主なしとて
君がいなくちゃ死んだようなものだね。
俺がいなくちゃ死んだも同じことだよ。
訂正に訂正は入らなかった。事実その通りだと思う。
「旅人じゃなければならないんだ」
柿を齧りながら桃青は言った。
ああそうだなあとゆるく応えた。
「移動になってしまうんだ。小車は存在できないんだ」
必死だなあと内心で納得した。
鷲鼻と言うほどではないけれど、尖った鼻。
吊った目の奥には爛々と光を孕む瞳。
老いた人間だけが持つ狡さと諦念が鎬を削っている。
「俺が待っているよ」
せいぜい懐かしんでくれと柿を摘む。
放っておいたら桃青に全て食われてしまいそうだった。
客人に出したのか自分のために出したのか、家主は躊躇いもなく咀嚼している。
「何か贈ろうか。道行きの邪魔になりそうなものを」
カリ、と歯を立てれば固さのわりに甘い味が広がる。
「それは素敵だな」
売って六文より高くなるものが良い。そう笑う。
欲は捨てないのかと鼻を鳴らしてみせれば、一番邪魔なのだけれどねと愉快そうに返された。
「風雅に繋ぎ留められちゃったからさ。仕方なく喜んで行くんだ」
「そうかい」
「帰ってこなくちゃ駄目なんだ」
流浪の人になれない可哀想な聖人は言葉を紡ぐ。
その一音で六文は充分に賄えるだろうに。
最後の一切れに手を伸ばす。
「美味い柿だ」
「杉風が寄越したんだ」
「礼を言っておいてくれ」
「君にあげた柿じゃあないけれどね」
ふくく、と喉の奥で笑う桃青は若い。
彼はきっと望んで老いているのだ。筆をとる宗匠の枯れた旨みは人工的だ。
一人で旅もできないのか。
旅も一人でできないんだ。
かわいそうに、と湯呑を呷る。白湯は冷めていた。
「友だちが少ないよな」
「君がかい」
「俺じゃねえよ」
「君もだろうに」
元々細い目を更に細めて桃青は歌う。
その通りだだから残念ながら憐れめねえぞご愁傷様。
「悼んでおくれよ」
ひ弱に萎んだ老人の声で呟く。
「君がいなくちゃ死んだようなものだよ」
友人がそれに絆されないことは憐れんでやるよ。
「俺がいなくちゃ死んだも同じことさね」
繰り返す問答に桃青は満足して見えた。
「詩歌の一つでも贈ってやるさ」
「それは重たいな」
弾む調子はやはり若々しい。少年のそれとも紛うほどである。
彼の師弟の誰もが知らないであろう顔を誇らしく思った。
彼を待っている限り彼を待てる気がした。
「近頃また名前が増えたそうだが」
「うん、庵に植えた芭蕉が大きく育ってね。みんな芭蕉翁と呼ぶよ」
「芭蕉」
そう、芭蕉。すぐ葉が破けるんだ。楽しそうに桃青は笑う。
「嵐や風でかい」
「空から降る雪や鏡の欠片でもきっと裂けるよ。別の草につつかれたって穴が開きそうだ」
心から楽しんでいるのか、自嘲混じりなのか。それは分からなかった。
「堂でも作って囲めば済むかね」
湯冷ましをすっかり飲み干して、茶托と一緒に盆へ返す。
桃青が立ち上がる衣擦れの音が耳に心地よい。
「魅力的な提案だけれどね、願い下げだ」
「だろうな」
君はただ待っていてくれよ。旅人志願者は口角を上げる。
彼を旅人にする片棒を担ぐのは乗り甲斐のある話だ。
「きっと、勝手に裂けるよ」
「枯れなきゃいいさ」
頭巾を被りなおして外へ出る。
挨拶する俺の声も少年じみていた。
(松尾芭蕉)(山口素堂)
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