第16話
朝靄が森を覆い、
微かな湿気と青みがかった光の中で、
拓海たちは再び荷を背にした。
仮面の村は、夜とさほど変わらない静けさを保っていた。
だが──
広場の入口には、
沼の民たちが整然と並んでいた。
誰も言葉は発さなかった。
それでも、それが“見送り”であることは明白だった。
子供たちは手作りの小さな仮面を手にし、
女たちは目元を覆い、
男たちは腕を組み、ひとりの女性が前へ出た。
──ガイドの女だった。
彼女は再び仮面をつけていたが、
仮面越しの目は、しっかりと拓海たちを捉えていた。
「……この道を、まっすぐ南へ。
泥に沈んだ木の橋がある。そこを越えれば、外へ出る」
手にした棒で足元の地面に、
簡易な地図のようなものを描いてみせた。
「追われたときの道でもある。
……静かに行けば、誰にも気づかれない」
言葉はそれだけだった。
ザラは軽く顎を引き、
セファは黙ってうなずき、
アミラは視線だけで礼を返した。
拓海は一歩、前に出て言った。
「……ありがとう。
助けられた。……忘れないよ」
ガイドの女は何も返さず、
ただ右手を胸に当てる。
それはこの民族における──
“別れの印”だった。
風が、白い霧を運んでくる。
静かに、村の姿がその中に滲んでいく。
振り返ると、
彼らの姿はもう見えなかった。
前を向く。
そして、拓海たちは──
“沼の民にしか知られぬ抜け道”へと、足を踏み出した。
足元のぬかるみは次第に乾き、
蔦に覆われた茂みを抜けると、
道はひらけ、驚くほど歩きやすくなっていた。
枯れ枝ひとつ落ちていない。
土は固くも柔らかく、靴の裏に心地よい弾力を伝える。
「……これ、本当に沼地の中かよ」
ザラが目を細めて言った。
空はやや曇りがち。
だが、上から差し込む光は柔らかく、
霧もすっかり晴れていた。
木々は異様なほど整っていた。
自然に生えているはずなのに、
まるで“誰かが並べた”かのように曲がりもせず、真っ直ぐ天へと伸びていた。
その間を抜ける道は、
広すぎず、狭すぎず、
拓海たち四人がぴったりと並んで歩けるほど。
「……不思議だな」
拓海がつぶやく。
「まるで……この道だけ、
この世界じゃないみたいだ」
セファがうなずく。
「“外”と切り離された感じ、するね。
霊の声も……すごく穏やか。
まるで、みんな“眠ってる”みたいな感触」
アミラは無言のまま先頭を進む。
短剣に手はかけていたが、
その歩みは今までにないほど落ち着いていた。
風は静かだった。
鳥も鳴かない。
虫も飛ばない。
ただ、遠くの葉が風に擦れる音だけが、
どこまでも優しく続いていた。
道の脇には、
沼の民の作ったと思われる小さな印しるしが時折現れる。
それらはすべて“通ってよい者へ向けた印”のようで、
アミラは一度、それを見てわずかに歩幅を速めた。
「……これはいい。
……こういう旅が、ずっと続けばいいのにね」
セファがぽつりと言うと、
ザラは鼻を鳴らす。
「舐めてると痛い目見るぞ。
こういう平穏は、大体“前振り”だ」
「そう言うと思った」
「言わせんな」
ふっと、笑いが漏れた。
それでも確かに今だけは──
この道は、誰にも邪魔されない。
異常なほど、順調で、静かな抜け道だった。
拓海は思った。
(……もし“拠点”を建てるなら、
こういう道の延長線上にあったらいいな)
木々はここにきて急激に疎らになっていた。
幹が割れ、葉は茶色く変色し、
地面の苔もどこか黄ばんでいる。
風が変わる。
湿った泥の匂いに混じって──
鼻の奥を刺すような、酸性の刺激臭。
「……匂い、変わったね」
セファが顔をしかめる。
「霊たちも、静かになった……というより、
“立ち入らないように”って言ってるみたい」
その言葉に、拓海も息を止めるように歩みを緩めた。
アミラが一歩前に出る。
マントを翻し、鋭い目つきで周囲を確認した。
そして──
その先に、光が見えた。
「──見えたな。森の終わりだ」
ザラの言葉と共に、
彼らは一歩、最後の茂みを抜ける。
──途端に、世界が変わった。
開けた盆地。
だがその光景は、荒涼としていた。
土は黒ずみ、
地面の至るところに腐りかけた木の残骸が散らばっている。
かつては森だったのだろう。
だが今は──
根から崩れ、幹から裂け、葉は全て灰色に染まっている。
木の皮には無数の膿んだ胞子。
岩肌には紫色の苔が繁殖し、
小さな沼地には赤茶けた泡が絶えず浮かんでは消えていた。
「うわ……こりゃ、ひでぇな……」
ザラが顔をしかめる。
「生き物の気配がねぇ。
いや……たぶんいるけど、見せたくないやつらだ」
風が吹くたび、
地面のあちこちからかすかな“咳のような音”が聞こえた。
──ピチュ……ピチュ……
それは小さな粘液の跳ねる音。
姿はまだ見えない。
だが、
この盆地は、確かに“死にかけて”いた。
もしくは、
“何かによって殺されたまま、腐り続けている”。
拓海は言葉を失い、
無意識にポーチの中のペンダントに触れた。
だが、その内側からは、
何の反応も返ってこなかった。
まるでこの場所では──
“虚空ですら口を閉ざしている”かのように。
「はい、全員──顔出せ」
ザラが腰の袋を乱暴に開いた。
中から取り出したのは、
黒ずんだ布に包まれた小さな包みだった。
ひとつひとつ手作業で縫い合わされており、
中央には薄く開いた通気口のような部分がある。
彼女はそれを拓海の顔に押し当て、
皮紐を後頭部で締めていった。
「毒の中和作用のある香草と、火打石で燻した炭粉を詰めてある。効くはずだよ」
最後に拓海の顔に布をかける。
ふわりと漂う、苦味のある刺激臭。
鼻の奥を突く匂いだが、不快ではなかった。
「……これがあるだけで、“死”が“重傷”に変わる程度にはマシになる。
外すなよ。特にお前は、まだ毒に慣れてねぇからな」
「了解」
拓海はマスク越しに応じた。
声が少しこもる。
アミラは無言で受け取り、即座に装着した。
セファは少し顔をしかめながらも、鼻のあたりを押さえてフィット感を調整する。
「……これ、霊たちの声も遠ざかる感じする。
まあ、そもそもこの辺りじゃ何も聞こえないけど」
「ま、霊もこんな場所好き好んでいられないよな」
ザラがため息混じりに言いながら、
マスクを自身にも装着する。
彼女の声も低くくぐもって聞こえた。
「よし。行くぞ。
一気に抜ける。寄り道はナシ。
次の安全圏まで突き抜ける」
四人が無言でうなずく。
目の前には、
死と腐敗に満ちた毒の盆地。
だがその入り口に立った彼らの顔には──
冷静と、わずかな覚悟があった。
拓海はマスクの中で息を整え、
ペンダントの感触を指先で確認した。
(……やれる。今は──俺も、皆と一緒にいる)
そうして、
彼らは毒の霧に包まれた盆地の中へ──
第一歩を、踏み込んだ。
ぬかるむ地面が、
靴底の奥までじゅるりと粘りを這わせてくる。
腐った木の根が無数に転がる中、
奇妙な音が、耳に届いた。
──ズチュ……ズチュル……カリッ……グチュ……
それは何かを引き裂き、
すり潰すような咀嚼音。
「……止まれ」
ザラがささやくように言い、手を上げた。
前方、割れた倒木の陰。
そこに群れていたのは──
“節を幾重にも重ねた巨大な虫”だった。
全体の長さは一メートルほど。
中型犬ほどのサイズ感。
ミルワームを思わせる軟体の節がびっしりと連なり、
白く濁った皮膚が、ところどころ剥げ、膿のような液体が滲んでいる。
顔と呼べるものは曖昧だったが、
その先端には明確な“毒牙”が二本──鋭く突き出していた。
「……やつらか……」
セファが小声で呟く。
彼らは何かの死体──
いや、もはや原型すらわからない、人型だったものの残骸に群がっていた。
牙を突き立て、
肉を吸い上げ、
時折同族同士が牙をぶつけ合いながらも、
腐肉を貪る動きに夢中になっていた。
「……今が通り抜けるチャンスだ。こっち見てねぇ」
ザラが手を下げ、身を屈めて移動を促す。
拓海たちは膝を落とし、
ぬかるみを静かに静かに進んだ。
踏み出すたび、泥がじゅるりと鳴る。
マスク越しに、獣臭と薬草の混じった呼気が肺に届く。
(頼む……気づくな……)
数メートル。
距離を詰め、影の中を抜け──
──その時、
一匹の虫がぴたりと動きを止めた。
……カサッ。
その頭部が、拓海たちの方向に“わずかに”傾いた。
だが、
すぐに別の虫に押し退けられ、
また腐肉に牙を突き立てる。
(…………っ)
拓海は背中に冷たい汗を感じながらも、
視線を逸らさず、ゆっくりとその場を通り過ぎた。
数秒後──
ようやく彼らはその場を離れ、
ひとまずの安全圏まで距離を取ることができた。
「……やば……。あれに噛まれたら確実に死ぬ……」
「間違いなく、この土地の“掃除屋”だね。
死体も、生者も、関係なく喰う。」
セファの声に、ザラが小さくうなずいた。
「……今度は、こっちが餌にならねぇようにしないとな」
ぬかるむ大地の上を、急ぎ足で進む。
空気は徐々に濃く、重たく──
それはまるで肺の中に水を流し込まれるような感覚だった。
呼吸が深くなるたびに、
香草入りのマスク越しでも腐肉の匂いと酸性の湿気が感じられる。
「……っ、あれ……」
先頭を行くアミラが、手を止めた。
その視線の先──
ひとつの岩陰に、倒れた獣の死体があった。
中型の四足獣。
狼に似た体躯、鋭い爪と牙。
だがその体は既に干からび、
背骨のあたりから、何本もの“太いキノコ”が生えていた。
色は鈍く濁った赤褐色。
傘の先からは胞子が細かく舞い上がっている。
「……冬虫夏草の類……?」
拓海が思わず呟いた。
セファがすぐに反応する。
「……違う。これ、
宿主の脳に達してる。完全に操られてたやつだよ。
この狼──たぶん、自分の意思でここに来たんじゃない。
呼ばれたんだ、“菌”に」
「……ゾッとするな……」
ザラが忌々しげに目を細める。
「こんな連中がうようよしてる場所で、悠長に景色なんか見てられねぇ」
キノコの根元からは、
まだ微かにぬるついた体液が流れ出ていた。
腐っているのに、死に切っていない。
死体であり、同時に“培養器”でもあるような、そんな異様な存在。
「……進もう。
長居すれば、それこそああなる」
ザラの一言で、
一同は足を速めた。
骨のように白く乾いた倒木を越え、
ザラの後ろを歩いていた拓海は、ふと口を開いた。
「……なあ、ザラ」
「ん?」
「この道を……あいつら、ウィンストン団長たちが越えるとしたら──
本当に、行けると思うか?」
ザラは歩みを止めなかった。
だが、ほんの僅かに視線を拓海へと流す。
「……気になってたか」
「ああ。
そりゃ、俺たちは今のところ無事だけど……
団員の中には体力のない奴もいるし、
毒に弱いのがいたら、ここで全滅しかねない」
「ふん……まあ、言ってることは間違っちゃいねぇな」
ザラは手の甲でマスクの端を押さえ、
低く、こもった声で続けた。
「この道を越えるのは、楽じゃねぇ。
毒にあたる奴も出る。
下手すりゃ──何人かは、戻れねぇ」
拓海はその言葉を受け、
足を止めかけた。
だが、ザラの声が重ねて続く。
「……だから、お前が先に見に来てるんだろ」
「……!」
「生きて戻って、
地形も、敵の配置も、空気の重さも、全部伝えて。
“安全に越える方法”を作るためにな」
拓海は言葉を失った。
ザラは一瞬だけ目を向けた。
その眼差しは、ただの傭兵のそれではなかった。
「私たちは仲間を殺すために来たんじゃない。
生かすために、前を歩いてんだ。──そうだろ?」
拓海は──
ゆっくりと頷いた。
喉の奥が少しだけ熱くなる。
それを誤魔化すように、
マスクの位置を直して歩き出した。
(……俺が、道を切り開く側になるなんて、な)
ふと振り返った視線の先に、
焚き火で笑いながら布を縫っていた誰かの顔が脳裏に浮かんだ。
周囲を包む空気が、わずかに変わった。
風が止まり、
地面のぬかるみもどこか粘度を増している。
前方に──
倒木の陰から、音がした。
ザリ……ザリ……。
それは乾いた肉が、泥を擦る音。
水を含んだ何かが、ぎこちなく動く気配。
「……止まれ」
ザラの声が低く響く。
全員が動きを止め、身をかがめる。
目の前、朽ちた木々の合間。
ゆっくりと姿を現したのは──
かつて“狼”だったであろう、何か。
その体は黒く染まり、
毛皮のほとんどは抜け落ちていた。
ところどころ乾いた血痕と膿の染みが硬直した皮膚を覆っている。
背中には、
太く肉厚な“キノコ”が五本以上生えていた。
傘は赤褐色。
その中央からは、糸状の菌が風に揺れながら漂っている。
胴体を貫くように生えたそれらは、
まるで“動く培養槽”に群生する毒草のようだった。
首は不自然な角度に折れ曲がり──
だが、四肢は動く。
腐りかけた筋肉が、ごきり、ごきりと音を立てて再始動している。
目は、ある。
だが瞳孔は開ききり、感情も知性も存在しなかった。
「……操られてる」
セファが低く呟いた。
「自我も……記憶も……もう、ない」
その口からは、
かすれた唸り声のような音が漏れていた。
「…………ッ」
音に反応したかのように、
それがこちらへ向けて──
顔を、ゆっくりと持ち上げた。
泥の中に溶けた牙。
胸の奥からは、胞子の粉が舞い上がっていた。
肉が裂け、骨が軋み、
それでも止まらないその動きは、まるで誰かに“歩け”と命じられているかのようだった。
「……っ!」
拓海は、咄嗟に腰からクロスボウを抜いた。
手順は既に体に染み込んでいた。
矢をつがえ、狙いを定め──
──ビュン!
鉄製の矢が、音を裂いて飛んだ。
命中。
それは狼の肩口──筋肉の中心を貫いた。
しかし。
「……え……?」
それは、まるで“何も感じていない”かのように、
そのまま、歩を止めずに前へ進んだ。
(効いてない──!)
いいや、効いてはいる。
確かに肩は崩れ、肉がちぎれかけていた。
だが、それでも歩く命令だけが残っているかのように、
それは首を折り曲げたまま、こちらへ向かってくる。
「……っ、ダメだ!」
ザラが前に出る。
「おい、離れろ!」
そう叫ぶと同時に──
彼女は地面の石を素早く拾い、
回転をつけて狼の前脚めがけて投げつけた。
──ゴッ!!
音を立てて膝が砕ける。
重心を失った“それ”は、ぬかるみに前のめりに倒れ込んだ。
だが、まだ終わっていない。
背中のキノコがひくひくと蠢いて、
折れた脚を引きずってでも這い進もうとしてくる。
「今だ、抜けるぞ!!」
ザラの叫びで全員が走る。
アミラが後方を警戒し、
セファは拓海の肩を軽く押して加速させた。
倒れた“それ”の横を通り過ぎる瞬間──
拓海は一瞬だけ、その目を見た。
乾いて濁った眼球。
だがその奥には、感情も理性もなかった。
それは“生きている”のではなく──
ただ命令を実行する“菌の端末”にすぎなかった。
全員が駆け抜け、距離を取ったところで、
ザラが振り返る。
「……ふざけた連中だな。死んでも前に来るなんてよ……」
「“身体だけが残った意志”。
そういうのは──本当に危険」
セファの声は、低く震えていた。
拓海は息を整えながら、
マスク越しに、吐いた息の温度を感じていた。
──空気が、変わった。
風は止まった。
音もない。
木々はとうに絶え、
草も、苔すらも、生き物の姿をしていなかった。
地面は、黒く膨れ上がった泡のような膿の層。
踏むたびにぬちょりと音を立てて沈み、
靴の裏から、粘膜のような感触が這い上がってくる。
「……ここが……中心、か」
ザラの声が、いつもより一段低い。
呼吸が重い。
マスクの内側がじっとりと濡れ、
薬草の匂いすら負けそうな、土と腐肉の濃縮された空気が肺に圧し掛かる。
拓海は歩みを止め、周囲を見渡す。
空が暗い。
曇っているのではない。
空気そのものが、光を拒んでいる。
霧が地を這い、
数歩先すら霞んで見えない。
「……何もかもが、限界を越えてる」
セファの呟きが、異様な静けさに溶けて消える。
大地には、歪んだ骨の残骸が散らばっていた。
人間とは思えぬ、いや、かつて人間だったかもしれないものたち。
ある者は仰向けに、ある者はうつ伏せに──
だが共通しているのは、
どれも“体内からキノコが生えている”こと。
「……みんな、喰われただけじゃねぇ。
“器”にされたんだ」
ザラが低く言った。
「もうここは“土地”じゃねえ。
菌の支配下だ。
この地面すら、たぶん──“呼吸してる”」
それは比喩ではなかった。
時折、地面のひび割れた箇所から、
ぶつり、ぶつりと濁った泡が立ち昇り、空気に混じる音が聞こえた。
(……ここが、通らなきゃいけない道だって……本気か?)
拓海は喉の奥を抑え、唾を飲み込む。
重い。
身体ではなく、“精神”が沈むような重さ。
それでも、誰も言わなかった。
「引き返そう」とは、誰も。
「……このまま抜けるぞ」
ザラがぽつりと呟いた。
空気はもはや“水”に近かった。
視界の隅では、
根から生えたキノコが小さく呼吸するように胞子を吐き出している。
歩くだけで吸い込まれる気がした。
その粘り気に満ちた空気の中──
拓海が動いた。
「……火をつける。少し試す」
ザラがわずかに眉を上げる。
「何に?」
「この……キノコに」
拓海は腰の袋から短い布を取り出し、
折れた枝に巻きつけた。
即席の松明。
アミラが火打石で火を起こし、
静かに先端に火を移す。
パチ……パチ……。
やがて、細い炎が生まれた。
その小さな火を──
拓海は、道端に密集する小型のキノコにそっと近づける。
──次の瞬間。
ボッ……!!
キノコから吹き出した胞子に火が引火した。
「っ……!」
小さな爆ぜるような音と共に、
白い胞子が炎に包まれて渦を巻く。
炎は枝から胞子へ、胞子から菌糸へ、
そして根の奥へ──
一瞬にして“火の線”が走った。
「……燃える。燃えるぞ、これ……!」
火が広がった。
地面のキノコ群が、
ひとつ、またひとつと連鎖して火花を上げる。
あまりに濃密な胞子のせいで、
空気中の可燃物そのものが炎を誘っていた。
「……やるじゃねえか」
ザラが思わず口を開いた。
「可燃性の胞子……
なるほど、菌の広がり方そのものが“弱点”になってるってわけか」
セファが腕を組む。
「ただし、火力を誤れば
酸素が一気に消費されるか、こっちまで煙に巻かれる」
「でも……この道を抜けるには、
火のラインを作るのが一番だ」
拓海は静かに言った。
「奴らの拠点は湿気と毒と暗さの支配だ。
だったら──火は、逆の象徴だ」
彼の手元の松明は、まだ小さく燃えていた。
だがその炎は確かに、
この“死の地”において最も鮮やかな生の証だった。
「……よし。松明は最低でも二本ずつ持っていけるように、
今から準備だ」
ザラの指示に、アミラとセファが動き始めた。
──ボウ……ッ。
キノコの群生が、音もなく燃え上がる。
炎は赤く、時折青く。
まるで意志を持っているかのように、胞子の線に沿って道を拓いていく。
一行は、その“火の隙間”を縫うように進んでいた。
全員が手にした松明を掲げ、
視界の淀みを焼き払いながら歩く。
セファは無言で火を見つめていた。
「……なあ、セファ」
拓海が声をかける。
「何?」
「お前って……そういう、霊的な火みたいなのは出せないのか?」
「霊的な……火?」
セファが首を傾げる。
「俺のいた世界の話には、ほら……“鬼火”っていうのがいてさ。青く光る火の玉で、夜道をふらふら浮いてるってやつなんだけど」
「へぇ……」
セファが少し目を丸くする。
「それって……幽霊?」
「まあ、幽霊だったり、妖怪だったり……。
人の魂が燃えてる姿とか、そういう風にも言われてるな。
他にも、死者を迷わせる火、なんて話もある」
セファはしばらく考えるように黙った。
やがて──
「……面白いね」
ふっと、微笑んだ。
「炎って、私達の世界じゃ“守り”の象徴だけど。
そっちでは“迷わせる”とか“怖がらせる”ための火でもあるんだ?」
「そうだな。
“人を導くもの”でも、“惑わせるもの”でもある。
たぶん、火そのものが“曖昧なもの”だったから──
昔の人たちは、よくそこに“魂”を見たんじゃないかな」
「…………」
セファは松明の炎をじっと見つめる。
やがてぽつりとつぶやいた。
「……わかる気がする。
私たちが使う“降霊の火”も、同じ。
あれも、誰かを呼ぶ火……だけど、たまに“違うもの”が来ることもある」
「違うもの……?」
「話すと長くなるよ」
セファは少しだけ冗談めいた口調で返す。
だがその目は、確かに──
拓海の話を“もっと聞きたい”という色を帯びていた。
「……拓海の世界の“火の話”、また教えて」
「……ああ。
妖怪の話なら、いくらでもあるからな」
二人の言葉が静かに混じる。
その間にも火は、道を拓き続けていた。
進むにつれ、火は衰え始めた。
燃え尽きたキノコの焦げ跡が広がり、
瘴気の濃度が再び高まってくる。
そこに──“それ”はいた。
最初に音が届いたのは、うめき声だった。
──う……あ……あぁ……。
しゃがれた声。
喉の奥を引き裂かれたような、苦しげな呻き。
「……!」
一同が身構える中、
霧の奥から現れたその影は──人間の形をしていた。
肩幅、手足の比率、動き。
いずれも、人間と変わらない。
だが、顔は崩れ、
頭部の半分から“巨大なキノコ”が生え、胞子を吐き出していた。
皮膚は灰色に腐り、
口元は干からびたまま、呻き声だけを繰り返す。
──それは、かつて人だった何かだった。
ゆらゆらと揺れながら、こちらに向かって彷徨ってくる。
その足取りは緩慢で、
どこか“彷徨う死者”にも見えた。
「……これは……」
拓海は、思わず矢を手にした。
何かを言いかけたセファの手を制し、
矢尻に、手元の松明の火を移す。
炎が、しゅっ、と音を立てた。
「……まだ、何か残ってるのかもしれない」
でも──
「それでも、もう……戻れないんだろ」
クロスボウを構え、息を殺す。
引き金にかかる指が、震えていた。
──ビュッ。
矢が音を切り裂き、
火の軌跡を描いて空を飛ぶ。
そして──
人型の胸を、正確に撃ち抜いた。
ボッ……!
火が体内の胞子に引火する。
それは一瞬、呻き声を漏らし、
よろり、とこちらを見たように見えた。
そして、ゆっくりと──
自らの火に焼かれながら、崩れ落ちた。
ドサッ……。
倒れたそれは、灰と煙に包まれ、
やがて無音の火の中に沈んでいった。
拓海は目を伏せた。
引き金を引いた手が、まだ微かに震えていた。
「……今のは……もしかしたら……」
セファが何かを言いかけ、
だが、続けなかった。
ザラは一度だけ目を閉じ、
短く呟いた。
「……ああなる前に、殺してやるのが一番だ」
風も吹かない地に──
一つの命のような火が、静かに揺れていた。
──ゴウ……ボウ……。
キノコが焼ける音だけが、
沈黙の中に小さく響いていた。
ザラが手際よく松明を振り、
辺りの胞子を放つ菌類を順に焼いていく。
やがて、半径五メートルほど。
霧が薄まり、瘴気の濃度がわずかに引いていく。
「……ここまでだな」
ザラが火を地面に突き立てた。
「この範囲なら──数分くらいは、マシだろう」
誰も言葉を返さなかった。
疲れきった。
炎の明かりの内側に、
彼らは一人、また一人と腰を下ろしていく。
泥に染まった脚を投げ出し、
だが背を完全に預けることはない。
セファが口元を押さえたまま、
苦しげに息を吐く。
「……マスク、外せたら……どれだけ楽か」
拓海も無言でうなずいた。
顔の内側は汗と蒸気でぐっしょりと濡れ、
息を吸うたびに薬草の刺激が鼻を焼いた。
だが──
「外したら、肺までやられる」
ザラが淡々と返す。
アミラは無言で、背を壁に預けて座った。
左手の義手を静かに膝に置き、
火の揺らめきをじっと見つめている。
「……目にしみるけど」
セファがかすかに笑った。
「火の匂いが、ちょっと安心するね。
たぶん、ここでしかそう思えない」
「火が怖くないって……それがもう異常だよな」
拓海がぽつりとこぼすと、
セファは一瞬だけ目を細めた。
「うん。でも……今は、それが頼りだもんね」
誰もが、
自分の呼吸音だけを聞いていた。
ほんの数分の休憩。
でもその短い“座る”という行為が、
彼らの限界をほんのわずかに延ばした。
──パチ……。
松明の火が、芯を食う音だけが響いていた。
疲労。
湿気。
焦げたキノコの匂いと、胸の奥をざらつかせる瘴気の残滓。
誰もが目を伏せ、
炎の輪の中で膝を抱えていた。
──そんな中。
「……おい」
ザラの声が落ちてきた。
大声じゃない。
でも、その響きは確かに“沈黙を切り裂いた”
「ここで座ってても、誰も迎えに来ちゃくれねぇぞ」
彼女は立ち上がった。
膝についた泥を払うことなく、
静かに周囲を見渡す。
「帰りたきゃ──動け。
生きたきゃ──進め」
炎が彼女の顔を照らす。
その輪郭には、疲労もある。
だが、それ以上に“歩く者の意思”があった。
「……私たちは、この死にかけた盆地を、
“通り抜ける”ために来たんだろ」
拓海が顔を上げた。
アミラが、無言で立ち上がった。
セファも、目を細めながら頷き、
泥にまみれた膝を伸ばす。
「……あと少し」
拓海が呟く。
「……あと、ほんの数百メートルで、抜けられる」
松明が持ち上がる。
それは火の武器であり、
彼らの“証”でもあった。
ザラが最後に一言。
「行くぞ。
死に場所じゃねぇ──生き延びる道だ」
火が揺れる。
その光を背に、
四人の影が、再び濃霧の中へと伸びていく。
──風が変わった。
湿気がわずかに引き、
霧の色がほんの少しだけ薄くなる。
「……見ろ、あれだ」
拓海が指をさす。
遠くに、
地形が隆起し、黒い腐土が終わりを告げる“境界線”が見えた。
木々が戻っている。
まだ枯れかけてはいるが、
そこには“この土地に侵されていない空気”があった。
「抜けられる……!」
セファが声を上げた。
「もう少しだ……!」
だが、その後ろで──
ザラの足が、わずかにふらついた。
泥に足を取られたわけではない。
バランスを失うような理由もなかった。
一瞬、自分の右腕を見た。
袖の内側に走る、紫がかった浮き上がった血管。
「…………」
彼女は、
それをゆっくりと袖で隠す。
(マズいな──)
皮膚の下で、
何かが動いている感覚。
燃やしたキノコの煙か、
それともあの人型に近づきすぎた時か。
原因はどうでもいい。
ただ確実なのは──
“侵食”が始まったということだった。
「……なあ、ザラ?」
拓海が振り返る。
「どうかしたか?」
「……ああ、ちょっと足が滑っただけだ。
問題ねぇよ」
笑ってみせたその顔に、
疲労の影がほんの少し深く刻まれていた。
だが、
誰もそれを“異変”とは気づかない。
──今は、まだ。
ザラは無言で歩き出した。
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