ラウンド・サード

棒王 円

此処は異世界なのか、それとも




走れ。走れ。走れ。

もう何回も、そうやって心の中で叫んでいる。

短いボブだった髪の毛は、ポニーテールに出来るほど伸びていて、新しめだったスニーカーの底は、すり切れて剥がれそう。


走れ、走れ。

中学の制服は、色々な物に汚れて煤けている。

時折後ろから“ヴァ”とか“ギイイ”とか意味不明の声が聞こえてくるが、振り向いて確認する余裕はない。


走れ。

宮原七海は自分に言い聞かせて、全力で走っている。


彼女が走っているのは、所々剥がれているアスファルトの道だ。道の両端には廃墟が立ち並び、倒れた自販機が黒い水を垂れ流したまま、風化していた。

砂にまみれた街路樹は、歩道のアスファルトを突き抜けて根っこがあたりに蔓延っている。

走っている彼女は風景など気にも留めずに、前だけを見ていた。


十五分前は物陰に隠れながら、食料を探していた。この町には生存者がいないのか、民家の中に食料が残っていた。宮原が缶詰をカバンに入れて外に出ると、道の向こうに崩れた身体の人型が立っていた。遮るものは何もない道路の相向かいに、お互いに存在してしまった。

宮原は彼らの視界に入ってしまったと、きびすを返して走り出したが、そこまで長い距離は逃げられまい。


頭が熱く、何度も息を吸いながら、自分の足が遅くなってきたことに、彼女は泣きたくなった。後ろから風切り音がする。奴らが手を伸ばして指先で彼女を貫こうとしているのだろう。あと50メートルも走れないだろうと、彼女の目に涙が浮かんだ。

宮原の足が止まりそうに緩んだ時。


宮原の視界が汚れた肌色とカーキ色のシャツでふさがれた。

何かを言う前に、右わきに手を入れられて持ち上げられた。足が地面から浮く感覚。そして何も見えない宮原の左側で、金属がガチャンと音を立て。

激しい爆発音と何かがはじけ飛んだバシャという水音が、聞こえた。


続けて二回。爆発音がして、水音は四つほど聞こえた。

宮原の身体を抱えたまま、カーキ色のコートを着た人物は屋根へ飛んだ。壊れた屋根の上を器用に走っていく。抱えられただけでは落ちると思った宮原は首の後ろに手を回そうと、胸から顔を上げて自分を抱えている人物を見上げる。

筋肉質な喉と短く切られた灰色の髪。見える耳には銀色のカフがはまっていた。


何かを言おうと息を吸った宮原を、抱えている人物がチラッと見る。その眼は色々な青が混じった色で、驚いた宮原は口をぎゅっと閉じた。

「もう少しだから、黙っていろ」

すぐ傍で聞こえる低い声が、宮原の耳朶を震わす。

自分の移動する速度よりもはるかに早く、屋根を飛びながら走っている人物に、宮原は黙って抱えられている。


友好的かどうかは分からないが、やっと見つけた生きた人間に、宮原はギュッとしがみ付いた。

ずっと探していた。

ここに来てからずっと、歩いて探していた。

宮原が何処を探してみても崩れた人型しかいなかった。或は大地に落ちている数多の遺骸しかいなかった。草木は生えて犬猫鳥や虫も生きているのを見かけるのに、生きた人間だけがいなかった。少なくとも宮原が探した範囲にはいなかった。


身体が弾むように動いて、宮原は抱えられたまま高い塔に降り立った。大きな息を吐いて宮原を抱えていた人物は、彼女を床に下ろした。

降りてから眺めると、どうやらその塔は宮原がいた街から少し離れた場所に立っているらしく、崩れた人型も周りにいなかった。


町を眺めていた宮原が視線を感じて振り向くと、灰色の髪の人物が腕を組んで宮原を眺めていた。その視線はあまり感情がなく、宮原は少し怯む。

「あの、助けてくれてありがとう」

思い切ってお礼を言うと、灰色の髪の人物は軽く肯いてから宮原を手招きする。

「風呂に入ったり服を洗ったりすればいい。あと食事もあるから」

その言葉は願ったりなのだが、宮原は少し怯えながら問いかける。

「ええと、嬉しいけど、どうして」

それを聞いて、相手は首を傾げた。


「生きている人間を助けない選択肢はないが」

その言葉は宮原の身体を駆け巡り体温を上昇させ、真っ赤な顔になった宮原はボロリと涙を流した。灰色の髪の人物は宮原の涙に気付き、少し眉を下げる。

「…とにかく屋根のあるこっちに入れ。あまり外に居るものじゃない」

「え?」

「あいつらは臭いでも追いかけてくる。建築物の中にいれば危険性が下がる。そういうことだ」

「あ、うん」

少し駆け寄るように灰色の髪の人物に宮原が近づくと、建物のドアを開けて宮原を先に中にいれてから、灰色の髪の人物はドアに鍵を掛けた。


中に入ると小さな古いテーブルセットに腰掛けるように促された宮原は、頷いて座ると、ふと気づいて灰色の髪の人物に声を掛ける。

「あの」

声を掛けられた灰色の髪の人物は、少し首を傾げる。そのまま相手が口を開かないので、もう一度宮原が口を開いた。


「私は宮原七海と言う名前なの。あなたの名前を教えてくれる?」

問いかけられた相手は、少し目を見開いたが、小さく息を吐いた後に口を開いた。

「僕の名前は藤原辰。シンと呼んでくれればいい」

「あ、じゃあ、私はナナミで」

「わかった」

そう言ってからシンは少し頭をかいた。


ナナミが眺めると古い建物にはシンが生活している気配があり、なによりも灯りが確保されていて、安全な気配がする。

シンがカップに暖かい紅茶を出したので、頭を少し下げてから七海は何時ぶりかのお茶を口に含む。


以前はあまり気にせずに飲んでいた物が、今では貴重な飲み物になっていて、ナナミの気持ちは少し古い思い出に浸っていた。


シンに進められて風呂に行くと、小さな湯船が湯気を立ててナナミを待っていた。有りがたく思いながら湯船に身体を沈めて、ナナミは今日という日に至るまでの日々を思い返していた。


宮原七海は平成日本の中学生だった。

親しい友人はいないが、話をする同級生はいたし、漫画も小説も好きだが、恋愛にも少し興味があるような、オタクっぽいだけの、無害な人間だった。

学校帰りの薄暗い道で、知らない男に包丁を振りかぶられて刺されるまでは、平凡な人生を送っていたのだ。

恐怖を伴った驚きと、声も出せない痛みの連続で。


バシャン。

思い返した七海は、風呂のお湯を思わずかき上げてしまい、その大きな水音で身体を湯船から半身出してしまった。


目の前の風景は、小さな風呂場で、自分の思い出していた風景とは違っていて。二、三度ほど見回してからゆっくりと湯船に座りなおすと、外の脱衣所から声がかかった。


「大丈夫か?何かあったか?」

シンが物音に気付いて声を掛けると、湯船の中で七海は苦笑した。

「ううん、だいじょうぶ」

「…そうか。ぬるくなったら言ってくれ。追い炊きするから」

「あ、うん。ありがとう」

シンがいなくなってから、七海は湯船を出る。タオルに石鹸を擦って泡立てて、身体を洗いながら、追い炊き一つにしても、自動ではないと気付く。


何もかもが昔とは違う世界で、昔と同じような泡立つ石鹸で身体を洗っているのが少しおかしくなった。小さな瓶に入っている液体の匂いを嗅いで、シャンプーだと気付いて頭も洗う七海は、落ち着いていられる時間をくれたシンに感謝する。

ここに来てからはずっと走って隠れて逃げ続けていたから。


世界が変わったと目覚めてから気付くまでに数分は掛かったと思う。七海は思い返しながら髪の毛をゆすぐ。暫く洗っていなかった頭髪は数回してからやっと泡立って、嫌な臭いもなくなった。

恐ろしい世界では、水浴びすら出来ずに生き延びる事だけを考えていた。


浴室から出た七海はシンが置いていてくれたタオルを手に取り、置かれていた服にそでを通す。知らない服だが、シンが用意してくれたのだろう。

薄い水色の下着に厚い布地のシャツ、濃い緑色のワークパンツ。靴下も靴底が厚い軍靴も綺麗な物だった。ただし新品かと言われると違う気がしたが。


着替え終わった七海がリビングに行くと、シンは立ったままガラスの向こうの外を眺めていた。シンが何を見ているのかは七海には分からない。ただ見えている空は綺麗だと思った。ガラスに映ったナナミを見てからシンが振り返る。


「寒くないか?」

聞かれて七海は肯く。

「大丈夫。ありがとう、この服」

シンが肯く。

「ナナミが来ていた服は、行動するのには布地が少なすぎるから。それを着ればいい。あの服は記念に取っておけばいいと思う」

「うん、ありがとう」

そこまで言って、七海は口を閉じた。シンは七海の顔を見てから僅かに首を傾げる。七海の眼は少し焦点が合わずに、建物の中を彷徨っていた。シンは七海が口を開くまで待つつもりなのか、立ったまま動かない。


七海は自分を見ているシンに視線を定めると、今まで誰にも聞けなかった事をシンに聞く。

「此処は何処なの?いったい今は何時なの?どうして人間がいないの?」

シンが僅かに息を飲んだ。

「此処は日本なの?どうして建物が全部壊れているの?どうして」

そこまで言ってから七海はシンが黙って自分を見ている事に気付き、震える口を閉じた。


シンは片手で頭をかきながら、古びたソファへと七海を手招いた。

「僕が知っている事ならば話そう。ただ、長い話になるから七海も座って体を休めながら聞いてくれ」

二回小さく肯いてから、七海はシンの横に座った。七海が座ったのを見てから、シンは台所からトレイに乗った食器を持って来る。二人分のマグカップと大きな皿にはパンに何かが挟んである物が乗っている。

パチパチと瞬きをした七海を見て、シンが小さく笑った。

「食べながら話そう。僕もお腹が空いているんだ」

マグカップにはなみなみとミルクティーが入っていて、七海の知っているホットドックに似たパンは、大皿の上にピラミッドのように積んである。


シンはパンを七海に手渡してから、自分もそれを口に入れる。

ポカンと眺めていた七海は、思い切ってパンを口に入れた。

「おいひい」

鼻声で七海が言うと、シンはまた少し笑ってから、大皿を指さす。

「あるだけ食べていいから、ゆっくり食べな」

「うん」


隣に座った七海を見ながら、シンも二つ目のパンを手に取った。




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