テル=アルディア戦記~黄昏の神々と黎明の剣~
ノートンビート
第Ⅰ幕「灰の騎士、旅立つ」
第1話 辺境ブレイ村の静かな春祭り
ブレイ村に春が来ると、空気まで甘くなる。
山から届く雪融け水の香り、畑を耕す土の匂い、そして屋台で焼かれる蜂蜜パンの香ばしさ。鼻孔をくすぐるたび、ライル・グレイアッシュは思わず腹が鳴る。
「お兄ちゃん、剣の構え合ってる?」
木剣を握る少年が見上げた。その刃先は斜め四十五度――どこかで見た“かっこいいポーズ”の完全コピーだ。
「惜しい! でもそれは“英雄の勝ちポーズ”で、実戦じゃスキだらけだぞ」
ライルは笑いをこらえ、少年の手首をクイッと直す。子どもたちは「へぇ〜!」と歓声をあげ、彼を中心にくるりと輪を描く。今日は村一番の祭り《新芽祭》の前日、暇を持て余した子どもたちの“ライル道場”は恒例行事だ。
「ってことで、攻撃は腰を落として――えいっ!」
木剣が風を切り、道場(と呼ばれているが単なる広場)の空気がビシッと鳴った。
「なにそれカッコイイ!」
「おれ、将来ライル兄ちゃんみたいな騎士になる!」
無邪気な声にライルの胸はくすぐったく温かくなる。同時に、腰に下げた革鞘が心地悪く揺れた。鞘の中身は祖父の形見の古剣だが、王都の正規騎士から見れば“見習い刀”程度。ライルはまだ騎士の称号を持っていない。騎士団の入団試験に落ちたという黒歴史が、子どもたちの羨望を浴びるたびに疼いた。
稽古を終え、子どもたちが屋台へ駆けていくと、広場には穏やかな夕光が射した。
「ライル、今日も人気者じゃのう」
鍛冶屋の老職人ベルクトが、鉄粉だらけの前掛け姿で現れた。
「おかげで仕事をサボった子どもが増えてるって怒られましたけどね」
「はは、祭り前は浮かれるもんさ。……ところで、お前さんの腕輪、また磨いたのか?」
言われてライルは左手の“銀の小手”を擦る。母の形見――簡素だが手首全体を覆う銀のガントレット。
「これだけは汚せないんです。父さんと母さん、二人とも僕に“守る手”を残してくれたんだから」
「立派な心意気じゃ。だが――」
ベルクトは眉を寄せ、遠く霊峰グランスを仰いだ。
「山がおかしい。ここ数日、石切場の岩盤が唸っとる。獣たちも一斉に姿を消した。嫌な気配じゃ……里の守り、気を抜くなよ」
「わかってます。何かあったら僕が――」
「一人で背負うな。若いもんほど、仲間を頼れんものだ」
ベルクトはトンと胸を小突き、昼間の冗談と同じ口調で去っていった。しかし背に漂う鉄と油の匂いは、妙に重かった。
夜。祭りの前夜祭として、広場には篝火が灯った。笛と太鼓が交互に鳴り、村人は円になって踊る。
「ほらライル、一緒に――」
腰を引かれたライルは苦笑する。踊るより警戒のほうが気になっていた。霊峰の方角から、耳の奥で微かな唸りが続いている。風? それとも――。
不意に、火の粉が真横に流れた。
「風向きが……違う?」
次の瞬間、闇の向こうでゴゥゥゥンと低い咆哮が轟いた。
「な、何だ!?」
篝火が揺さぶられる。遠くの木立が一斉にざわめき、影が抜けるように躍り出た。
それは獣――しかし獣と言うには輪郭が曖昧すぎる。漆黒の煙が獣の形に凝り固まり、炎の光を吸い込んで底なしの闇だけを残していた。
「み、皆逃げろ!!」
祭りの喧騒は悲鳴に変わり、子どもたちが屋台を倒して逃げ散る。ライルは咄嗟に剣を抜き、影獣へ駆けた。
斬撃。手応えは霧。そもそも“肉”がない。刃は黒煙を裂くだけで、切断された部分はすぐに絡み合い元の輪郭を取り戻す。
「くっ――これじゃ、斬れない!」
影獣は咆哮とともに広場へ突進。屋台が紙細工のように吹き飛び、焚き火が弾けて夜空に火の粉が舞う。
「避難誘導! 母屋へ!」
ライルは声を張り上げ、剣で獣の注意を引く。しかし獣は彼を無視し、村の中心にある聖樹へ向かった。根元には今年の収穫と新生児への祈りを込めた聖酒樽――村の象徴そのものだ。
「待てッ!!」
ライルは追う。だが獣は黒い波になって樽を包み込み、粉砕。聖酒が燃え、紫の炎が広がる。
火光に照らされて一瞬だけ、獣の胸部に銀色の“欠片”が浮かび上がった。ギザギザに歪んだ金属――見慣れぬ紋章が閃いてすぐ闇に溶けた。
(何だ……あの金属は?)
思考の隙を突くように尻尾状の影が叩きつけられ、ライルは地面を転がった。視界がぐにゃりと歪む。遠くで村人が泣き叫び、木造の屋根が崩れる轟音が重なった。
立たなければ。
足は震え、剣は砂を噛んだまま。しかし背には子どもたちの声がある。
「兄ちゃん、逃げてよ!」
涙を滲ませた小さな瞳がこちらを見ていた。
「……逃げないさ。騎士になるんだ、僕は」
ライルは血を拭い、ヨロリと立つ。再び剣を構えるが、獣は聖樹を炎で包んだまま悠然と頭を巡らせ――村の家々へ向き直った。
轟音とともに黒煙が広がる。
ブレイ村の“静かな春祭り”は、業火の夜へ一変した。
(――俺は、何も守れなかった……!)
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