独裁者

柿井優嬉

「何なの? あの雲。ずっと私の上から離れないんだけど」

 佐野萌美は、つい心に思ったことを口に出した。言葉の通り、その日の天気はほぼ快晴だというのに、なぜか彼女の頭上「だけ」といった具合に、雲のかたまりがかかり続けているのである。しかも、どんよりとしていて、見ていて気分が良くなるような形状のものではまったくない。

 日曜日の午前十時過ぎ。中学二年生の彼女は、スーパーマーケットでの買い物を終えて、自宅に戻る道を歩いている。休日とはいえ、午前中、また、繁華街ではなく住宅が中心のエリアで、辺りに他の人はほとんどいない。ゆえに、誰かの耳に届く心配は皆無に等しく、気がゆるんで、日頃は絶対にやらない、けっこうな大きさの声での独り言をしてしまったのだ。

 萌美は、母親が料理で使う野菜などを、特売のために、家から少し距離がある店までお使いにいったのだが、孝行娘で年中そうしているわけではない。これといってやることがなかったし、快適な陽気で散歩にうってつけだったので、実際は購入しなくても構わなかった食材を、半ばおせっかいで買いにいったのだった。

 あと、そのスーパーで販売している手作りパンがとてもおいしそうなのだけれど、少々値が張るので、たまにそうやってお手伝いで買い物をしたときだけ、ご褒美としてどれでも二つまで好きなものを手に入れてよいことに自分のなかでしており、それが目的でもあった。というか、本当のところはそのパンがお使いにいった動機のすべてといって差しつかえなかった。

「フフフ~ン」

 そういうことで買ったパンをいつ食べようかなどと考えてご機嫌になった萌美は、雲によってわいた嫌な気分は解消したのだが、どうもこの日の彼女はいささかツイていないようで——

「わっ!」

 急に背後からものすごい速さの自転車が彼女の間近を通過していって、びっくりして、よろけた。

「もーっ」

 自分も、スーパーで買ったものも、とりわけパンが無事で、ほっとしたけれども、すぐにムカッときて、前方に行った自転車に乗っている高校生くらいと思われる若い男性を、にらむように見つめた。

 いかにも悪い人間といった容姿ではなく、服も、ちょっとダボッとしただらしない印象の着こなしである程度で、若者が着用する一般的なものを身にまとっている彼は、信号はないが、そのぶんスピードを出した自動車がやってきそうな、大きめの交差点に差しかかっても、まったく速度を落とさずに進んだ結果、案の定、右側から来た、今度は車とぶつかりそうになったのだった。

「危なっ」

 萌美はそう声を漏らし、怒りはすっ飛んでいった。

 車が急ブレーキをして手前で停まったことにより事なきを得たものの、自転車はバランスを崩して、道の真ん中で倒れた。

「大丈夫っ?」

 平均的なサイズの乗用車の中から、四十代とみるのが妥当であろう、高級ではないけれど上品と感じさせる身綺麗な格好をした、整った顔立ちの真面目そうな女性が、慌てて降りてきて、自転車の男のコのもとに駆け寄った。

「ごめんなさいね。ケガはない?」

 非は百パーセント彼のほうにあるにもかかわらず、女性は申し訳なさでいっぱいといった態度で問いかけた。男のコはヘルメットをかぶっていないが、頭は打っておらず無事なのは明らかで、他の箇所も問題がない様子ではある。

 彼は、萌美が初め目にしたときからの、世の中に対して不満しかないような無愛想な顔つきを一切変化させることなく、返事をせずに再び自転車にまたがって、走り去っていってしまったのだった。

 あらら。

 萌美は女性に同情したけれども、衝突は回避できたし、男のコに逆ギレされたりもしなかったので、よかったかとも思った。

 そうして彼女は、進行方向なので近づいていた、まだ停止している女性の車の前を通り過ぎようとした。

 そのときだった。

 え?

 萌美は、見てはいけないものを見てしまった気持ちになり、ゾワッと体全体に寒気を感じた。

 乗用車の後部座席に、彼女と同じくらいの年齢に違いない少年が座っていたのだが、そのコの顔が、「今までの人生で、ここまでのものは見たことがない」と思うほどに、冷たい表情だったのだ。

 少年が自分のほうに視線を注ぎ、目が合う予感がして、だから早く離れたかったのだけれど、急ぐと目立って余計に見られてしまうと考え、まっすぐ前を向いた状態で頭を固定し、平静を装って、変わらぬ歩調で遠ざかっていったのだった。


「うわっ」

 萌美は、自宅で夜、眠るので目をつぶった瞬間、昼間に見た後部座席の恐ろしい表情の少年が頭に浮かび、思わずガバッと体を起こした。

「ううううう~」

 身震いがして、またベッドに横になると、掛け布団を頭の上まで引っ張り上げ、もう思いださないように努めたのであった。


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