ある薬草研究者の語り2
夜の研究室は、光学分析装置の低い駆動音だけが支配する静寂に包まれていた。ディスプレイに表示されるであろう分析結果を待ちながら、私は机の上に置かれた一つの分厚いA4サイズの書留封筒に目をやった。差出人は、大城大学の柳井教授。先日、永禮村の祠で面会した、あの温厚な民俗学者からの便りだ。封を開けると、丁寧にコピーされた永禮村出身者の手記とともに、美しい筆致でしたためられた手紙が顔を覗かせた。
手紙には、先日の祠の調査に対するお礼が述べられていた。研究者としての心構えや、あの祠が市の町おこしの一環として整備されていく予定であることも記されていた。「これは急がなくては」と、焦燥にも似た言葉が思わず口をついて漏れた。伝承の核心に触れるかもしれない「くろまんじゅ」。その存在が公になれば、研究対象としての価値は薄れてしまうかもしれない。
翌朝、寝不足の瞼を擦りながら、私は再びあの寂れた祠へと足を運んだ。早朝の空気はひんやりとして清々しいが、私の心は逸る気持ちで熱を帯びている。祠の前に立つと、この前までのひっそりとした佇まいから一変し、真新しい観光案内の看板が立てられていた。 市の七不思議の一つとして、「黒い彼岸花(くろまんじゅ)」の伝説が、当たり障りのない言葉で紹介されている。曰く、くろまんじゅが咲く頃にお清め祭が行われていた、という程度のものだった。賽銭箱に真新しい小さな鳥居まで設置されている。観光地化の波は、確実にこの場所にも押し寄せている。
「確か、このあたりに……」記憶を頼りに祠の周辺を探すと、枯れた葉が数枚落ちているのが目に入った。慎重に一枚拾い上げ、葉脈を観察する。間違いない、これは古文書に描かれていたくろまんじゅの葉だ。つい最近、私は偶然にも、くろまんじゅの栽培について書かれた古文書を手に入れていた。著者は不明で、いくつか購入した古文書の中に紛れていたものだった。
「この根元を掘れば、鱗茎があるはずだ」興奮を抑えきれず、独り言が漏れる。小さな移植ゴテを取り出し、慎重に土を掘り返していく。やがて、土の中から、いくつかの黒ずんだ鱗茎とともに、鳥の骨のような、小さな骨片が現れた。古文書には、くろまんじゅは焼いた供物の血と灰で開花し、人々の穢れが集まるほど、より黒く、大きく育つと記されていた。
「これで、遂に……」私は、むき出しになった鱗茎に手を伸ばした。その瞬間、ふと、柳井教授の手紙に書かれていた、あるアドバイスが脳裏をよぎった。民俗学を生業とする者として、常に心がけたいのは、調査される側の迷惑についてだ。人には、大なり小なり、踏み入られたくないことがある。それを蔑ろにしては、大きなしっぺ返しを食らってしまう、と。
その刹那、私の視界は一瞬にして漆黒に染まった。まるで、底なしの闇が一塊となって私を飲み込んだかのように。途切れそうになる意識の中、私はぼんやりと悟った。「この花が黒いのは、血と灰のためではない。これは、純粋な闇だ」。そして、私の意識は、その深い闇の中に沈んだ 。
早朝の静寂の中、修繕されたばかりの祠だけが、その存在を静かに主張していた。
ある祠の語り 夏久九郎 @kurou_kaku
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