第2話
『だからさ、クラーク、こうして閉じこもっていたらなおのこと気が滅入るだろう』
『閉じこもってなどいないよ。毎日ちゃんと会社に行って、仕事をしている』
『休日とアフター5の話だ』
朝からクラークを訪ねてきたマーシャルは、革張りのソファに座ったままうつむく友人の肩に手を乗せてそう言った。
もう陽は高いというのに薄暗い室内。
真夏の暑さは去ったが、空気は湿って重苦しい。
上海経由で本国
その卓上に、和服に白いエプロン姿の若い日本人メイドがソーサーに載せた紅茶のカップを置き、無言で頭を下げて戻って行った。愛想がないのは無作法だからではない、彼女は英語がわからないのだ。
日本と異国との修好通商条約が結ばれ、横浜港が開港されて三年。
横浜居留地には
マーシャルは紅茶をひと口飲み、微妙な顔でカップを戻して言う。
『お茶の味には難があるが、今の子だって可愛いじゃないか』
『彼女はメイドだ、メイさんの代わりじゃない』
うつむいて首を横に振る友人に、マーシャルはそっと吐息を漏らす。
メイさんはラシャメン――異人相手の日本人遊女――だった。クラークはひと月ほど前から彼女をこの横浜居留地の自宅に住まわせ、妻のように身のまわりの世話を任せていた。英語は片言だったが、控えめな笑顔が可愛らしく、若いのに気の利く娘だった。妻とともに日本に来ているマーシャルは口が裂けても「羨ましい」とは言えなかったが、正直、そんなふうに若い現地妻を囲うのも悪くないと思っていた。
だが、メイさんは夏風邪をこじらせ、無理をしないでと寝ませたクラークに看取られて儚く亡くなってしまったのだった。
亡骸はすぐ遊郭に引き取られてしまったため、クラークは葬儀どころか別れを惜しむ間もなくメイさんと引き離され、まるで魂を半分持っていかれたかのように腑抜けてしまった。それが一週間ほど前のことだ。
三日前には、おそらくメイさんの知人であったと思われる若い日本人の男に掴みかかられ、言葉も通じず一方的に殴られもした。傷心のクラークには衝撃的な出来事だった。
遊女は病や心労、遊郭での過酷な暮らしが祟ってか、若くして命を落とす者が多いという。だからこれもしかたのない巡り会わせだったのだと思うマーシャルだが、落胆するクラークにそうは言えない。それに、今日は別の用件があって来たのだ。
『クラーク、今日は午後から遠乗りに付き合ってもらおうと思って訪ねたのだよ』
『僕のためなら、気を使わないでくれ』
『じつは、結婚して香港にいた義妹が妻のところに遊びに来ていてね。せっかくだから馬で日本観光をと思うのだけれど、妻は義妹と違って乗馬が苦手なのだ。クラーク、付き合ってもらえないだろうか』
義妹とふたりきりでの遠出はまずいということのようだ。
『ああ、そういう事情なら』
クラークが、やっと顔を起こした。
『馬で東海道沿いの海を眺めながら、川崎大師に行くコースはどうかな』
マーシャルの言葉に、クラークが寂しく微笑む。メイさんが生前「川崎のお大師さまにお参りしてみたい」と言っていたのを思い出したのだ。
(メイさんの代わりにお参りしてこよう)
久しぶりに、少し前を向く気持ちになれた。
『昼前に一度、会社に顔を出そうと思っていたから、そのあとでよければご一緒するよ』
『ああ、よろしく頼む』
マーシャルがほっとしたようにうなずいた。
その後、職場であるハード商会に顔を出したクラークが上司に午後の予定を話すと、
『クラーク、きみは上海のリチャードソンを知っているかね』
『はい。上海支店にいた頃、何度か顔を合わせています』
意外な名前を聞いて、その男の顔を思い出した。クラークは横浜支店に転勤になる前、上海支店にいた。リチャードソンは上海で手広く商売をしていた男で、顔が広くて頼りになる反面、現地の中国人に対しては横柄で金に汚いことでも知られていた。もっとも、異国で商売を続けるには、それくらい太い神経がなければやっていられないのかもしれない。
『彼が今、上海の店を畳んで日本に来ていてね』
『店を畳んで?』
『ああ。詳しいことは知らんが、おおかた当面遊んで暮らせるくらいの荒稼ぎはしたということだろう。観光で日本に立ち寄って、今日の船で帰国する予定だったのだが、あいにく出航が明日に延びて一日空いてしまったのだ。せっかくだから、彼も連れて行ってくれまいか』
話はすぐにマーシャルに伝えられ、この日、マーシャルと義妹のマーガレット、そしてクラークとリチャードソンの四人が一緒に遠乗りすることになった。馬は、マーシャルが手配することになっていた。
初秋の空は青く晴れ渡っている。
(遠乗り日和だよ、メイさん)
クラークは、空を見上げて心の内に語りかけた。
このあと彼らを襲う悲劇のことなど、神ならぬ身には知るすべもなかった。
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