第28話

陽の光が真上から差し込む頃、

林の中に立ち込めていた朝の涼気はとうに消えていた。


額を流れる汗は止まることなく、

切り倒された木々の香りが、空気の中に湿った熱と混じり合っていた。


拓海は斧を肩に乗せ、深く一息ついた。


「……よし、これで十分だな」

 

目の前には、切り揃えられた丸太の山。

一本一本は太く、しっかりと乾いており、

拠点の支柱や簡易の壁材としては申し分ない。


すでにシャ=ルマッカがほとんどの丸太を運んでくれており、

残る数本も、あと少しで運びきれそうだった。


「……まさかこんなに進むとはね」


陽気な団員が苦笑しながら汗をぬぐう。


「全部二往復ぐらいで運べるって、地味にすごいよ」


もう一人の団員も、手製の縄を木に結びながら小さく笑った。


「昼には帰れるなんて、思ってなかった」


「おかげで午後は拠点設営に集中できそうだな」


拓海はそう言いながら、腰の水筒を開ける。


ぬるくなった水でも、喉を通るたびに生き返るようだった。


ふと視線を向けると、

林の外れ──木陰のひとつに、シャの仮面がこちらを見ていた。


やはり何も言わず、

しかしすでに次の往復の準備を終えている。


「……お疲れ、シャ」


拓海が静かに声をかけると、

彼女は小さくうなずき、無言のまま最後の丸太を肩に乗せて歩き出した。


汗に濡れた服を風が撫でる。


午後に差し掛かる陽光の中、

拓海たちは切り出した木材を最後のひと束として拠点へと戻った。


「はぁ……やっと一息だな」


仮設拠点の入口では、

ハーミラが設営図を抱えて右往左往していたが、

それ以上に視線を引いたのは、広場の片隅で立ち上る湯気だった。


「……あれ、飯の匂い?」 


粘土を固めた鍋が石で囲まれた炉の上にかけられ、

その中でとろりと白く煮立っていたのは──粥。


炊き立ての穀物に、塩と乾燥野菜を加えただけの素朴な一椀。


だが、戦いと肉体労働のあとの身体には、

この上なくありがたい一品だった。


「お、帰ったかー。粥しかないけど、温まるぞ」


鍋を見ていた団員が手ぬぐい片手に笑いながら声をかける。


背は低めで髪は後ろで結び、口調はざっくばらんだ。


団の糧食係の一人だ。


「豪華だよ、これだけでも。

 昼に温かいもんが出てくるだけで、生きてる感じがする」


拓海は笑いながらそう返し、

さっそく列に加わった。


後ろでは、シャが静かに丸太を置き、

そのまま列に加わらずに座って待っていた。


何も言わず、

だがどこか、満足げな気配を漂わせながら。

木々の間を風が通り抜ける。

仮拠点には湯気と、落ち着いた午後の空気が広がっていた。


「──ん、これ……思ったより、うまいな」


拓海は、木椀の中で湯気を立てる粥を一匙すくい、口に運ぶ。


素朴な塩味と、わずかに香る干し茸の風味。

舌の上にふわりと広がって、喉を通った瞬間、

胃の奥から安堵が広がるのを感じた。


「体があったまるのって、こういうのだよねぇ……」

と、陽気な団員がすする音を立てながら呟いた。


もう一人の無名の団員は無言で食べていたが、

その横顔は少しだけ緩んでいた。


「昨日の夜とか、さすがに死ぬかと思ったわ。

 ね、アンタはさ、あの時──」


「私は……狙撃してた」


ぽつりと挟んだのは、ネリアだった。


椀を持ったまま視線は遠く、だが声は静かでよく通った。


「最初に飛び出した男の額を抜いたのも、あたしだと思う

 ……」


「へえ、あれ見えてたんだ……すげえな」


拓海が素直に言うと、ネリアは小さく肩をすくめた。


「見えるものを、撃っただけ」


「でもあんたらもやるじゃん。斧担いで突っ込んでったとき、敵けっこうビビってたし」


と、陽気な団員が言いながらにやりと笑う。


「でも怖かったでしょ?」


「……まあ、あんな真っ正面からの殺し合いは」


拓海は苦笑しながら椀の底を軽く叩いた。


思い返すと、血の匂いも、斬った手応えも鮮明に蘇る。

だが、今はそれを語るべきじゃない気がして──

かわりに、ふと目線を向ける。


仮面をつけたまま、静かに食事を終えようとしているシャ=ルマッカ。


「なあ……シャは、戦慣れしてるよな?」


尋ねると、シャは手を止め、わずかに顔を向けた。

その仕草に答えのすべてが含まれているような気がした。


「……だよな。そりゃ、あの立ち回り見たら分かる」


拓海は、静かにそう言ってまた椀に向き直る。


粥の温もりが、戦の記憶をじんわりと遠ざけていく。


誰もが口数は多くなかったが、

そこにあったのは、確かに“団”としての一体感だった。



ー ー ー



粥の椀を片づけ、広場の隅で風にあたっていた拓海のもとに、

ひとりの女団員が、ぬっと顔を出した。


口元にはいたずらっぽい笑み。

手には、さっき林で切り落とした太めの枝。


「ねえ、たっくん。ちょっと暇潰ししない?」


「……ん、なんだ?」


「手合わせ。食後の運動がてら、さ。

 ほら、木の枝も拾ってきた。こっちは一応、長物ってことで!」


彼女はにやっと笑って、枝をくるりと回してみせた。


確かに長さと重さは、模擬剣としてはちょうどいい。


「まあ、殺し合いじゃないし。遊び半分ってことで?」


「……遊びで斬られたら笑えねえな」


拓海は苦笑しつつも、地面に落ちていた一本の枝を拾い上げた。

皮をむいて節を確認し、バランスを整える。


「よし。一本勝負だ」


「やる気じゃーん!いいねいいね!」


いつの間にか、他の団員たちもちらほらと見物に集まり始めていた。


「何やってんの?」「模擬戦?」


口々にひやかしながら、広場の一角がちょっとした見世物になっていく。


二人は数歩距離を取り、木剣を構える。


相手の女は右手で剣を構える。

拓海は曲刀の癖を活かしてやや斜めに構えた。


「じゃあ、いくよ──!」


陽気な団員が踏み込み、木剣が風を裂く。

それを、拓海は軽く体をずらしていなした。


陽気な団員は、一歩踏み込んだ位置でぴたりと足を止め、

枝剣を右手でまっすぐ構えた。


左手は腰の後ろ。

背筋を伸ばし、剣先は軽く相手の喉元を狙う高さに。


「へへ、ちょっと“決闘”っぽくしてみた」


その姿はまるで、古の騎士道か、軍人の儀礼戦のようだった。

無駄のない構え、そして──妙に静かで、いやに洗練されている。


「……どこでそんな構え覚えたんだよ」


「昔の相棒に教わったんだ。剣の礼儀とか、ちょっとだけね」


木剣同士がかちんと軽くぶつかる。

互いに様子を見るように剣を振るうが──


すぐに、拓海は気づいた。


この構え、やりづらい。


片手剣の速度。剣先の自由度。

そして左手を背に回すことで、体勢そのものが崩れない。


まるで“剣だけが攻めてくる”ような鋭さ。


「っ……!」


拓海が一歩踏み出して横薙ぎに切り込むが、

相手は最小限の体捌きで避け、剣先をわずかに振るだけで受け流す。


その返しが、鋭く首元へ跳ね返ってきた。


「うぉっ……と!」


慌てて体をのけぞらせる。


風を裂く音が、髪をかすめた。


「悪いねー、片手でやると剣速ちょっとだけ上がるんだわ」


冗談めかして笑いながらも、目は冴えている。


陽気な表情の裏に、戦士としての勘がきっちりと残っていた。


拓海は、汗をひとつぬぐって息を整える。


「……やばいな。見た目よりずっと戦い慣れてる」


周囲の団員たちは軽口を交わしながらも、

その動きに目を見張っていた。


「おー、たっくん押されてるじゃん」「あれでまだ遊びなんだな……」


だが、拓海の目はまだ笑っていた。


「……なら、こっちも本気出してみるか」


拓海が踏み込み、木剣を振り抜く。

斜め上から叩きつける一撃。重さと勢いを乗せた、実戦に近い斬撃。


だが──


「うん、いい振り」


相手はその刃を“受けない”。

横に滑るように体をずらし、最小の動きで剣先を空に泳がせた。


まるで木の葉が風をいなすような──軽やかな回避。


「……っち」


拓海は体勢を崩すことなく、すぐさま次の斬撃を放つ。

右から、左から、そして下段からの返し。


だが、それらすべてを──


彼女は剣を添えるようにして受け流し、

時折、鋭く跳ねるような突きを繰り出してきた。


「ほいっ」

拓海の喉元を掠める突き。


「はいはいっ」

胴を薙ぐような横斬り。


受けたというより、

“間合いを読んで逸らした”と言ったほうが正しい。


この動き──一瞬の油断があれば、実戦なら即死。


(……距離を測られてる。こっちの力任せは通用しないな)


拓海はもう一歩踏み込み、鋭い突きを繰り出す。


だが相手は逆にその剣の“内側”へすっと入ってきた。


「っ──!」


右脇、肋のあたりに、柔らかくも確かな一撃。


打撃の衝撃が腹に響き、拓海の身体が一瞬、のけぞる。


「一本、だね」


彼女は剣をすっと引き、口元に笑みを浮かべたまま構えを解いた。


拓海は、少し息を切らせながら剣を下ろし、

額の汗をぬぐいながら、素直に笑った。


「……強いな。予想以上に」


「へへっ、でも本気でやってくれたのは嬉しかったよ」


周囲の団員たちはどっと沸き、

「今の真剣だったらヤバかったね」「たっくんもよく食いついてた!」と口々に盛り上がる。


木剣を手から離し、地面に突き立てるように置いたあと、

拓海は小さく息をついた。


そのまま、目の前の陽気な団員に向き直る。


「……いや、ほんと強かった。ありがとう」


「うん、こっちこそ。いい汗かいた!」


笑顔で返す彼女の顔を見つめながら、拓海は少し口ごもる。


「……あのさ」


「ん?」


「……名前、忘れたわけじゃなくて……そもそも、ちゃんと聞いてなかったかも。ごめん」


素直なその一言に、彼女は一拍の沈黙のあと──


「ふふっ、忘れたんじゃないんだ?」


「……いや、ちょっとは忘れてるかも」


「ひどっ!」

 

肩をすくめながらも、その声に怒気はなかった。


代わりに彼女は、すっと胸を張ると、

わざとらしいほどに腰に手を当てて言った。


「では改めまして!」


くるりとその場で一回転して、ポーズをとる。


周囲からもクスクスと笑いが漏れ始める。


「ウィンストン盗賊団、野外作業班兼・戦闘斥候!

 得意武器はサーベルと短斧、趣味は日光浴と骨拾い!

 名前は──ナジカ! よろしく、たっくん!」


最後は人差し指をぴしっと拓海に向け、

どや顔を決める。


「……名前の割に、情報多くないか?」


「名乗る時は派手にって教わったの!」


拓海は思わず吹き出し、頭をかいて苦笑した。


「ナジカ、ね。覚えとくよ」


ナジカは満足そうに頷くと、

「じゃ、午後もお互いがんばろーね!」と軽やかに手を振って去っていった。


「ふぅ……」


拓海はひとつ、深く息を吐いた。

木剣を傍らに置き、肩の力を抜く。


ナジカとの手合わせは、確かに疲れた。

だが、それ以上に心地良い刺激だった。


その場の空気も、どこか温まっていた。


……が。


「なぁんだ、楽しそうじゃん」


「見てたらうずうずしてきたわ」


「筋肉ほぐすにはちょうどいいしねぇ?」


立て続けに声が飛んだ。


広場の周囲にいた他の女団員たちが、

次々と前に出てくる。


誰かが枝を拾い上げ、誰かが笑いながら構えをとる。


「たっくーん、次、あたしねー?」


「その次、私! 順番守ってよ?」


「たまには後輩に腕を見せなきゃね!」


口々に言いながら、

まるで祭りの順番待ちのような賑やかさで集まり始める。


「……ちょ、ちょっと待て待て。なんでこうなる!?」


拓海が両手を上げて困惑すると、

ナジカがにやにやと肩をすくめて言った。


「たっくん、なんだかんだで“ちょうどいい相手”なんだよ」


「それ褒めてんのか……?」


「もちろん! でも、断るのは許されないよ?」


そう言って彼女らは次々と枝を拾って仮の木剣を作っていく。


拓海と──

腕まくりを始めた女たちの群れ。


「……昼休みって、もっと静かなもんじゃなかったっけ……?」


困惑と汗を抱えたまま、

拓海の午後が、思いもよらぬ“模擬戦地獄”へと突入していく。


「いーい? 次は私だからね!」

「ちょっと待って、その枝貸して!」


女たちの熱気が渦巻き、

木剣らしき枝が手渡され、地面を踏む足音が増えていく。


その中心に立つ拓海は、額に手を当ててぼやいた。


「……なんでこんな展開に……」


そのときだった。


「だ、だだ、だめですッ!!」

「模擬戦やってる場合じゃありませんからねっ!!」


ばばーんっ! と仰々しい勢いで割って入ってきたのは、

ハーミラだった。


ターバンはいつの間にか曲がり、

肩にかけた設計図は風に煽られてバサバサと揺れている。


「えっ、ハーミラ?」「なに?なにかあった?」


「ありますっ!ありますよ!!午後の設営作業!!

 まだ半分も終わってないんですからね!?

 柱の仮固定もまだ、土台の組み上げもこれからで──」


彼女は早口でまくし立てながら、図面をばっ!と開いてみせた。


「ほら!見てくださいこれ!!こことここ、まだ未設置!!あとこれも!!」


団員たちの勢いもさすがに押され、

少しずつ剣(枝)を手から離し始める。


「そ、そんな……ちょっとだけでも……」


「だ、だめです!ちょっとが延びて、次に次にって……

 そうやって夕方になっても進まないんですから!!」


涙目寸前のハーミラに、団員たちは顔を見合わせ、

「まぁ、しょうがないかー」「午後サボると怒られるしなー」と

一人、また一人と解散していった。


拓海は、木剣を地面に戻しながらそっとつぶやく。


「……命拾いしたわ、マジで……」


すると、ハーミラは彼に向き直ってぴしっと指を突き出す。


「拓海くんもっ! 午後は物資区画の組立班!配置、移動、補強!よろしくね!!」


「は、はいっ」


指示が出ると同時に、また資料に埋もれて走り去っていくハーミラの背中を、

拓海はどこか神々しいものを見るような目で見送った。



ー ー ー



空はすっかり真昼の白さを帯び、

陽の光は強く、じりじりと肌を焦がしていた。


拓海は、ロープで括った木材の束を一人で引きずり、

拠点の南端にある物資区画予定地へと運び込んでいた。


斥候の一部が見張りに回る中、

広場では数人の団員たちが動き回り、

それぞれが支柱の建て込み、遮蔽布の設置、物資台の固定などに当たっている。


「拓海くんっ、そっちは第二集積の方に回して!

 向かって右、長物は日除けの下!」


ハーミラの声が、かすれ気味に飛ぶ。


彼女は汗だくで眼鏡を何度も押し上げながら、

設営図を片手に、あちこちで叫び続けていた。


「了解、っと……よし、これで三束目」


拓海は肩で息をしながら、

ロープを地面に投げ出す。


周囲では、他の女団員たちも肩を回しながら木枠を組み上げていた。


「あたしらに比べて、たっくん細いのにようやるよね」

と、誰かが冗談めかして言う。


「いや、俺が細いんじゃなくて、みんながムキムキすぎなんだよ……」


拓海がそう返すと、数人が吹き出し、場にささやかな笑いが広がった。


その脇でネリアが無言で柱を持ち上げ、

シャ=ルマッカは巨大な板材を肩に担いで淡々と歩いていく。


誰もが、黙々と役割を果たしていた。


“団としての動き”


それが、ゆっくりと形になり始めているのが分かった。


仮設とはいえ、今日の設営が終われば──

ここはザラリスの最初の拠点となる。


それは、拓海たちがこの世界で“奪い取った場所”であり、

“これから守っていく場所”でもあった。


「……もう少しだな」


拓海は、汗で濡れたシャツの裾を絞りながら、

広がる木材と布と、人々の動きを、目を細めて見つめていた。



ー ー ー



日が落ちきり、焚き火の炎が各所で燃えはじめた頃。

当番表を手にしたハーミラが、やや上ずった声で見張りの組を読み上げていた。


「第一陣──北東警戒線。拓海くん、ナジカさん、それとシャ=ルマッカさん!」


「……お、また一緒だね」


ナジカが肩を軽く叩きながら笑い、

拓海は軽く頷いて持ってきてもらっていたライフルを背負い直した。


シャは無言でその場から立ち上がり、すでにグレイヴを担いでいる。


三人は拠点を外れ、北東の柵跡まで歩いた。

あの戦いの名残がまだ残る、廃墟の縁だ。


風が冷たくなってきており、

昼間の熱気が嘘のように引いていた。


拓海が見張り台の礎石に腰かけようとしたそのとき、

シャが静かに、その肩を押しとどめた。


「……座るな。おまえ、今日は動きすぎだ」


「いや、でも当番だし……」


「私が見る。おまえは、しばらく目を閉じていろ。

 ……倒れたら、厄介だ」


短く、乾いた声だったが、

その言葉には明らかに気遣いの熱があった。


だが──


「いやいやいや!? ダメでしょそれは!」


ナジカが両手を広げて叫んだ。


「なんでたっくんだけ“寝てていい”みたいになってんの!?

 これ“見張り”ね!?“見守り”じゃないからね!?!?」


「……疲れてる顔をしてた。だから言っただけ」


「気持ちはわかるけどさぁ!だったら私だって疲れてるし!

 ていうか、たっくん甘やかされすぎじゃない!?」


「俺もそう思ってるから……休まないってば。ちゃんと見張る」


拓海は苦笑しつつ、肩にかかっていたライフルを持ち直した。


シャは小さく鼻を鳴らしてから、何も言わずに警戒位置へと歩いていった。


「ったくもう……ほんと、モテるのも大変だよねぇ~」

ナジカがぼやきながらも、口元に笑みを浮かべる。


そうして三人は、それぞれの持ち場についた。


視界の端には遺構の影。

遠くの地平では、星が一つ、瞬いていた。


焚き火の明かりはここまで届かず、

草と石が混じる地面には、仄かな月明かりだけが落ちていた。


三人はそれぞれの持ち場で、静かに目を凝らしていた。


──カサッ。


その音は、風が抜ける音に紛れるようにして聞こえた。


わずかな足音。

草を踏みしめる、乾いた気配。


シャの仮面が、わずかに動いた。


「……聞こえた」


その一言と同時に、彼女は音の方角に身体を向けていた。


無駄のない所作でグレイヴの柄を軽く握り、

地に伏せるようにして姿勢を低くする。


「っ……まじ?」


ナジカがサーベルを抜いて拓海もすぐにしゃがみ込む。


耳を澄ませても──それ以上の気配は、ない。


シャがさらに一歩、茂みの方へ近づいていった。


風が止む。

草の揺れる音すら消える。

世界が、彼女の聴覚に集中する。


──カサ……コソ。


シャは素早く草むらに踏み込むと、

ひょい、と何かをすくい上げた。


その手には、小さな生き物──

耳の大きな茶色いネズミのような獣が、ぷらんとぶら下がっていた。


「……ただの小動物」


シャはグレイヴを戻しながら、仮面越しに息を吐いた。


「おいおい、脅かすなよ~……」

ナジカが肩をすくめて笑う。


「緊張感は大事だけどさ。

 ネズミ一匹に仮面戦士フル稼働は、ちょっと反則じゃない?」


「音が違った。草じゃない……獣の音だった」


「うん、わかってるよ。真面目にやってくれてるのは感謝してるってば」


シャは特に返さず、そのままネズミを草むらに戻すと、

再び静かに持ち場へ戻っていった。


拓海はふと、ほっとしたように息を吐いた。


一瞬の緊張のあとに戻る、静寂。


だがそれも、見張りという任務の一部なのだと、あらためて思った。


静寂が戻った広がる暗がり。

草のざわめきも、どこか柔らかくなっていた。


三人は見張りを続けながら、

時折視線を交わす程度に口を開く。


拓海はふと、ナジカの腰に視線を向けた。


いつも通りの軽装に、目立ちすぎない革の鞘。

そこに差されたサーベルが、月光にほのかに鈍く光っていた。


「なあ、ナジカ」


「ん? なに?」


「そのサーベル──最初から使ってたのか?」


彼女は一瞬きょとんとした顔をしてから、

「ああ、これ?」と腰に手を添えた。


「うん。そうだよ。

 あたしが初めて“ちゃんと持った”武器が、これだった」


「理由とかあるのか? 曲刀の方がこっちじゃ主流っぽいけど」


「うーん、理由ってほどのことでもないけどさ……」


ナジカは少し口元を緩め、

それから夜空をちらと仰いだ。


「昔、一緒に旅してた人がいてね。

 あたしが剣も握れないくらい弱かったころ──

 その人が、戦い方とか色々教えてくれたの」


「へえ……」


「で、その人が使ってたのがサーベルだったんだ。

 『これは、敵を寄せ付けないための第二の手』って言ってたなぁ」


言いながら、軽く柄に手を添え、

膝を曲げて重心を落とすような姿勢をとってみせた。


確かにその構えは、俊敏な足さばきと両立するように見えた。


「見よう見まねだったけど──

 これ、振ってるとさ、なんか“守られてる”気がするんだよね。

 自分が弱かった頃から、ずっと一緒だからかな」


照れ隠しのように肩をすくめると、

ナジカはすぐに笑って拓海を小突いた。


「ま、似合ってるって思ってくれたんなら、それでいいけどね?」


拓海は軽く笑ってうなずいた。


「うん。見事なもんだったよ、さっきの模擬戦」


「……あー、それはちょっと恥ずかしいな……」


そんなやり取りを、少し離れた位置でシャがじっと聞いていた。


何も言わなかったが、

彼女の仮面は月を背に、わずかにこちらを向いていた。


ナジカのサーベルにまつわる話が一区切りついたそのとき。

静かだったもう一人の見張りが、ふいに口を開いた。


「……だが、それは無駄が多い」


シャ=ルマッカの声だった。


仮面越しに二人を見やり、

背負っていたグレイヴの柄を手で軽く叩く。


「曲線が多すぎる。反応が一手遅れる」


拓海とナジカがそろって顔を向けると、

彼女はさらりと続けた。


「私の武器の方が、洗練されている。

 柄はロ=ゴンナの木の根。軽く、しなる。

 穂先はラビーノの貝殻。斬り、裂き、突き通す。風に抗わぬ形だ」


それはまるで、自然と共に鍛えられた戦士の信条だった。

無駄を削ぎ落とした動き、無理のない構造、そして――絶対の自負。


……が。


ナジカは一瞬ぽかんとした顔をしたあと、

にやりと笑って言い返した。


「いやいや、ちょっと待って?

 “洗練された”って、素材が“木の根”と“貝”って、マジで?」


「……事実だ」


「いや、そこにドヤ顔されても!

 だってそれ、森で拾えるやつじゃん!? その辺の!」


「拾うのではない。育てる。選ぶ。

 根は力に沿うよう削り、貝は月光で研ぐ」


「月光って……なんかロマンチックに言ってるけど!!」


拓海はそのやり取りを聞きながら、ふっと笑った。


一見正反対の二人だが、

どちらも自分の武器に誇りを持っていることは、よく伝わってきた。


「……ま、二人とも似たようなもんだろ」


「えっ、そこはちゃんと差を出してよ!? 私のが都会派ってことで!」


「私は“森派”でいい」


「開き直ったーー!!」


シャの仮面越しの顔は読めないが、

その声色はほんの少しだけ楽しげだった。


「いやー、でもほんとシャって、根から貝まで全部“地産地消”だよねぇ……」


ナジカの冗談に、シャはすっと背筋を伸ばして言い返す。


「力は、土から生まれる。道具も同じ。……それが自然だ」


「……って言ってるわりに、月光で研ぐのは自然ってより儀式じゃない? もうちょっと現代味出してこ?」


「……月も自然だ」


「それもそっか!」


そんな調子でぽつぽつと続いていたやり取りに、

ひとつの足音が混じった。


草を踏む軽い音。

背後からの、訓練された歩み。


「──交代だ」


その一言と共に現れたのは、ネリアだった。

その後ろにはもう二人の団員、弓と槍を持った女たちが続いている。


「……思ったより賑やか」


ネリアが仄かに眉を上げる。


「たっくんがモテてるだけだよ」

ナジカがサラッと投げる。


「違うからな!?」


拓海が慌てて否定すると、

シャは肩をすくめて小さく言った。


「否定しなくていい。事実だ」


「シャまで!?」


笑いと共に、交代の時間が巡ってきた。


ナジカはサーベルの鞘を軽く叩き、

「よーし、帰ったら寝よ寝よ!」と伸びをする。


シャも静かにグレイヴを肩に戻し、

仮面を直すように手を添えながら立ち上がった。


「じゃ、後は任せたよ。

 変な音したら、起こしてねー?」


ナジカが軽く手を振ると、ネリアは頷いて答えた。


「異常があれば、報告する。安心して寝ていい」


夜はまだ長い。

だが、交代で巡るその静寂もまた、確かな安心の一端だった。

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