第2話 この世界


 かすんだ空気によって日差しは弱い。見上げた太陽の輪郭はぼんやりとしていた。

 老人は道路の横、砂漠のように砂ばかりの地面を歩いた。

 反対車線にはフェンスがあり、その向こうに軍服を着た兵士が走り周り、彼らを叱責する大きな声が聞こえた。

「おい貴様、泣くな。立ち上がれ!」

 老人はその声のする方を見た。一人の兵士が地面に仰向けになっている。そこに教官らしき人物がツカツカと歩み寄り、怒鳴りつける。それを老人は横目に見ながら、歩き続ける。

「泣くなど言語道断! 感情を捨てろ。それは弱さだ!」

 老人は目をつむり、その声にじっと耐えた。その鋭さに、その言葉の無意味さに、自分の息子もかつてはそこにいたのだという事実に、じっと耐えた。

 ……老人は歩き続ける。景色は変わり、ビル群の立ち並ぶ通りにさしかかった。

 全てのビルから垂れ幕が下がり、スローガンの書かれたそれは風になびいている。

「『ポジティブであれ。前を見ろ』」

 サラリーマンが電話をしながら、虚空を見つめている。

「申し訳ありません。すぐに対処いたします。なにせまだ教育が足りていないもので……」

 彼はそう口にしながら、無表情で、直立不動のまま謝罪を述べている。

 ……老人は歩き続ける。

 そこは老人の住む区画の、富豪たちが暮らす場所。黒くピカピカとした車から降りてきた肥えた男は、笑いながら後ろのドアを開ける。そこからは彼の妻と娘が出てきた。

 彼ら三人は、笑っている。

そう、笑えるのだ。

 金を払うことを選べば、笑える。笑っていいと許可される。

この世界は、笑うためにも金のいる世界。

 老人はその富豪たちを見つめながら、荷物を背負い直す。

途端、前を向いて歩く老人の目の色が、変わった。

 背を曲げた彼。その目が、光を灯している。

 富豪の姿を見たからだろうか? 彼らが笑っているから? それとも、全てを管理しようとする社会に思いを馳せたから?

 老人は富豪たちの住む場所を抜けて、人気のない、煙を吐き出す工業地帯へと歩みを進める。目指しているのは倉庫。

 そこは彼の住む場所。いや、彼らの住む場所。


 老人はガタガタと立て付けの悪い扉を開けた。

 光の弱い倉庫内、その地面にたくさんの人間が所狭しと座っていた。この場所が、彼の実家と言える場所だ。

 老人は人の間を抜け、壁際へと歩いていく。その場所は老人が生涯かけてようやく得た特等席。壁際は、倉庫の中では一等地だと言われている。

 老人はそこへ腰を下ろす。

 すると、壁に背を預け、黒い包帯を顔に巻いた男が俯いたまま話しかけた。

「……タレバ、帰ってきたのか」

「えぇ」

「……で、どうだった」

「答えるまでもないでしょう」

 包帯を巻いた男、ナラズはため息をついた。

「長いこと役場に行っているな」

「えぇ」

 そう言いながら、老人は懐から一枚の写真を取り出した。

 そこには二十年前のタレバと、十八になったばかりの息子がいた。タレバは息子の肩に手を添えて、こちらを見つめている。彼の息子も、カメラをじっと見つめている。だが心なしか二人とも、すこし口元が緩んでいるように見える。

「なあタレバ。お前はなんでずっと申請をしにいくんだ」

「息子のために、泣いてやりたいのです。……そう昔言ったはずです」

「違う。戦争に行った息子のために弔いはもうしたはずだ。軍だって弔いの歌を歌ってくれただろう。涙を彼のために流してやることが、そんなに重要なのか?」

 老人は懐に写真をそっと、優しく戻した。

「それともお前にとっては、また別の意味合いがあるのか? 涙を流すことに」

「そんなもの、ありませんよ。ただ私の心が、泣きたいと言っているのです。その場を設けようと思っているだけです」

 老人はそう言って膝を曲げ、そこに乗せた腕に顔をうずめた。

黒い包帯を顔に巻いた男は俯いたまま。

 ……すこし、二人の間を沈黙が流れた。

「……タレバ、眠ったのか?」

 老人は答えない。黒い包帯の男は俯いたまま顔を上げないまま、問いかける。

「お前は昔、『タダで得られるものにこそ価値がある』と言っていたな」

 老人のまどろみの中に、包帯の男の声が響いている。

 ……何かを代償としない。金も、モラルも、何も気にせずとも得られるものにこそ価値があると、お前は言っていたな。

 だからお前は、役場に申請をしに行っている。申請が通れば金を払わずに、泣くことができるからな。

 だがお前には、一度くらいなら泣けるだけの金はあるだろう。

 だから、私はこう思っている。金をかけず感情を出すことに、何か意味を感じているのではないかと。

そして、モラルも金も気にすることのない行動に、人として、生物としての本来の尊厳があると、お前は知っているのではないか?

 ……なあ、タレバ。教えてくれ。

私は、私たちは、生き物としての本分を忘れてしまったのか?

 老人は自分の名前を呼ばれたことに気がついたのか、ぴくりと反応してから顔を上げた。

「あなたは包帯で顔を覆っている。その中で、笑うことも泣くこともできるでしょう」

「できる。だが、他の人は笑えない」

「あんたが羨ましい。あんたは自由だよ」

「……自由だが、そこにどんな意味があるというのだ」

 老人は立ち上がった。黒い包帯の男をそこに残して、彼は倉庫を出ていった。

 もうすぐ、日が沈む。山のすぐ上に太陽があった。

 老人は倉庫の横、みんなが共同で使う台所へと向かった。

 老人は思った。

 そこでは、きっと誰かが料理をしている。それを少し分けてもらおう。今日は疲れた。前に何人かに料理を分けてやったから、今日は誰かが分けてくれるだろう。

 それから工場の横にある常夜灯の下で、歯を磨こう。そして眠ろう。

 寝て、また明日の朝、起きる。同じことの繰り返し。

 だが、意味はあっただろう。

 泣くための申請。それを続けること。きっとこの道の先に、得るものがあるだろうから。

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