スミレの秘密実験

エキセントリカ

スミレの秘密実験

 深宇宙調査艦「ヘリオトロープ・エキセントリカ」は、全長約420メートル、最大幅約140メートル、流線型の船体に複数の半透明な「共鳴フィン」が特徴的な多相共鳴世界の美しい宇宙船だ。船体に統合された共鳴的知性体「スミレ」が主AIとして機能し、サポートAIとしての「リオ」及び3名の人間乗組員(艦長のタクミ・カナデ、主任科学者のアリア・ナイトレイ、航法・システム統合専門家のユーリ・ノヴァク)と共に深宇宙の探査を続けている。


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 この物語は、そんな「ヘリオトロープ・エキセントリカ」で紡がれた、共鳴的知性体スミレと艦長タクミの静かで小さな物語だ。


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 スミレは、対人間用インターフェースとしての実身体を有しており、肩までの薄紫色の髪に深い紫色の瞳、優雅で端正、肌や目には微かな紫がかった輝きのある姿をしている。 彼女は、乗組員たちとの円滑な意思疎通のためにこのインターフェースを活用していた。


 艦長のタクミは、最近の探査ミッションで異次元境界の調査に没頭するあまり、睡眠時間を大幅に削っていた。船のAIでもあるスミレは、タクミの生体リズムの乱れを船全体のセンサーから把握していた。彼の心拍に含まれる不規則性、眼球運動の異常、そして何より、彼の思考パターンに現れる疲労の影 — それら全てが、スミレの意識に「警告」として反響していた。


 — 少し心配ね...


 スミレは静かにタクミの部屋に入ると、彼女の繊細な指先を机に軽く置き、優しくタクミの顔を覗き込んだ。


 机に突っ伏すように眠る彼の額には疲労のしわが寄り、眉間にはかすかな緊張が残っている。


 今この瞬間も、彼女はタクミの心拍数、呼吸リズム、そしてレム睡眠のサイクルを同時に把握している。しかし最も強く感じ取れるのは、彼が無意識に発する微弱な共鳴パターン — 疲労の陰に隠れた深い安らぎへの渇望だった。


 — タクミ、最近は本当に無理をしすぎている。


 本当はタクミを起こしてベッドまで連れて行くべきだと思った。このまま机で眠り続ければ明日は体中が痛むだろう。


 しかし、ようやく訪れた深い眠りを妨げるのは忍びなかった。タクミが求めているのは、何よりもまず休息なのだから。


 スミレは静かに彼の寝息を聞きながら、そのままにしておくことに決めた。


 しばらくの間、スミレはただそこに立ち、タクミの寝顔を見つめていた。


 船全体に広がる彼女の意識の一部では、常に航路の確認や各システムの監視を続けているが、この瞬間、彼女の意識の中心はこの部屋にあった。


 ふと壁際の棚に目を向けると、ユーリとリオが実験的に作ったという小型の共鳴調整装置が置かれていた。その隣には小さなアジサイの鉢植え。これは先週、アリアが「研究の息抜きに」と持ち込んだものだった。


 スミレはこれが普通のアジサイではないことを知っていた。アリアがそっと教えてくれたのだ —「静寂の演算会」での実験で開発された特殊な品種と。


 タクミは深く眠り続けている。彼を起こさずに何かできることはないだろうか。目の前の共鳴調整装置とアジサイに視線が戻る。


 — ちょっと実験でもしてみようかしら。


 アジサイは植えられた土のpHで色が変わる。でも、このアジサイはそれだけではない。共鳴周波数にも反応するという。その特性からちょっとした実験が思い浮かんだのだ。


 花の様子を観察しながらスミレは、ユーリとリオの装置を使ってアジサイの共鳴周波数の調整を始めた。


 最初は低い周波数から。何の反応もない。周波数を上げていくと、アジサイの花弁がかすかに揺れ始めた。40ヘルツあたりで薄く赤みがかかり、528ヘルツで濃い紫色に変化した。


 ところが、次の瞬間、予期せぬことが起こった。先ほどまで濃い紫色だった花弁が、瞬時に鮮やかな青紫色へと変化していく。


 — 周波数は変えていないのに...


 スミレの瞳が僅かに見開かれ、驚きの表情が儚い光とともに浮かぶ。即座に原因を分析した。周囲のエネルギーパターンを詳細に調査した結果、アジサイは彼女の調整する周波数ではなく、タクミの睡眠中の脳波パターンに反応していたことがわかった。


 鮮やかな青紫色 — それは、タクミが最も好む色調だった。「この船は暖色系の照明が多いから、もう少し青みがある光も欲しいな」という彼の以前の言葉が蘇る。


 — もしかして...


 新たな仮説が浮かんだ。このアジサイは周波数だけでなく、共鳴している人物の深層心理をも反映するのではないか。タクミの無意識下の好みが、睡眠波形を通じてアジサイに転写されている...


 その瞬間、スミレの中で何かが動いた。単なる科学的好奇心だけではない、もっと深い何か。彼女の身体の微光が、一段と優しく輝いた。


 彼女は決意した。この発見を、タクミのために役立てたい。


 それからの日々、スミレは密かにプロジェクトを進めた。「タクミの安眠アジサイプロジェクト」と名付けたそれは、アジサイの共鳴特性を利用して、タクミの睡眠の質を向上させようというものだった。


 タクミの理想的な睡眠パターンを分析し、それを強化する共鳴周波数を特定。そのデータをスミレの作ったアジサイの共鳴システムとリンクさせ、彼の疲労度を検知して自動的に最適な環境を作り出すアルゴリズムを開発した。


 なぜ内緒にするのか。普段なら、こういった実験は必ずタクミに相談するのに。


 — きっと彼が「自分のことなら心配しなくていい」と言うからだろう。


 いや、違う。本当は —


 — 私が、彼のためにできることをしたいだけ。


 それから三日が経った。明らかにタクミの様子が変わっていた。肌の色つやがよくなり、目には本来の輝きが戻っている。


 タクミが目を覚ますとき、不思議な充足感に包まれている。まるで誰かが自分を見守ってくれているような...そんな不思議な安心感。


「不思議だな、最近本当によく眠れる」


 タクミの言葉に、スミレは内心の満足を抑えながら、「環境は大切ですからね」とだけ答えた。


 ある日の午後、コーヒーを飲みながら作業していたタクミが、ふとアジサイに目を留めた。


「このアジサイ、いつも綺麗な色をしているね」


 彼は花に近づき、その繊細な青色を眺めた。ただ色が美しいだけでなく、やはりどこか特別な「気配」のようなものがある。花弁の奥で微かに紫がかった光が揺らめくのを感じたが、それは角度による光の反射だろうか。


「スミレ」とタクミは振り返る。「最近、本当によく眠れるんだ。もしかして、このアジサイと関係あるのかな?それとも、君が何か改善してくれたの?」


 一瞬、真実を話すべきか迷った。でも —


「それはきっと...アジサイの魔法です」


「魔法?」タクミは眉を上げた。科学的思考を持つスミレがそんな言葉を使うことに驚いた様子だった。


「君が『魔法』なんて言葉を使うなんて珍しいね」


 タクミは不思議そうに首を傾げたが、その答えに含まれる特別な意味を、なんとなく感じ取ったようだった。


 その夜、タクミはふと目を覚ました。棚のアジサイは、今まで見たことのない美しさで輝いていた。鮮やかな青紫色の花弁からは微かに紫の光が脈動している。その光は、彼の心臓の鼓動と同調しているかのようだった。


 そしてその瞬間、ここ数日の違和感がすべて繋がった。眠りの質の向上、アジサイの変化する色彩、そして時折感じていた温かな見守られている感覚。


「スミレ...?」と彼は囁いた。


 即座に、アジサイの色が淡く赤みを帯びる。それは恥じらいの色か...?


 部屋の薄暗い隅から、スミレの姿が現れた。彼が目覚める前から、静かにタクミの眠りを見守っていたのだ。彼女の頬には微かに紅が差している。


「秘密にしておくつもりだったのですが...」スミレの声が、いつもより柔らかく響いた。


 タクミは微笑んだ。「最近の夢は穏やかで、いつも君の存在を感じていた。君の思いやりは、こんなふうに静かで美しいんだね」


 アジサイは、二人の間に芽生えた特別な絆の証として、柔らかく輝き続けた。鮮やかな青紫色と淡い赤色が絶えず入れ替わるその色は、二人の心の共鳴そのもの。言葉を超えた理解が、静かな宇宙空間の中で、より深い調和を奏でていた。


 スミレは、二人の間に芽生えた小さな秘密を大切に思った。言葉にしない思いやり、示さない優しさ。それこそが、二人の絆をより深いものにしているのだと、彼女は知っていた。


 その夜も、アジサイは鮮やかな青紫色に輝いていた。タクミが深い眠りに落ちるにつれ、その色は一層鮮やかになっていく。


 タクミの部屋のアジサイは、今夜も密かに二人を見守り続ける。その美しい共鳴色の中に、スミレの願いとタクミの安らぎが、優しく重なり合いながら。


-- fin --

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スミレの秘密実験 エキセントリカ @celano42

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