第22話
左手の茶屋の向こうに、ひときわ大きく華やかな建物が見える。離れていても、あれが岩亀楼なのだと察しがついた。
岩亀楼の前で茶屋の客を妓楼に案内していた若い者がふたり、見るからに役人と中間という風情の清久郎と伝右衛門を見て、戸惑った顔をした。面番所の役人ならば顔も見知っているのだがと訝しく思っているのだろう。
「旦那、何かございましたか?」
尋ねる声も、遠慮がちだ。
清久郎は努めて落ち着いた口調で言う。
「楼主に尋ねたいことがある。取り次いでくれ」
「へぇ」
ひとりがぺこりと頭を下げて中に入ると、残されたひとりはこちらを気にしながらも他の客を岩亀楼に案内する。
やがて戻ってきた若い者に案内され、清久郎と伝右衛門は黒塗りの板塀で囲われた通路を通って裏口から縁側に通された。縁側に腰掛けて待っていると、すぐに長着に揃いの羽織を着た白髪混じりの楼主が現われ、板の間に座って頭を下げる。
「お役人さま、手前どもに何か……?」
「忙しいところ、商売の邪魔をしてすまぬな」
清久郎がはじめに詫びて「平吉という男がここの馴染み客だと聞いたのだが」と切り出すと、
「さて。おい、おまえ、平吉ってぇ客を知っているかい?」
楼主は腰を浮かせて振り返り、障子の向こうに声をかけた。そこは内所の側らしく、
「さぁて、平吉ねぇ。ちょいと、
内儀らしき声がして、ほどなく番頭が出てきて頭を下げた。
「番頭の作治でございます。確かに平吉ってぇ男は、以前は何度か通ってきておりました」
「今は来ていないのか?」
清久郎の問いに番頭が答えるより早く、
「あれだろう、アヤメちゃんの間夫」
別の障子の陰から顔を覗かせて赤い麻の葉の絞りの振袖姿の遊女が言うと、その後ろで山吹に青竹模様の振袖を粋にまとった遊女が否定する。
「ありゃあ間夫じゃなくて、たかりだろう。アヤメが好きだったのは佐(さ)助(すけ)さんのほう」
「おまえたち、暇なら張見世で客のひとりも捕まえておいで」
番頭に叱られても、若い遊女たちは慣れっこなのかケロっとしている。
「いや、すまぬ、その話をもう少し聞かせてもらえないだろうか」
清久郎は遊女たちを引き止めた。
楼主と番頭は仕方ないという顔をして、その場を遊女ふたりに任せて仕事に戻った。
「アヤメというのは、ここで働いている女か?」
清久郎が尋ねると、遊女ふたりは顔を見合わせ、麻の葉が言いにくそうに言う。
「アヤメちゃんはここの新造だったけど、半年前に五十鈴楼に鞍替えになりんした」
清久郎はどこかで聞いた話だと思い、五十鈴楼でさつきが自分のことをそう説明していたのだと思い出した。しかも立場も同じ新造だ。
「アヤメは禿立ちのわっちらと違ぅて、十七で売られてすぐ新造になった妓でね。平吉ってぇ男はアヤメの同郷だとかで、最初のうちは悪い客には見えなかったのだけど、なにせ酒癖の悪い男でさぁ」
青竹の言葉を、麻の葉が引き継ぐ。
「金もないのに酔ったあげくに居座って」
「普通なら面番所に突き出されるとこなのにさ、アヤメが身銭を切るものだから、男も付け上がっちまってねぇ」
「そのせいで、アヤメちゃん、借金が膨らんで大変だって聞きんした」
「ひどい話さ。見かねた遣手がちょいと注意したら、平吉って野郎、怒って大暴れしてね。それでアヤメはここに居られなくなっちまったのさ」
身につまされるのか、遊女たちはしんみりとして視線を落とした。
「では、アヤメ殿は五十鈴楼に移って、平吉もそちらに通うように?」
清久郎が尋ねると、遊女たちはまた顔を見合わせた。
「……アヤメは死んじまったよ」
青竹が、上目遣いにつぶやいた。
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