玲(当施設使用者)【死因】転落死(夜間、階段より落下)【環境要因】手すりの老朽化確認(是正履歴あり)【所有者責任】対象物件の管理義務に基づき、関係部署に通知済【処理区分】管理責任・事故報告済・記録完了


何一つ、間違っていない。すべてが、制度通り。すべてが、合法の中で動いた。

感情の介在はない。怒りも、悲しみも、喜びも、どこにもなかった。

ただ、記録が、残った。

蘇我はスマートフォンを操作し、「契約完了」ステータスをつけた。システム上、三枝の案件は終了した。

だが──画面の下部にある、“未送信メモ”欄に、ふと目が留まった。


「死ぬって、結構静かなもんだね」


「でも、静かだからって、意味がないとは限らない」


「私の死、誰かの資料に載ったら、それで十分。やっと、この社会に刻まれた気がするから」


蘇我は、しばらく画面を見つめた。


心は動かない。そのはずだった。


「データ保存。完了。処理…完了」


ファイルをバックアップに移しながら、そうつぶやいた。


だがそのとき、窓の外で一羽のカラスが鳴いた。

夜明け。世界がまた、動き出す。

書類は閉じられた。事故は記録された。保険は支払われ、企業は請求された。

彼女の名前は、制度の中にだけ残った。

誰も葬らず、誰も悼まず、ただ“損害”として記録された一つの死。

蘇我は最後に、窓の外を一瞥し、静かに言葉を漏らした。


「…もし、誰かがそれを“覚えていた”なら、それは制度とは、別の意味を持つのかもしれない」


その言葉が、誰に向けたものかは、誰にもわからなかった。

ただ、ファイルの中の彼女の名前だけが、しっかりと刻まれていた。



―――――――――――――――――――――――



【著者所感】

今回もお読みいただきありがとうございます。

最近ありがとうございます、と打つと、ありがとうござインすと打ち間違えるような現象が多発しており、仕事の文書やメッセージをPCで打つたび笑いが出てしまいます。

ほら、今も出てしまいますが出てしましますになってる。

それはさておき――


このエピソードで描いたのは、ブラック企業と自殺。

社会問題になって何十年も経つのに、どちらも一向に減らない。それどころか、言葉が“使い古されたテンプレ”のように風化しつつある今、その中で静かに壊れていく誰かの声は、なおさら届かなくなっている気がします。


この物語はフィクションです。

制度の隙間を利用して“設計された死”を描いてはいますが、三枝のような人間は、現実にも確かに存在しています。

声を上げられず、誰にも気づかれず、静かに“制度の外側”に追いやられていく人々。


彼らにとって、生きることは義務であり、死ぬことは自由かもしれない。

でもその“自由”すら、社会は無関心に受け流していく。

そんな現実にただの批判ではなく、「終わりの輪郭」を与えることができたら――


制度の中に取り込まれ、名前すら残らない死に、わずかでも意味や温度を遺せるのが“物語”であるなら、この作品が誰かにとっての“抗い”の記録になれば幸いです。


次回、第6話では「制度を“生きるため”に使う者」の話を描きます。

ぜひ、続けてお読みいただけたら嬉しいです。

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