第45話

 その夜のうちに佐助を神奈川奉行所に連行して報告書を作成し、翌朝、清久郎は寝る間もなく早朝から出勤して竹脇を待った。

 竹脇は、いつもどおり定刻に現れた。

「おはようございます」

「おぅ、清久郎、早ぇな」

 そう応じ、竹脇は顎で「来い」という素振りを見せて奥へと進む。

 足を止めたのは、西の庭に面した普段は使われていない一室だった。

 竹脇は盗み聞きを用心してか、あえて木戸や障子を開け放したまま、床にどっかりと胡坐をかいた。清久郎は、その前に端座する。

 竹脇が、促すように清久郎に顎をしゃくった。

 清久郎はどう言葉にするべきか悩みつつ、それでも口を開く。

「竹脇さまは、昨夜はどのような理由で、特定の商人を相手になさっていたのでしょうか」

「つまり、桐生屋とどんな関係だ、と訊きたいのだな」

 本人の口から直截的に聞き返され、清久郎は気まずく口を閉じたものの、視線は外さずに竹脇の目を見た。

 しばし睨み合うようにお互いを見つめ、先に根負けしたのは竹脇のほうだった。

「これは、お奉行さまも知らないことになっておる。他言は無用だ、良いな?」

 奇妙な言い回しをしたのは、神奈川奉行には相談の上で、公にせずに竹脇の裁量で始末を付けろと命じられたからなのだろう。

「ことの発端はこうだ。桐生屋が、上海から引き上げてきたエゲレス商人から阿片を買わされたと泣きついてきた」

「阿片……どうして桐生屋がそんなものを」

 阿片は恐しい麻薬だ、生糸商人が扱う品ではない。

「おそらくあちらさんは上海の阿片窟に売りつけて儲けるつもりだったのだろうが、それが清の当局にバレそうになってブツごと引き上げてきたのだろう。本国に持って帰るわけにもいかないブツを、日本に寄港して売りさばこうって魂胆だ。そこで何も知らずに生糸の新しい取引先を探していた桐生屋が、物騒な話を持ちかけられたというわけだ」

 通訳を介しても意思の疎通がうまくいかず――というより一方的にリチャードソンに押し切られ――桐生屋は阿片を買い取ってしまった。その後ことの重大さに慄いて、神奈川奉行所に相談に来たのだという。

「我が国には阿片窟などないからな。妓楼などに出回れば厄介なことになるが、聞けば団子状の阿片が七、八個。ならば小石川の薬種問屋を紹介しようと約束したのだ。桐生屋も、罪に問われず引き取ってもらえるなら二束三文で構わぬと申したのでな」

「薬種問屋が阿片を?」

 清久郎は目を見開いて尋ねた。

「療養所では治療の際に麻酔として使われるらしいが、我が国では希少なので高価な品だ。それが多少なりとも安く手に入れば、療養所へも安く回せる」

 悪いことではないと言いつつ、竹脇は眉間にしわを刻んで続ける。

「とはいえ、密輸であることに違いはない。お目こぼしはこの一度きりだと、桐生屋にはきつく言い渡してある。場合によっては領事館に抗議して、問題の商人を追放しなければならない事態だが、当人はもう殺されてしまったことだしな」

「……生麦で殺されたエゲレス人だそうですね。まさか、薩摩はそれを知っていて?」

「いや、さすがにそれはないだろう。厄介な偶然だ」

 清久郎の問いを、竹脇は苦笑とともに否定した。

「では……」

「お奉行は、阿片が不法に持ち込まれた件を生麦の事件の交渉に使うことも考えられたようだが、それでエゲレスさんに今のおめぇのように事件を深読みされては幕府にとっても煩わしいことになる。上方の密偵に知れて、帝に通商条約の撤廃をなどと迫られても困る。ゆえに、阿片の件は穏便に処理するよう任されたのだ。まさかそれを浪士どもに嗅ぎつけられていたとは、脇が甘かった」

(それでは、竹脇さまが個人的に桐生屋と癒着しているわけじゃなかったのだな)

 清久郎はホッとした。と同時に、多少なりとも疑ってしまったことを申し訳なく思った。

 これで一件落着だ。清久郎はそう考えたのだが、竹脇のほうは浮かぬ顔だ。

「竹脇さま、まだ何か」

「馬鹿野郎。肝心の異人を斬った薩摩藩士の件は、何ひとつ進展してねぇだろうが」

 そのとおりだ。

 神奈川奉行所が苦境に立たされている現実は、まだ変わっていない。

「いっそ、エゲレスが薩摩と直接交渉してくれれば話は早いのでしょうが」

 昨夜の花匂の言葉を思い出し、清久郎はつい口走ってしまった。

 竹脇は清久郎をギロリと睨み、「くだらねぇことを言うんじゃねぇ」と低く言い捨てた。

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