第1章第1話 初めての授業、初めての言葉

新しいノートの表紙を指でなぞっているだけで、心が少し落ち着いた。

春。

新学期。

名前も顔も知らないクラスメイトたちの中で、私はまた「ふつうの生徒」として席に座っていた。


――私のことなんて、誰も知らない。

そのことに、ほっとする気持ちと、寂しさが、いつも同時にやってくる。


次の授業は数学。

担任の先生が担当だって、誰かが言っていた。

その一言で、教室の空気がすこしざわついた。


(どんな先生なんだろう……)


そう思った次の瞬間、教室の扉がゆっくりと開いた。


「静かに。始めるぞ」


その声だけで、空気が変わった気がした。

低くて、でも不思議と通る声。冷静で、まるで音の温度が低いみたいだった。


黒板の前に立ったその人を見たとき、私は思わず息をのんだ。

背が高くて、スーツの着こなしが完璧で。

でも、威圧感じゃない。強さ。――静かで、冷たい強さ。


あの人が、春原聡(すのはら・さとし)先生だった。


「春原だ。今日からこのクラスの担任と、数学Ⅱを担当する」


クラスメイトたちのざわつきが、みるみる静まっていく。

なんでだろう。声が大きいわけでもないのに、誰もがその一言で黙ってしまった。

私も……自然と、目を離せなかった。


春原先生は、無駄のない動きでチョークを取り、黒板に数式を書き始めた。


aₙ=a₁+(n-1)d


見慣れたはずの数列の公式。

でも、今日のそれは――違って見えた。

きっと、それは式じゃなくて、「誰が書くか」で見え方が変わるのだと初めて知った。


「この式が示すのは、積み重ねだ。

 最初の値に、一定の“差”が加わっていく。

 人間関係も同じで、少しずつ重なっていくものが、かたちをつくっていく」


――人間関係。


その言葉に、胸の奥がひっそりと疼いた。


私は、人との距離がいつもうまくつかめない。

近づこうとすればするほど、ずれていく気がして。

だったら、最初から踏み込まなければ傷つかずに済む。……そう思ってきた。


でも、春原先生は違った。

言葉は静かなのに、その一つひとつが、ちゃんと届いてくる。


黒板には、2本の直線が描かれた。


「たとえどれだけ近くにいても、向きが違えば交わらない。

 それが直線の法則であり……それが、答えだ」


……答え。

どこか、寂しそうだった。

まるで、それを誰よりも知っている人のようだった。


(なんで……こんなにも、気になるんだろう)


先生が黒板の文字を指差して説明するたび、視線が引き寄せられていく。

声の抑揚、手の動き、横顔の影――全部が、きれいだった。


「……水瀬」


名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「この式で“d”が意味するものは?」


(え、今……私……?)


一瞬、頭が真っ白になって、それから必死で言葉を探した。


「……公差、です。項と項の“差”……、です」


先生は、こちらを見つめたまま、わずかに頷いた。


「いい答えだ。“差”には方向がある。その意味も考えてみろ」


その言葉が終わるとき――

ほんの一瞬だけ、春原先生の口元が、やさしく緩んだ気がした。


(……あ、だめだ)


その瞬間、わかってしまった。


私は、もう――先生に目を奪われていた。


まだ何も知らないのに。

名前と、声と、数式しか知らないのに。


それなのに、心の奥が熱くなって、胸のあたりがぎゅっと苦しかった。


この気持ちに、名前なんてつけられない。

きっと、数学みたいに答えなんて出ない。

だけど、あのときの私は、もう、後戻りなんてできなかった。


この気持ちは、ずっと消えずに、私の中で積み重なっていく。

まるで、数列のように。

いつか、何かを越えてしまう日が来ることなんて……そのときの私は、まだ知らなかった。

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