あなたがやったことにしましょう

誰かの何かだったもの

第1話

「この伝票、処理ミスだよ。数が合わない」


課長の声は、怒気を抑えた低音で、かえってこちらの神経を削る。

私はファイルを受け取り、中身を確認する。確かに、見積り金額と発注数が食い違っていた。


「でもこれ、僕の担当じゃ——」

口に出しかけたところで、隣の席に座る新人の山下がこちらを見ていることに気づいた。彼の目は、どこか怯えていた。


ああ、これは、もう始まっていたのか。


「お前が入力したって、山下が言ってるんだよ」

課長は、机の上に書類を投げ出す。


私は、何も言えなくなった。



月曜日。

いつも通りの朝のはずだった。ミスをしたのは明らかに山下だった。彼が最終確認をせずに承認ボタンを押したことを、私は見ていた。


だけど、彼は言ったのだ。「最初から先輩が打っていた」と。

上司の前では、それが全てだった。


「まあ、まだ客にはバレてない。今のうちに直しとけよ」

課長はそれだけ言って、煙草でも吸いに行くように奥へと消えていった。


私はモニターを見つめた。言い返す言葉は、どこにもなかった。



火曜日。

会社に行く足取りは重くなっていた。思い込みかもしれないが、同僚たちの視線が冷たい。コピー機の前で立ち話をしていた女子社員が、私の姿を見た途端に話をやめた。


「なんか、またやらかしたらしいよ」

後ろから聞こえた小声が、やけに鮮明に響いた。


無実なのに、とは思わなかった。

無実だったことを証明できない自分に、腹が立った。



水曜日。

取引先に送る重要なメールのチェックを任された。終業間際にようやく上司からの確認が返ってくる。


「修正、できたか?」

「はい」

「ふうん。……じゃあ、もういいわ」


“もういい”という言葉は、“お前に任せたのが間違いだった”という意味だと、誰かが言っていた気がする。


帰宅して風呂に入り、風呂の中で泣いた。



木曜日。

朝、パソコンを立ち上げると、メールが一通。件名には「確認事項」。開くと、昨日送った書類に記載漏れがあると書かれていた。


内容を確認したが、そこに名前があったのは山下だ。

それでも、指摘されるのは私。


昼休みにそっと食堂を抜け、トイレの個室にこもる。頭が痛い。視界の端がチカチカする。

疲れていた。



金曜日。

私は、会議室に呼び出された。上司が二人と、人事担当がいた。


「この一連の不始末について、君の見解を聞かせてくれるかな」


その声は穏やかだった。

私は、静かに言った。


「……僕が、やりました」


目の前の三人の顔が、ほっと緩むのが見えた。


「そうか。正直でよろしい」


そう言われて、何かが崩れる音がした。心の中で。

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