第6話

 ふたりは関税や外務全般を取り仕切る運上所の前を通った。

 清久郎の目に、波止場でひとり海に向かって立つ洋装の男の姿が映った。異人なのだろう、停泊している船に乗るでもなく、ただ暗い波を眺めているように見える。海の彼方の故国を想っているのだろうか――普通ならそう考えるところだが。

 月明かりの下ぼんやりと見える洋装の男は、胸元は血まみれで、首から腹にかけて斜めに切り裂かれていた。脇腹からこぼれ出た臓腑が、不自然なほどはっきり見える。

(今日、殺されたという男か)

 清久郎はやれやれと肩を落とした。こんなモノが視えてしまうから、事件のあとの見廻りは嫌なのだ。

 生きとし生けるもの、いずれ皆死を迎える。それゆえ幽霊を恐ろしいとは思わないが、この世とあの世の狭間に立ち尽くす亡者の姿は、虚しくてやるせない。何を望もうと、死した者がこの世でできることなど何もない。

 暗い海に向かうこの幽霊は何を思っているのだろう。胸にあるのは異国で生命を絶たれた無念か、帰ることの叶わぬ故国への望郷の想いか。いずれにせよ事件の真相を語る気配は感じられなかった。この男自身、どうして自分が生命を落とさなければならなかったのか理解していないのかもしれない。

 幽霊が視えたところで、それが事件の解決につながることはほとんどなかった。

(この界隈じゃ化け猫が出るって噂だが)

 どうせ視るなら、臓腑をさらしたままの幽霊より、化け猫のほうがマシだと清久郎は思った。

 もっとも居留地見廻り役として夜間にこのあたりを歩きまわって久しいが、いまだ化け猫に遭遇したことはない。噂話などそんなものだ。

 清久郎は申し訳程度に合掌して、幽霊に背を向けようとした。

 その視界の端を、小さなものが横切った。子猫だ。

 母猫とはぐれたのか、夜の散歩を楽しんでいるのか、軽快な足取りで波止場を駆ける。そのまま幽霊の足元を通り抜けようとしたようだが。

 ふいに、腹の裂けた男の幽霊が子猫を掴み上げた。その手を振り上げ……子猫を海に投げ捨てようとしているように、清久郎には見えた。あるいは地面に叩きつけようとしているのか。

「よせっ!」

 とっさに駆け寄り、男の手から子猫を奪い取ろうとする。

 ふわりと宙を切る手応えのなさ。清久郎はたたらを踏み、かろうじて転ばずに済んだ。

 そうだ、幽霊にはさわれないのだ。

 それならどうして幽霊は子猫を掴むことができたのだろう。そんな疑問も頭をよぎったが、ヒトならぬモノの事情など考えてもしかたない。

 顔を上げればすでに幽霊の姿はなく、身軽な子猫は地面に着地してこちらを見ていた。と、すぐに足音もなく走り去る。

「若?」

 伝右衛門が遅れて駆けてきた。

「猫が……」

 言いかけた清久郎だが、幽霊はもちろん猫にも気づいていなかったらしい伝右衛門の顔を見て、首を横に振る。

「いや、なんでもない」

 幽霊が視えてしまうことは、幼い頃から中間として仕えてくれている伝右衛門にさえきちんと打ち明けたことがない清久郎だ。子供のころ剣術道場の仲間に話して嘘つきの臆病者呼ばわりされたのが悔しかったからだ。伝右衛門は薄々気づいているようだが、清久郎の気持ちを慮ってか自分からその話題に触れることはなかった。

 清久郎は気を取り直して言う。

「こんな事件のあとは、調子に乗った浪士どもが日本人の店にまで押し入りかねないからな。せっかく非番返上で出てきたのだ、本町通りでも見廻ることにしよう」

「御意」

 供の伝右衛門は太鼓を取り出そうと懐をまさぐり、「ああ」と気の抜けた声を漏らした。夜の見廻りの際には怪しい者ではないという証しと火の用心の注意喚起に、太鼓をドンドコ鳴らして歩くのが慣習だ。だが、今宵は居留地を刺激しないよう鳴り物禁止と言い渡されていたため、役宅を出るときに置いてきたのだった。どのみち普段は他の者に持たせる提灯を伝右衛門が持っているため、その手で太鼓を叩くのは至難の技なのだが。

「手持ち無沙汰でございますねぇ」

「そうか?」

 それが太鼓の話だと気づきもせず、清久郎はおざなりに聞き流した。

 慣れた道とはいえ、月と提灯の灯ひとつを頼りにふたりだけの道行きは、いつもの見廻りとは違って落ち着かない。

(怖いわけじゃないが、辛気くさいというかなんというか)

 それでも律儀にあたりに目を配って歩く。

 居留地が騒がしいせいか、日本人町は息をひそめているかのように静まり返っていた。

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