ここは日本では無い、ならば




五つか六つか、かみ砕いて嚥下して、次のパンを手に持ち確保してから、ハッと七海が正気に戻る。壁に掛けてある時計を見ると、時間が十数分進んでいた。

隣のシンを見ると苦笑して、七海の口元をタオルで拭いとる。

「う、あの」

赤の他人に子供のように口を拭われて、七海の顔が真っ赤になった。

「お腹空いていたんだな。まだ食べていいよ。でも、話をしようか」

「うん」

持っていたパンを大皿に戻すと、七海はマグカップを両手にとってミルクティーを飲んだ。慌てて食べたから少しお腹が痛いが、目の前のパンはなくならない様なので、前のめりに座っていたソファに背中を預ける。

ゆったり座りなおした七海を見て、シンは視線を外さないまま話し始めた。


「ナナミが言っているのは、違う世界の話だな」

分かってはいても確信的に言われると、七海の胸がギュッと締め付けられるようになる。顔色が変わった七海の顔を見ているはずのシンは、まるで意に介さないように話し続ける。

「ナナミはこっちに来てからどれくらい経つんだ?」

「…二カ月ぐらい、だと思う。時計が無いから正確には分からないけど」

ふっと自分の左手首に目線をやりながら七海が答えると、肯いてからシンが話し続ける。


「ニホンって言ったよね?」

「うん」

「前にも聞いた事がある。多分僕の知り合いにそこ出身の人がいると思うよ。ナナミとは歳が違うと思うけど」

「え、他の人」

問いかける七海を見て、シンはまた頷く。

「そう。ニホンから来たって言っていた気がする」

「あの、シン。此処はなんて言うの?」

「この国の名前?」

肯く七海にシンは少し迷う様に眉根を顰めた。


「『パヤーナ聖王国とフュイエル神聖帝都連合国家』。だいたいの人はパヤって呼んでいる」

「…パヤ」

少し不思議そうに名前を繰り返す七海にシンはまた頷いた。

「大陸の端にある小さな国だ。島のようにほとんどが海に面していて、大陸に通じているのは一か所しかない。だから助かっている」

「…崩れた人型が少ないの?」

七海の言葉にまた、シンが小さく笑う。

「あいつらの事をそんな風に呼んでいるのか?随分文学的だな」

「え、そう?」

武骨な銀色のポットを持って、おかわりのミルクティーを七海のマグカップに注いでから自分のカップにも入れてポットを置くと、シンはガラスの向こうを見る。


「あいつらはノマジニア・アンクロドゥース。ノマと言われている。人の遺骸に菌が取りついたものだ」

「菌?バイオハザードなの?」

問いかけた七海を見ずにシンは話を続ける。

「そうだ。遺骸に取りつくもので、生きた人間には取りつかない。ある日どこかの場所でノマが現れて、それを研究した人間がいて、繁殖させた」

「え?」

「菌を繁殖させて実験をした、らしい。研究者が想像していたよりも早く菌は増殖して空気に紛れて外に出たらしい。研究所があった場所の周りにノマが大量発生してからようやく事態が発覚した」

小さく溜め息を吐いて、シンはミルクティーを飲む。


「遺骸にしかつかないけど、取りつかれた遺骸は生きた人間を襲う。どうやってそれを思うのかは知らないが、沢山の遺骸を欲して次々と人間に襲い掛かった。ノマはノマを増やしたいと思うらしく、研究所がある町は一か月もしないうちにノマしかいなくなったそうだ」

七海のごくりと唾を飲む音が大きく響いた。

「噂を確かめる軍隊が研究所のある街に行って、帰ってこなかった。国は町を隔離して事態を収束したかったようだが空気感染する事は知らなかったようだな」

「…それで?」


シンは七海を見て肩を竦めた。

「一か月もしないうちにその国はなくなってしまった。ノマに効く薬は無いし、空気感染するから対策は無理だった。生きていれば感染しないがノマに襲われる。土葬の習慣がある国は数か月でほとんど無くなった」

「全部ノマになってしまったの?」

こくんとシンが肯くと、七海の身体がぶるりと震えた。


「火葬をすれば遺骸がノマになる事を防げるけれど、焼いた煙に乗って火に耐えた菌が拡散したから、感染を止められなかった。どちらにしろ、世界の殆んどが沈黙した」

少し冷めたミルクティーを飲んでから、シンは小さく息を吐く。七海は窓から見える夜の世界を不安そうに眺める。

「人類が一億を切った時ぐらいに、特殊な人間が現れた。生きているのにノマの菌を保菌したまま正気でいられる人間。適応者と呼ばれている」

「…適応者」

七海が呟くと、シンがちらっと七海を見た。


「そうだ。菌を保有している生存者。死んでもノマにはならない。人間のままで死んでいけるだろうと言われている」

「言われている?」

「残念ながら確認は取れないんだ。遺骸は数時間で灰に変わってしまうからな」

七海の瞬きが慌ただし気に繰り返される。それを見ながらシンはミルクティーを飲んだ。


「さらに適応者の中から特殊な者が出現した。覚醒者と呼ばれる、ノマと同等に戦える特別な力を持った人間だな」

「え?」

七海が首を傾げて聞き返すと、シンは小さく息を吐いた。


「…まあ、変な話だとは思うが。ここ数年で広まった現象だ。その現象のおかげで人間は生きる場所を確保し始めている」

「そうなんだ…」


呟く七海を見てシンは話を続ける。

「ナナミも多分、適応者だと思う。ノマがしつこく追っていたから」

「適応者はノマに追われるの?」

「そう。普通の人間よりもしつこく追われる、らしい。今では生き残っている人間の半分以上が適応者だから、大体しつこく追われているけど」

肩を竦めたシンを見ながら、七海は再びパンを手に取って齧った。もぐもぐと口を動かす七海を見てシンは苦笑する。


銀色のポットを持ってシンが立ち上がる。パンを口に詰めている七海を背にして簡素な台所に歩いていくと、小さなコンロにポットを置いて水と茶葉を入れてから火をつける。湧いたものを茶漉しで濾すと、ミルクを合わせてポットに入れなおし、七海を振り返ったシンは小さく笑った。


食べかけのパンを持ったまま七海は俯いて寝ていた。

手元からパンを奪うと、七海を抱き上げてベッドに寝かして毛布を掛ける。シンは寝ている七海をもう一度眺めてから、ソファがあるリビングを抜けて大きな窓がある小さな部屋に入る。七海が起きた時の為にドアは閉めずに、機械の前の椅子に座った。


指先でスイッチを押すと、通信時に流れるブウンという音が小さなスピーカーから流れる。置いてある時計をちらりと見てから、シンは相手が通信を開けるまで待つつもりで通信を表す波を眺めると、待つまでもなくカチリと機械の音がしてスピーカーから声が聞こえた。


『シン。通信時間がずれたのはどうしてだ?』

低い声が少し怒っているような声音で聞いてくる。シンは見えていないのは知っていたが肩を竦めてから答えた。

「人を見つけたから説明をしていて、連絡が遅れた」

『は?そこに人がいたって?そんなバカな』

「…居たんだから仕方ないだろう?助けない選択はないし」

『……人間ならば助けるのはもちろんだが。そうか。何処にいたんだろうな』

「さあ。隠れていたみたいだが、詳細は分からない。ただ、適応者じゃないかなとは思っているし、そっちに連れて行こうと思っているから、誰か寄越してくれ」

通信の相手は小さく唸るが、シンの言葉に返事を返さない。


シンはあまり動かない波を眺めながら相手の返事を待っている。数分唸ってから相手が口を開いた。

『シンの代わりが出来る人員が出払っていて、すぐには人を送れない。暫くはその相手と一緒にそこにいてくれないか?』

「僕は良いけど」

『なるべく急ぐから』

「分かった。他に異常はなし。また明日連絡する」

『ああ。じゃあ、おやすみ』

片眉を上げてからシンは小さく頷く。

「おやすみ、ガブス」

通信が切れてからグッと伸びをして、シンはイスに深く座る。機械の周りにある紙の地図を広げて小さな印をつけてから目を細めた。



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