ファンタズマ ー最後の涙ー

鳥野空

第1話 老人とAI

老人は画面を見つめて、ため息を吐いた。

 今は西暦2125年。彼は役場のAIが表示した画面を見つめたまま、力無く問いかける。

「……本当にもうないのか、予約枠は?」

「はい、ございません」

「もう申請に来てから二年が経つんだ……。何か、私は手違いをしているのか?」

「いえ、そうではありません。タレバ様はとある事情により『涙を流す権利』を申請することを希望されています。その点についてはお間違えないですね?」

「……あぁ」

「その予約枠は一年先まですでに埋まっております。ずっと申請を行おうとされていますが、その申請を受け付ける枠がないのです。手違いなどはされておりませんので、ご安心ください」

「そうか。……そうだ、私は七十七になるんだ。なにか、高齢者への特別措置などはないのか?」

「はい、ございません」

 AIは即答した。

「タレバ様、諦められてはいかがでしょうか? 感情は生きていくために決して必要なものではありません。それよりも、タレバ様のお仕事であるスクラップ運びをされたほうが社会にとって、またタレバ様にとっても有益かと推測します。いつまでも何かにすがっているのは、決してよろしい態度とはみなされません」

 ……そう。この世界では、そういった態度、いつまでも何かに縋るのは弱さとして検知される。それが検知されれば、金を払うことになるか、刑を執行される。

「申請が受理されたとして、一度しか泣けないのですよ? そんな一度きりのことになぜこんなに時間を費やすのですか?」

 老人は答えず、ディスプレイをホーム画面に戻しながら、口にする。

「……また来る」

「いえ、タレバ様。また来ることは危険ではないでしょうか。これ以上そのような行動を続けていると……」

 まだ喋っているAIを無視して、老人は部屋のドアを開けた。目の前にはみすぼらしい服装をした人々が列をなしている。茶色く濁った空気の中で人々の見つめる先にあるのは、テレビ画面。そこで流れる音声と映像はこの場所とは対照的な、きらびやかで、真っ白い空気のなかで季節の移ろいを喜ぶニュースキャスター。老人も彼ら同様に、死んだ目でそれを見上げて、荷物を背負い直して歩き出す。

 すると老人の目の前に、一人の女が飛び出してきた。

 テレビを見ていた老人はその女に気づかず、ぶつかる。彼は足がもつれてその場に倒れてしまった。

その女も走っていた勢いのまま転び、カバンの中身が床に飛び散った。

その様子を見た人々は驚き、どうしたらいいものかと、ウロウロとした。

「すみません。急いでいたのです。大丈夫ですか?」

「……あぁ、大丈夫だ。転ぶなんて、子供の時以来だよ」

 老人は手をパンパンとさせてゴミを払いながら、無表情で言った。

こういう時人は、心配ないと微笑んだり、何かしら表情に変化があるものだろう。だが老人の顔はまるで固まった泥のように、ぴくりとも動かなかった。

老人は女の胸元にぶら下がっているものを見つめた。それは名札だった。

 ……アントン。

 そのアントンという女は散らばった荷物を拾ってから、もう一度「すみませんね」と言って立ち去った。

 老人は地面に座ったまま、女が走っていく後ろ姿を見つめた。

 老人は思う。

 ……役場に来る人間で走るようなものは、一人もいない。

 役場に来る人間たちの多くは、希望をなくしたもの。そしてその無くしたものをなんとか、取り返そうとしている。

 だから彼らは、のっそりと、まるで世界の底に集まった影のようにズルリ、ズルリと動いている。走るような活発さは、どこにもない。

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