第15話

朝の霧がほとんど晴れた頃──

村の中心部に設けられた円形の広場に、

静かに人の波が集まりはじめていた。


輪の中央には、木片と殻を積み上げた祭壇。

その上には、削られた石の皿が置かれ、

中には火種となる灰と油と骨の混じった燃料が静かにたたえられていた。


やがて──


「……ヒュゥウ……」


低く、風のような笛の音がひとつ鳴った。


音が止んだその瞬間、

広場の周囲にいた沼の民たちは、一斉に静止した。


子どもたちも、女たちも、男たちも。

そして──


あの“記憶の声”が、

ゆっくりと、まるで木の影から滲み出るように姿を現した。


仮面をつけ、苔の巻き付いた肩を揺らしながら、

無言で火の前に歩み寄る。


その背中が、

森そのものの“意思”のように見えた。


そして、賢人が“語り”始める。


言葉ではない。

意味のある音でもない。


それは、“音”というよりも“波”だった。


低く、粘りつくような気配。

喉の奥から震えるような音が、火種へと注がれる。


やがて──


パチ……パチ……


火が、灯った。


青く、揺らぐような焔。

普通の火とは違う、静かで、重たい光。


拓海はその場に立ち尽くしていた。

仮面の下、額にうっすらと汗が滲む。


(……なんだ、この感じ……)


その時だった。


周囲の沼の民たちが、一斉に仮面をつけたまま踊り出す。


火の周囲をぐるりと取り囲み、

笛と鈴と踏み鳴らす音だけで、

まるで神話の再演のような舞が始まった。


足の動き、手の振り、身体の揺らし方──

すべてが“語らずして語る”ものだった。


揺れる焔の周囲を、仮面をつけた民が今度は静かに舞う。

風のような音と、沈黙の歌。

光と影が、地面に奇妙な形を映し出していた。


そんな中──

一歩、また一歩と、重たい足音が広場の縁に近づいてきた。


「……なんだ、これは……」


ザラだった。

眉をひそめ、いつになく声を潜めていた。


その後ろにはアミラ。

仮面をつけていない彼女は、無言のまま焔を見つめていたが、

その肩はほんのわずかに強張っていた。


「……祭だとか聞いてたけどよ、

 ……これって……まるで……」


ザラの言葉は、音にならずに消えた。


火の前では、仮面をつけた民たちが奇怪な踊りを続けている。

意味は分からない。

だが、それが“ただの踊り”でないことは肌が教えていた。


ザラの目が、

ふとその輪の中の──ひとつの仮面に留まった。


「……あれ……まさか……」


火の向こう。

仮面をつけ、静かに火を見つめるひとりの男。


――拓海。


彼の姿は、あまりにもこの異様な空間に“馴染みすぎていた”。


「……何やってんだ、あいつ……」


ザラがぽつりと呟く。

声に混じったのは、驚きでも苛立ちでもなく、

ただ──不気味さへの本能的な違和感だった。


アミラは何も言わない。


ただ、拓海の姿から目を逸らさず、

左手がわずかに腰の短剣に触れていた。


身構えるでもなく、安心するでもなく──

彼女は、“判別できないもの”を前にした沈黙の警戒を続けていた。


火は、静かに揺れていた。

それを囲む者たちは、誰ひとりとして声を発しなかった。


この祭は、外の世界の理と隔絶していた。


火の周囲での舞が、ひととき止んだ。


静寂が降りる。

笛の音も、足踏みも消え、

ただ焔の音だけが“生”を灯していた。


そして──

“記憶の声”が、動いた。


賢人は火の前に進み出ると、

肩にかけた蔦の束から小さな布包みを取り出した。


その中には、

細かく砕かれた灰のような粉末が収められていた。


ひとつ、深く息を吸い、

それを、火の中心へと撒いた。


その瞬間──


ゴウッ……


炎が低く唸り、色を変えた。


赤から、黄、そして──

青白く、幽玄な光へと変わる。


焔は静かに揺れ、

そこから舞い上がるように、

無数の光の粒が空中へと広がっていった。


チリ。

灰。

微細な煌めき。


だがその一粒一粒が、

まるで星々のように瞬いていた。


木の枝に。

仮面の端に。

人々の頬に──

柔らかく降り注ぎ、宙に漂い、

夜空のような空間が生まれた。


その美しさは、言葉にならなかった。


「……おお……」


その音は、紛れもなく──

沼の民たちの、声だった。


囁きのように。

感嘆のように。

胸の奥から、自然に漏れた驚きの声。


この“声なき民”が、

声を漏らすほどの光景。


それは、ただの祭ではなかった。

何かの境界が、越えられた証だった。


ザラは眉をひそめ、

アミラは微かに顔を上げた。


セファは焔の粒に指を伸ばし、

拓海は──仮面の下で息を呑んでいた。


(これは……何なんだ……?)


焔の中。

賢人の仮面が、こちらを見ていた。


風が、止んだ。


火の粒子が、空に満ち、

一面が──白銀に染まった。


地面も空も、焔も仮面も、すべての輪郭が霞み、溶けていく。


そこは、まるで宇宙だった。

星がなく、ただ光だけが流れる場所。


けれど、足元には柔らかな波紋。

白い水面に似た感触が広がる。


音は、ない。

重力すら曖昧で、呼吸も意識の奥に沈んでいった。


(……ここは……どこだ……?)


拓海の思考が溶けかけた、その時──


“それ”が、現れた。


火の中心、白銀の波の奥から、

ゆっくりと、黒い影が姿を見せる。


──昨日、地下で見た、神の死骸。


だが──今は“生きていた”


脈動し、蠢き、

目のない頭部から波紋のような“気配”を放っている。


その身にあるはずのない“視線”が、全員に注がれる。


周囲の者たち──

ザラが目を見開き、膝をついた。

セファが息を呑み、肩を震わせた。

アミラが短剣に手をかけかけて、ただ立ち尽くした。


沼の民たちも、仮面をつけたまま、無言で膝を折った。


そして、“それ”は語り出した。


──※*#゛◇──!゛※◇@**……


音ではなかった。

知覚そのものに直接、触れるような“声”。


皆、その場に凍りついた。


それはあまりにも“意味が通らない”のだ。

あまりにも多すぎて、あまりにも広すぎて。

言語ではなく、圧倒的な“存在による言及”


──ただ、ひとりを除いて。


拓海だけは、それを聞いた瞬間──


「……世界は継がれた。

 言葉は再び繋がる。

 書を継ぐ者よ──お前は、忘れられた記録の使徒である」


意味が、届いた。


頭に流れ込むのではない。

心に、音として“日本語”が響いた。


「なっ……」


思わず声を漏らすと、

ザラが拓海を振り返る。

セファが顔をしかめる。

アミラは拓海の“背中”に目をやる。


彼だけが、言葉を理解していた。


“それ”はなおも語る。


「書を継ぐ者よ──

 これは、終わりの火ではない。

 始まりの灰である。

 お前が語る限り、世界はまた沈むだろう」


その瞬間──


白銀の世界が、爆ぜた。


空間が歪み、火が崩れ、

幻視は終焉を迎える。


拓海は──現実へ、引き戻された。


焔は消えていた。

風は止み、空は晴れ、

祭の音も舞いも、今だけは沈黙していた。


賢人は、

仮面をつけたまま、ただ静かに背を向けると、

誰にも言葉を残さず、

ゆっくりと森の奥へと消えていった。


その後ろ姿を──

誰ひとりとして追うことはなかった。


沼の民たちは膝をついたまま、

ただ、頭を垂れていた。


拓海は、ひとり立ち尽くしていた。


仮面をつけたままの顔に、

汗が伝っていた。


(……終わった……のか?)


何が始まり、何が終わったのか──

それすら、確かめる余裕はなかった。


だが──


その右手の中に、

確かな“重み”が残されていた。


ゆっくりと開く。


そこにあったのは、ひとつのペンダント。


金属ではない。

石でもない。

透明な何か──だが、それを“ガラス”とは呼べなかった。


中には、

夜空にも似た、星々が浮かんでいた。


浮遊し、瞬き、

ときおり軌道を描きながら、

まるでそこに“小さな宇宙”が閉じ込められているようだった。


「……これ……」


ザラが眉をしかめ、後ろから覗き込む。


「お前……それ、どこで──」


声を途中で止める。


セファは言葉を出さず、ただ見つめていた。

アミラは、微かに目を細める。


誰も、それがどこから現れたかを見ていなかった。


ただひとつ確かなのは──

それが“火の幻視”のあとにだけ、存在していた”という事実だけ。


それが何なのかは、まだ分からない。


拓海がペンダントを見つめていたときだった。


「……っ」


隣にいたセファが、

突如として顔を強張らせ、

数歩、後ずさった。


「セファ……?」


彼女は言葉を返さない。


その視線は、拓海の手のひら──

星の浮かぶペンダントに、釘付けになっていた。


「……やめて……それ……近づけないで……」


それは、セファが初めて見せるほどの、露骨な恐怖だった。


「……見た目は綺麗。

 でも……違う。あれは“空”じゃない……」


「“空”……?」


セファは震える指先を胸元に当てながら、

押し殺すように言葉を紡ぐ。


「霊が……あの中に“入れない”の。

 ……声が、沈黙してる…」


風が吹いた。


祝祭の余韻が、森の隙間へと吸い込まれていく中で、

セファの声だけが、冷たく響いた。


「……それは……“虚空”だよ。

 記録でも、記憶でもない。

 ……何もない。何も返ってこない。

 “完全な沈黙”の象徴──」


拓海は言葉を失った。


彼自身には何の力も感じなかった。

ただ、小さな重さと、

胸の奥を静かに満たすような感覚だけが残っていた。


だが、セファには──

それが世界の縁から滴る“穴”のように映ったのだ。


「……私には無理…」


セファは、静かに顔を伏せた。


彼女の肩越しで、アミラがじっとこちらを見ていた。

ザラは沈黙を守ったまま、

ただ焔の跡地を見つめていた。


その空気に、

拓海はただ、

ペンダントを胸元に収めるしかなかった。


(……“継いだ”のか。俺は……)


火の名残が風に消え、

焔の輪は跡形もなく解けていった。


誰からともなく──

仮面が外され始める。


それは合図も掛け声もない、

ただ一斉に“本当の顔”を曝け出す、

この祭の最後の儀式だった。


木の仮面が、地面に静かに落ちていく。


拓海は息を呑んだ。


男たちの顔は──

人間の骨格に、ナマズのような器官が混ざっていた。


広い顎。

頬にぬめり。

喉元にはわずかに膨らんだ“腮あぎと”のような鰓の名残。

太く、まばらなヒゲが頬に下がり、

目だけは、静かな知性を湛えていた。


一方で──


女たちは驚くほど美しかった。


しっとりとした白い肌、

整った眉と口元、

目元にだけ、仄かに夜を思わせる青の影。


だが、彼女たちの首元には──

小さく開閉するエラのような器官があった。


呼吸のたびにゆっくりと動き、

それが人ではない証明であることを物語っていた。


誰も、それを隠さなかった。

恥じる様子もない。


それが、この民族の“素顔”だった。


ザラは眉をひそめて言った。


「……なるほどね。

 こいつら……純粋な人間じゃないわけだ」


アミラは無言で彼らを見つめていたが、

その視線は敵意ではなく、ただ静かな評価だった。


火の跡地には、新たな煙が上がり始めていた。


男たちが巨大な虫の肉を解体し、

女たちが香草を刻み、水を煮立て、粘液のような調味料を加えていく。


大鍋の中では、

白く透き通った水辺の宴の料理が湯気を立てていた。


大鍋から立ち上る湯気に、

森の香りと混じり合った異国の芳香が漂う。


沼の民の女性たちが、

手際よく盛り付けた白く光る肉と香草の煮物を、

静かに、そして迷いなく、客人たちへと差し出してきた。


皿は葉で編まれた皿。

湯気の立つその中身は──


・昆虫の腹部に似たゼラチン質の肉

・茹でられた紫の実

・何かの木の実の油漬け

・白い花びらのような食用植物がふわりと添えられていた


どれも、見た目こそ奇妙だったが──

匂いは芳醇で、唾を誘うものだった。


「……うわ……想像より、全然、うまそう……」


拓海は苦笑しながら受け取った。


ザラはまだ眉をひそめたままだったが、

「こっちのがよっぽど“蚊”よりマシかもな」と呟いていた。


セファも静かに皿を受け取り、

すん、とひとつ香りを嗅いで目を細める。


「……あ、戻ってきた。……“声”たちが……」


拓海が顔を向ける。


「さっきは?」


「完全に……沈黙してた。

 声が“届かない”って感覚。まるで……真空みたいな場所にいたみたい。

 でも今は……ふつう。すごく静かだけど、ちゃんといる」


そう言うと、

セファはようやく笑った。

ほんの少し──安堵のこもった、本物の笑み。


「……それに、この料理。

 きっと、あの火のあとに“ちゃんと地に足を戻す”ための、意味もあるんだろうね」


そう言って、

スプーン代わりの木片でゼラチン肉を一口。


「……あ、意外とおいしい。

 あっさりしてて、スープも優しい。

 “水辺の暮らし”って感じがする」


拓海も続いて食べる。


──ぷるり、とした弾力。

だがクセはなく、

噛むごとにほんのりと出汁のような風味が広がる。


(……あ、これ、普通にうまいじゃん)


静かに、

だが確かに、

彼らと自分たちの間の壁が少し溶けた気がした。


一方でアミラは黙々と頷きながら食べていた。よっぽど美味しかったのだろう。


宴の輪の外では、

仮面を外した沼の民の子どもたちが無言のまま追いかけっこをしていた。

笑い声の代わりに、さえずるような「ピィ、フィィ」という口笛の音が木々に響いた。


そこには、もう儀式の重さも、神の気配もなかった。


葉で編まれた皿の片付けが進み、

焚き火の煙も細くなりはじめていた。


周囲では、沼の民たちが静かに散っていく。

まるで最初からそこにいなかったかのように、

彼らは跡を残さない。


拓海は、空になった器を手に、

ぼんやりと火の跡を見つめていた。


その隣で──ザラが木の幹に背を預け、

空を見上げたまま口を開く。


「……ま、明日は移動だな。

 宴が終わったら、だいたい“次”に進むのが世の常ってやつさ」


木漏れ日が風に揺れ、彼女の髪を揺らす。


「それにしても──思いがけない出会いだったな。

 こっちが敵対せずに済んだの、久々じゃないか?」


拓海はペンダントに触れかけた手を止め、うなずいた。


「ああ……間違いなく、“敵”じゃなかったな。

 不気味だけど、悪意はなかった」


「それが一番ラッキーだよ。

 この世界、まず“敵じゃない”ってだけで上出来なんだ」


ザラは軽く鼻で笑って、腕を組む。


「喋れなくても、通じなくても、

 通じあえない“まま”でいてくれるだけで、ありがてぇ。

 殺し合いが前提じゃない出会いなんて、

 ここじゃめったにねぇからな」


その声には、

旅を重ねてきた者にしか出せない静かな疲労と本音が滲んでいた。


「……でもさ」

拓海は言った。


「通じあえるって思っても、

 その奥に“わかり合えないもの”が潜んでることも、あるよな」


ザラは一瞬、黙った。


そして、肩をすくめる。


「まあな。

 だけど、それでも──お前が通訳やってくれたおかげで、

 “殺されずに済んだ”のは事実だ。……感謝してるよ」


拓海は、照れたように目をそらした。


どこかで、仮面を被った子どもたちの笑い声のような笛音が

風に溶けていった。


世界の境界にあるような村での、

静かで、貴重な一日が──

ゆっくりと幕を下ろしつつあった。


宴の熱がひと段落し、

拓海が焚き火のそばで器を洗っていたときだった。


──コツ、コツ……。


柔らかく湿った足音。

振り返ると、

森のほうからあのガイドの女性が静かに現れた。


仮面は外していた。

首元に小さなエラが揺れ、

頬に貼りつくような髪が風で流れる。


彼女は無言で近づいてくると、

手のひらの中からひとつの小さな貝笛を差し出した。


それは掌に収まるほどのサイズ。

白と青のまだら模様を持ち、

渦を巻くように貝殻が彫刻されている。


細く空いた穴に風を通せば、

鳥の鳴き声にも似た高く澄んだ音が出る。


拓海は驚きながらそれを受け取った。


「……これは?」


彼女は少しだけ、唇を動かして答えた。


「それを吹けば──我らの耳に届く」


その声は低く、だが柔らかかった。


「敵でないのなら、

 我らは、走る。

 森にいても、谷にいても、風を聞く」


言葉は簡潔だった。


だが、その裏にある意思は──確かだった。


「……ありがとう。すごく……心強い」


拓海がそう言うと、

彼女は微かに笑った。

それは仮面のない、素顔の民の微笑だった。


そして、彼女はまた何も言わずに踵を返し、

森の奥へと消えていった。


拓海は、

手の中に残った貝笛を見つめながら、

その“形のない絆”を確かめるように、

そっとそれを胸の袋に仕舞った。



ー ー ー



月は木々の間に静かに昇り、

夜の霧が地面に漂う中──

拓海たちは、村の奥にある簡素な宿泊小屋に身を預けていた。


床はしっかりと編まれた蔦と苔。

湿り気こそあるが、体温に馴染むような柔らかさがあった。


焚き火の残り香が鼻に残り、

腹は満ちて、

目は自然と重たくなる。


「…………」


アミラは壁際で静かに毛布にくるまっている。

セファは既に軽く寝息を立てていた。

拓海も、目を閉じる。


(こんなに……静かな夜は、いつぶりだろう……)


少しだけ安堵を覚えた、そのときだった──


「……グゴオオ……ッ、グガァッ……」


──響いた。


隣の床から、突如として湧きあがる雷鳴のような低音。


「……うそだろ……」


拓海はそっと目を開けた。


横で仰向けになったザラが、

豪快ないびきを鳴らしていた。


口は半開き、片手は頭の下。

筋肉質な胸が起伏するたび、**“鼓膜に優しくない旋律”**が鳴り続ける。


「グオォ……グ、グッ……グググ……フゴオオ……」


もはや野獣の咆哮に近かった。


アミラが少しだけ顔を背けた。

セファは目を閉じたまま、寝返りを打った──耳を押さえるように。


拓海は毛布を頭までかぶった。


それでもいびきは通過してきた。

だが不思議と、その音の奥にある“生きてる感”が心地よくもあった。


(まあ……元気な証拠、か……)


やがて、耳の奥で音が遠ざかるように変わっていく。


そのまま拓海も、

いびきを“子守歌”にしながら、眠りへと沈んでいった。

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