第2話


「よろしく、お願いいたします」


 いつものように深くリュティスの前に頭を下げて席に座る。

 席につくと、すぐに前回の続きから魔術書を読むのが決まりだった。

 これは詠唱の部位で、詠唱が問題なければその読んだ全く同じものを今度は文字に起こす。文字が終わればそれを魔術印として描く。そういう流れになっている。


魔術印まじゅついん】というのは実戦において詠唱と共に描き出す魔法陣などの事だ。

 これは詠唱よりも効力を持ち、手練の魔術師ならば詠唱を問わず魔法陣を描くだけで魔法を構成する事も出来るという。

 魔法陣はとても複雑だが、描き出し方から形の一片までが厳格な取り決めがある。

 精霊の目というのは一瞬で物を見通すもので、なおかつ正確であり、少しでも魔術印が歪んでいるだけで異なるものと判断するらしい。

 子供の魔術師というのは普通いないが、その大きな理由の一つが魔法陣を正確に描けないことだという。

 よくは分からないが、拙い魔法陣というものを精霊は見抜くようだ。


 とにかく魔法陣を描く練習が終わるとリュティスが魔術理論の講義をしてくれる。

 そして次回の範囲を指定され、それについての補足が終わるとこの授業は終わりだ。


 以前、リュティスの師事を受けなかった時期はそれこそメリクは自分で順序など何も無く、とにかく眼についた魔術について学んでいたのだが、今はもうそれをしなくなった。

 城の方では他の勉強をしていて、予習復習以外に魔術の勉強はしなかった。どうしてもしたい時は今まで取得した範囲をより深く学び直す事に時間を使った。



 ――『悪才あくさい』。



 リュティスがメリクをそう呼んだことは、忘れられるものではなかった。


 リュティスが教えてくれる範囲の事だけをしっかり教われば、魔術についてはそれでいいと思っている。それ以上の事を欲してもそれはきっと自分にとってはよくない事なのだと考えるようになったのだ。

 教えるべきでない事は、リュティスは教えないだろう。


「算式が違う。それでは二つの属性が等価にはならん」


 ぴしゃりと言われてメリクは羽根ペンを止めた。

 リュティスがまるで彼の口調そのままに、メリクの間違った算式を二本の横線で消す。

 それから正しい算式と内訳を細かく書いてくれる。書いてくれると言ってもそれが常ではなかった。

 感覚ではなく正確な数値で魔法を構成する魔算術まさんじゅつ法を表したのは、例によってサンゴールの偉大なる魔術師ラムセス・バトーだった。

 この厳密な数値化により、サンゴール王国に魔術師育成の慣習がよく育ったのだが、これがなかなかに難しくメリクは苦手だ。


 才があると言えば聞こえは良いが、悪く言えばメリクは魔法を何となくの感覚で構成していたため、今だにこの【魔算術まさんじゅつ】は苦手なのである。

 リュティスのすごいと思う所は、彼は感覚の魔術師としても雷のような直感に優れていながらも、決してこういう理論的な部分を軽視していないところである。

 知識と正確な算式を少しの狂いも無く記憶しているのだ。

 優秀な魔術師しか存在しないサンゴール宮廷魔術師団でさえ、舌を巻くのも仕方がないと言えるだろう。


 師であるリュティスは、とっくにメリクがこの魔算術を苦手としている事を見抜いていて、何度も同じ所を間違えているため、それにこれ以上付き合わされるのを耐えかねて、手を出して来たという方が正しい表現だ。


 ――つまり今、リュティスは非常に怒っているのだ。


 こんな算式も分からんのかと言わんばかりのリュティスの気配に肩を小さくしつつも、メリクは自分のノートに書かれるリュティスの字を見つめていた。

 幼い頃からすでに魔術に深く身を関わらせていただけあって、リュティスの描く魔法陣はとても美しい。

 でも実は、メリクはリュティスの字の方が好きだったりする。


 同じ王族でもアミアは、彼女の自由な性格そのままに癖のある字を書くのだが、リュティスの字はこれも彼の性格そのままに、基準に対して正確無比でまるで印を押したようだ。

 でもその整った字がひどくリュティスらしくて、メリクはとても好きなのである。

 珍しく自分のノートにリュティスが字を書いてくれたので、表面上は感情を出さないようにしながらもメリクは嬉しく思っていた。

 この魔算式まさんしきはもう絶対に忘れないだろうなあ、などと考えつつ別の本へと手を伸ばす。 


 そのとき、初めてメリクの手首に巻かれた白い包帯が袖から露になった。


 袖の長いサンゴールの法衣は手首をすっかり隠すほどなので今まで見えなかったのだ。

 メリク自身は手当てした後は大して気にしていなかったのだが、弟子の覚えの悪さに腕を組んで、険しい顔をしていたリュティスはすぐに気づいたようだった。


「何だそれは」


「えっ?」


 メリクは手首を押さえて肩を小さく竦める。

「あの、木から下りる時に引っ掛けて……」

 リュティスは半眼になる。

 メリクは王宮で大人しく日常を過ごしてはいるのだが、部分部分ではかなり活発な少年だ。

 外界に無関心なリュティスでさえ、弟子が猫を追いかけて階段から転げ落ちたり池に嵌まったり、木の枝に咲いた花や実を取ろうとして落下したり、と生傷が絶えなかったことを知っている。

 アミアにちゃんと躾けろとうるさくいっているのだが、彼女は男の子はそんな感じでいいのよ、の一点張りで注意する気配もないのだった。

 だが、そんなメリクの事情にはリュティスは全く関心がない。

 彼が不審に思ったのは。


「何故治癒しない」


 メリクは普通の尺度から言えば早いのだが、すでに軽い回復魔法は使えるようになっている。

 外部治癒は最も簡単な対象だし、擦り傷程度なら簡単に治せるはずだった。

 そんな風に指摘されてメリクは自分の手を見たが、彼は少し間を置いてから本を手に取ると、怪我した包帯を袖の中にすっぽりと再び隠した。


「…………部屋に、戻ってからやります」


 リュティスはメリクに視線をやった。

 それに気づいたメリクは瞳を上げずにじっと俯いている。

「……。」

 そしてリュティスは微かに小さく息をついた。


 半年前のあの事件の事は、あれ以来サンゴールの城の中でもメリクの周りでも意図的に封じられて来た話題だ。

 特にアミアがこれ以上責めてやるな、と城の者たちには強く言い聞かせたので、外部からメリクの耳にあの話題が届く事はなかっただろう。

 魔術を学ぶ事にもすぐ立ち直ったようなので、何もそこまで敏感にならずともよいだろうとリュティスは思っていたが、義姉がうるさく「メリクの前であの話題は出すんじゃないわよ」と睨みをきかせるため、リュティスは争うのも面倒で閉口しているだけだ。


 アミアの手によってメリクを弟子に押し付けられた時にすでに、メリクが感情に任せて魔法を操り、他人を傷つけたという事は承知で引き受けたのだ。

 今さらそんなことを引き合いに出して叱るつもりなどなかった。


 何より、魔術とはそういう可能性をもともと多く含むものだ。

 魔術を会得したその瞬間から、子供であっても間違った使い方をすれば誰かの命を奪うことが出来るようになる。

 リュティスの【魔眼まがん】はその最も極端な例である。

 だからリュティスはあの時そういう結果に単純に怒ったのではない。

 魔術が他者を傷つける事もある、そういう恐れのあるものだと知らずに子供の無知でそこに望んで踏み込んだメリクの浅はかさを怒ったのだった。


 リュティスは居心地悪そうに手を袖の中に隠しているメリクを見下ろした。


 こういう時、メリクはリュティスの顔を見なくなった。

 以前はリュティスの視線を感じるとどんな時でも顔を上げていた。怒られている時でさえ翡翠の瞳で 自分の方を見上げていたものだ。

 その厚かましさがリュティスはひどく嫌いだったのだが、ようやく最近になってメリクは悪癖を一つ消しつつある。


 ……魔術師が魔法を使う事に恐れを抱く事は、悪い事ではなかった。

 魔術師の悪とは、無知が本当の悪なのだから。

 これに関しては自分が教える前に、メリクが自分で学んだ事ということになる。


「今出来んことは後でも出来ん。さっさとやれ」


 容赦なく師に言われると、メリクは断る術を知らない。

 自分の怪我した手首にもう片方の手の平を乗せた。

 落ち着くように一つ息をつき、取得した回復魔法の詠唱を唱える。

 詠唱に導かれた魔力が発露し、印が意味を持ち力を有する。

 メリクの手の平の下が微かに熱を帯びた。



 半年前から実際に魔力を使う事を意識的に避けていた。



 怖かったのだ。


 あの時宮廷魔術師三人を襲った自分の魔力。

 リュティスは殺意を持って魔法を選んだ、と言っていた。

 内に湧き起こるあの炎のような感覚もまだ強く覚えている。

 建物も、人も、一瞬にして飲み込んでしまった。


 もしまたあんなことが起きたら。


「意識を乱すな、メリク」


 ひどく緊張して自分の手首をぎゅっと掴んでいたメリクは、不意にひやりとした感覚が手の平に触れたのを感じて眼を開いた。

 リュティスの手が自分の手と繋がっている。

 瞳を上げなかったのは自分でも偉かったと思った。

 驚きと喜びはきっと瞳に出て隠せなかったと思うからだ。そんなものを見ていたら、リュティスはまた嫌悪するに違いない。

 リュティスの声が示すように、それはリュティスにとって魔術を使う事を必要以上に恐れる素振りを見せる弟子への注意だったのだろう。

 しかしメリクはひどく胸が熱くなって、それを顔に出さないように難しい顔をするのがとても大変だった。


(集中しなくちゃ。僕はもう、リュティス様に甘えるのは止めようって決めたんだから)


 心に強くそう思い、何とかメリクは魔法を終える事が出来た。

 白い包帯を解くとそこに走っていた擦り傷は跡形も無くなくなっている。


 それを確認してからリュティスは手を放した。


「魔術師は単なる知識の使徒ではない。

 知識のみに走るような者は実際魔術を発露する負荷に対して鈍くなる。

 それは魔術師としてとても愚かなことだ」


「……はい」

 下を向いているメリクは反省しているように見えただろう。

 でも本当は、顔が赤くなっているのが自分で分かるから上げられなかったのだ。

 少しでも馴れ合うような雰囲気をこちらから見せたら、リュティスがまた自分を疎んで遠ざけようとする事は分かり切っている。


「どんな魔法でも多少なりとも身体に負荷は与えるものだ。

 魔術をやる時は常に万全の状態で臨むようにしろ。精神も肉体もだ。

 少しの傷でも魔法を使う過程で悪化する事がある。

 治せぬ傷ならともかく、治せるものをそのままにするな」


「はい……。はい、リュティス様」


 メリクはしっかりと頷いた。

 その話はそこで終わり、リュティスはいつもの表情で何事もなかったかのように講義を続けた。

 メリクは意識してリュティスの言葉を聞くよう心掛けていたが、それでもいつもの半分も集中出来てはいなかっただろう。


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