在りし日の親友たち

春野 治

在りし日の親友たち



 "高層ビルみたいな人。"

 それが、彼の第一印象だった。

 彼は、これからお世話になる職場の人達の中でも頭ひとつ飛び出していたのが印象深い。その背の高さといったら、近づけば近づく程大きくなって、テッペンが見にくくなる───そう、まるで都会でよく目にする高層ビルのようだ。そんな風に思ったのを覚えている。



「八月一日 ほずみ みのると言います。これからよろしくお願いします」


 

 そう名乗ってからぺこり、と頭を下げれば、パチパチと拍手を貰う。和やかな視線を送られながら、工房の皆さんに簡単な自己紹介を済ませた。その後、寄せる視線も無く、ただ目を引くものを探して周りを見た。工房というだけに、やはり色々なものが置いてある。そんなふうに思っていると、ふいに、紫色の瞳と視線がぶつかる。男性にしては少し長い茶髪を揺らして、ツリ目がちな眼がギョロりと自分の方に向いた。オマケにその当人は、こちらに近づいてくる。

 なんだか少し、怖かった。


「初めまして!オレの名前は御薬袋実みない みのる!これからよろしくなッ!」


 目線を合わせつつ僕にそうやって挨拶をした。

 僕を見つめる紫色の瞳は優しく揺れ、三日月のように弧を描いている。それは、歓迎してくれているように見えた。


「八月一日、稔です。えと……改めてよろしくお願いします」


「おう!てか下の名前一緒だな!ミノル同士、仲良くしようぜ!」


「あ、、はい」


 ニカッ、という効果音がピッタリな御薬袋さんの笑顔を見たお陰か、先程までのちょっとした恐怖は一掃された。


「君の後輩だよ御薬袋くん」

 

「そうっすよねー!いやー、オレも遂にこの工房の先輩か〜」

 

 「そうだ、ついでと言ってはなんだけど、この子をちょっと案内してあげてくれないか。私はこれから会議でなきゃいけなくてさ」


「おっけーす!頑張ってくださーい!」


 御薬袋さんは、先程案内をしてくれた人に向かって元気に声をかけている。コミカルにくるりとこちらに向き直れば、「ちょっとまっててね!」と付け加えてから、御薬袋さんは隣の部屋に足早に向かった。


 今度こそ、僕は上手くやっていけるのだろうか。室内を見渡しながら、そんなことを思う。


 正直……対人関係ではいい思い出がない。

 中学時代、一時"あんな"ものはなかったこととして振舞ったことがある。自分を騙して、皆に合わせて、さりげなく会話に参加して、それから年相応にめいいっぱい遊ぶ。それを繰り返した。

 しかし、そんなことは長くは続かなかった。

 中学一年生の、暑い暑い、夏の日。早くも限界に達した。


 過呼吸になって、倒れた日があった。じゃれあいとして、ベタベタと身体に触れられて、取っ組み合いのような事ことをした最中の話だった。中学生なんて、ヤンチャ盛りの年頃である。だからしょうがないことだった。

 長年無意識にできていた息の仕方を、この時初めて忘れ、視界がチカチカと点滅した。浅い呼吸しか出来なくて、空気を求めて水面から口を出す金魚のようだった。

 あの瞬間、教室というひとつの部屋を通して、何かを見ていたような気分になって、今どこにいるのか、なにをしているのか、分からなくなった。酷く混乱してパニックになっていたのだった。


 そんなことがあってから、人に触れられると嫌な気持ちになった。汚い、怖い、なんて思い始めていた。前々から若干そのような気持ちがあったが、無理をしたことで拗れたようだった。

 友達に触られることが、汚い───そんなふうに思う自分も嫌だったが、やはり触れらると嫌悪感がいやに混み上げてきては、もうどうしようも無かった。


 そんなんだから、高校でもかなり嫌な思いをしてきた。


「すぅ……はあ……」


 少し、深めの呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 しっかりしなければいけない。後ろ向きになってどうするんだ。

 父さんに、これ以上迷惑をかけたくない。そう思って一人暮らしだって始めたじゃないか。

 今度こそ、きっと平気だ。


「八月一 日くんおまたせ〜!じゃ、いこっか!」


「はい。よろしくお願いします」


「そんな堅くならなくていいよっ!って、まあ緊張するよね〜」


 御薬袋さんはやけに楽しそうに笑いながら、前を歩く。

 最初こそ威圧感を感じたりして、怖かった。でも、話してみれば人当たりが良くて、会話がしやすかった。人にペースを譲ってくれている、というか、歩調を合わせてくれているというか。

 そんな感じがしたから、話しやすい印象を抱いた。

 これなら、今度こそ"失敗"はしないだろう。なんだかそう思えてきたのだ。

 工房の分厚い窓から差し込む陽の光が、なんだか暖かく感じた。








 *










 ピピピピ、という主張の強い電子音と共に、視界には自室の天井が入る。まだ少し気だるい体を起こし、サイドテーブルに置いてある目覚まし時計を止める。

 今のは、夢。数拍置いてからそう理解する。あまりにもリアルで、未だに現実味を感じている。窓から差し込む春の陽気、職員の皆の顔、工房の独特の香り……そして、僕を案内する……


 最近居なくなった、御薬袋。


 彼がいなくなって、どれくらいの時が経ったんだろうか。日付を見て、御薬袋と出会ってもう4年も経つんだな、なんて呑気に思いながら、彼との最後の連絡を思い出す。

 

 『ピーチティー無かったら何ティー欲しい?レモン?アップル?』

 『レモン』

 『OK!』


 彼からのメッセージは、これ以降なかった。

 

 『帰り遅いけどどうしたの?』

 :発信履歴

 『これ見たら連絡いれておくれよ』

 『皆心配してるよ』

 :発信履歴

 『今日、早めに上がったよ。明日もしこなかったら、皆で警察に届け出しにいこうと思ってる』

 『君が、もしかしたら何か大変な目に遭っているんじゃないかって思って』

 :発信履歴

 :発信履歴

 :発信履歴

 『御薬袋。君が、無事でいてくれたら嬉しいな』

 『もし、自分の意思でここを離れたのなら、僕は、止めないよ。でも、挨拶もなしになんて、あんまりだ。僕は君のこと、親友だって思ってるんだから』

 『もし気が向いたら、帰ってきて』

 『無事でいてね』



 それから、メッセージは入れていない。警察からも、彼が見つかったという連絡は来ていない。

 そもそもあの御薬袋のことだ。周りを考えて動いてくれている彼が、黙って一人行方をくらますなんてことはしないだろう。しかも仕事中に、だ。

 だから、もしかしたら……なにか大変なことに巻き込まれているのではないだろうか。

 もし、もしそうなら………もう、彼は――――

 

「あー……やめよう……」

 

 もう何度も考えたことだ。

 考えたところで、答えなんて出ない。そんな事に時間を使ってどうするんだ。

 さあ、室内の空気の入れ替え。そして部屋の掃除を軽くしてから朝食を取ろう。やはり、床に落ちてきているであろうホコリを意識すると、朝は掃除からしたくなる。

 時刻は午前5時30分。色々な理由で、今は早く起きてしまう。寝ていると、寝苦しさが勝ってどうにも耐えられないのだ。

 窓を開けると、外はまだ薄暗く、少し寒い。春が到来したというものの、やはり朝は冷える。

 御薬袋は……暖かく過ごせているのだろうか。

 そんな想いを浮かべると、鼻筋あたりが少し、ツーンとした。次いで目頭が段々熱くなり、遂には視界がボヤけてきた。

 涙が出てきたのだ。

 瞬きをすれば、両目から一粒零れて、生ぬるいものが頬を伝う。涙を一滴一滴流す度、御薬袋のことを思って、とまらなくなる。

 

 どうしてかえって来ないの、とか。

 どうして連絡くれないの、とか。

 僕が、ピーチティーなんかを頼んだからなの?とか。


 もう、何回も同じことを繰り返している。堂々巡りであることは、百も承知しているのだ。頭の中では何度も考えてはいけないと制するのに、彼がいなくなった悲しみ、やるせなさ、心配、ショック……ありとあらゆるものがそんな自制心を破るのだ。

 もはや、彼の安否を考えずにはいられない。だって僕は、心の底から親友の帰りを待っているのだから。

 いつかきっと、ケロッとした顔をしながら、「心配かけてごめんね」ってへにゃりと笑いながら帰ってくる。それから、謝ることないよ、生きて帰ってきただけでもういいよ、おかえり御薬袋ってみんなで彼に寄り添って、御薬袋の話を聞くんだ。

 彼はきっと帰ってくる。そう信じていることが、今僕に出来ることなんだ。

 ただ、ほんのちょっと、辛いだけ。擦り傷みたいなものなんだ。本当に辛いのはきっと御薬袋なのだから、僕はそれを信じて待つしかできない。僕にできることは、彼の無事を祈ることだけ。

 

 そう思いながらも、僕の涙は止まらなかった。

 涙跡が残る頬が、風に晒される。

 少し、寒く感じた。









 *






 



「なあなあ、八月一日くん、君、作業まだあるの?」

 

「いえ、今日はもうありませんが」


「そっか。じゃあ手袋、工房内の洗濯機で洗ってあげるから貰うぜ!」


 あの時、ずっと、どうしよう、なんて言おうって凄く思っていた気がする。

 怖くて、怖くて、堪らなかった。

 素直に言えたとて、気持ち悪いとか、なんでこんな仕事に就いたんだとか思われたりしないか、とか……。本当に沢山沢山考えた。

 

「これは、その、私物、です。実はずっと着けていて。色々と汚れるのが、嫌なんです……」


 やっとの思いで絞り出した言葉は、とてもたどたどしくて、情けなかった。

 御薬袋さんの返答を待つ、たった数秒が永遠にも感じた。


「……潔癖症、みたいな?」


 ドキリ、とした。

 御薬袋さんは、僕を貶めるようなことは、何も言っていない。言っていないはずなのに。こんなにも怖かった。

 

 喉元に刃物を突き立てられているような、

 拳を振るわれる前のような、

 殺人鬼に追いかけられるような、


 そんな、暴力的な緊張感が、僕の中にあった。


「……そう、なりますかね。」


 やけに他人事で話している。我ながら意味がわからなくて、息苦しくなってきた。

 ああ、バレたくなかった。

 御薬袋さんは、良い人だ。だからその分、気を遣わせそうでもある。もしかしたら、腫れ物扱いをしてくるかもしれない。

 そんなの、嫌だ。もう普通に、生きていたい。


「あのっ……あまり、知られたくないので、言いふらさないで欲しいですっ……」


 僕は、床を見つめながらそう言った。

 なぜか、御薬袋さんの顔を見ることができなかった。驚かせているのかもしれない。優しい御薬袋さんのことだから、言葉を選んでいるのかもしれない。ああ、対人関係とはなんと煩わしいのだろう。コンプレックスを晒すだけで、こんなにも苦しいなんて。

 僕にとって、反応を待つこの沈黙が、あまりにも辛く、溶けてなくなってしまいたくなった。


「八月一日くん、顔上げて?」


「……?」


 御薬袋さんは、優しい声でそう呼びかけた。

 恐る恐る視線を上げる。

 衣服が擦れる音と共に、御薬袋さんがしゃがんでくれたのが分かった。

 御薬袋さんはしっかり目を見て、こう言った。


「話してくれてありがとね。……話すの、怖かったっしょ」


「………………」


 その言葉を聞いて、緊張が解れていくのを感じる。

 御薬袋さんの、紫色の瞳に見つめられていると、全て話してしまいたくなる。そう思った。

 そう思ってしまう程に、彼の対応に救われたのだ。


「……ごめんな。話しづらいこと聞いたよね」


「い、いえ……。こんなの、言わないと伝えられませんし……」


「この事、誰かに話してある?」


「……一応、オーナーさんには……」


「そうか……。」


 御薬袋さんは、少し視線を下にして、目をうろうろさせる。なにかを考えているみたいだった。


 「じゃあさ、これは提案なんだけど……工房の皆にきちんと話してみない?」


「えっ!無理ですっ!」


 自分でもびっくりするくらいの大声が出た。御薬袋さんも「まあまあ」と言いながら少し困った顔で笑っている。


「ここにいる皆なら、八月一日くんにとって働きやすい環境を作ってくれるかもしれないって思ってさ」


「……そんな、こと……悪いです。僕の、わがままです」


 御薬袋さんからの提案は、本当はすごく嬉しかった。でも、それと同じくらい、ワガママなんて言えない、と思った。

 皆何かあっても我慢している。それが社会なのではないだろうか?潔癖症だからって、何も死ぬ訳じゃない。僕が我慢すればいいこと。だから、御薬袋さんの提案は、断らなければならない。


「ワガママじゃないよ。八月一日くんと働きたいからそうしたいって思うんだよ。皆だってきっとそうだよ」


「…………でも……」


「なんならここ、ドア無いのだってさー、オーナーの白八木さんリクエストで外れてる。ほらここ、留め具あるでしょ?外してるってことの証拠!んでこっちはー、オレらの中で1番背の低い三ノ宮さんが、 作業しやすいように棚とかの形も変えてるでしょー」


「本当だ……」


 御薬袋さんが指している棚は、そこだけ塗装が異なっていた。

 つまり、新しく棚を入れ、使いやすいようにした証だった。


「……ね、どう?皆、1人1人働きやすいようにしてくれてるんだ。大量にメンバーがいるわけじゃないから、その分オーナーは個々を尊重してるんだぜ。」


「温かいですね、皆さん……」


「うん、そうねー。ここは優しい人ばっかいるよ。こういうのが当たり前になればいいのになァ〜!」


 御薬袋さんは、明るくニカッと笑った。

 そんな笑顔を見て、僕もつられて笑った。さっきの緊張感は、どこか遠くへ行った。

 それから、一緒に画材を片付けて、帰った。帰宅方向が一緒だったので、仕事の話とか、身の上話とか。そんなものをお互いしながら歩いていく。

 御薬袋さんのつけている白黒のピアスがピカピカと輝いていたのを、やけに覚えている。

 西日眩しい〜、なんて話しながら、あっという間に分かれ道。


「じゃあ、また明日な!」


「あ、あの!ひとついいですか」


「ん?なーに?」


「今日はその、色々とありがとうございました。僕、潔癖症のせいで、苦労してきたんです。……でも、御薬袋さんにああいう風に言って頂けて、凄く嬉しかったです。」


「はは!そんな大したことじゃないよ。寧ろ話してくれてあんがとな!あ……じゃー、オレからもいーい?」


「?はい。勿論です」


「オレ〜……八月一日くんのことみのるって呼んでいい?」


「え、良いですけど……ややこしくないですか?」


「いやー!そうなんだよなー!でも後輩出来たら絶対下の名前呼ぶまでに仲良くなるっていう夢があったんだよー!!な!どう?どう?」


「……ふふ、じゃあ、いいですよ。」


「マジ?ヤッター!じゃあよろしくな!みのる!また明日!」


「はい。また明日」


 御薬袋さんは僕の返事を聞いて、一笑した。そうして、彼の帰り道を進んでいく背中を見た。御薬袋さんの進行方向に沈む太陽があるから、まるで太陽を追いかけて歩いているみたいに見えた。

 時刻は18時過ぎ。日の長い春でも、この時間になると日は沈み始めていた。

 オレンジ色の大きな空は、暗くなるものかと耐えているみたいに、ギラギラとしている。

 それから、太陽を背にする自分の影が、とても長くて、僕は影を追って歩いているように思えて、なんだか幼い日々を思い出した。

 帰り道を歩く僕の足取りは軽かった。太陽に照らされているような、明るい気持ちがあったからだった。



 








 *




 




 時刻は午前8時。

 日はすっかり昇って、さっきよりは空気が暖かい。道端にある春の彩りを感じながら、工房への道を1人歩いて進んでいく。

 しばらく歩いていくと、曲がり角にあたる。工房へ行くには、ここを右折するのだ。

 

 ……いつもなら、ここで御薬袋と会うのに。


 そうやってまた、同じことを考える。ひとつ呼吸をおいて、後ろ向き思考を振り払った。

 大丈夫、彼は帰ってくる。そんな根拠もない鼓舞を己にかけ、道を曲がる。

 初めて一緒に帰ったあの夕暮れ。下の名前が同じの癖に下の名前で呼びたいなんて、なんか少し面白いな、って思ってた。

 正直、凄く嬉しかった。あんな風に声をかけて、下の名前で呼びたいと言ってくれたことが。

 今思うと、御薬袋はああやって優しく人をひっぱってくれるから、友達が多いのだろうな。

 そんな、誰とでも仲良くなれるであろう彼は、僕のことを親友とまで言い張るようになった。引く手数多な御薬袋に、僕なんかが?なんて最初は思ってたし、全身痒くなるくらいに恥ずかしかった。親友と呼ぶなんて、そに応えるなんて、「俺らめっちゃ仲良し」と周りにアピールしてるみたいと思ったからだ。

 御薬袋に一度「それ、やめない?」と声をかけた事もある。彼はやけにきょとんとしながら「え?なんで?」と言っていた。聞いてみれば、彼にとっては、弟が兄をお兄ちゃんと呼ぶように、自分にとってのポジションを呼ぶみたいな感じ、らしい。

 でも、僕も悪い気はしていなかった。彼が隣にいてくれるのは、心地よかったから。

 在りし日の思い出に浸りながら、アトリエに入っていった。

 

 

 



 




 *







 

 




 目の前にある5箱のダンボールを見ながら、自分でも中々に信じられないな、と思った。

 自分はあまり物を持たない人間だとは思っていたが、5年以上暮らしていてわずか5箱で収まる荷物しか持っていないとは思わなかった。

 引越し業者の人も、「ミニマリストですねー」なんて笑いながら作業をしてくれていた。

 別にミニマリストではない。物が多いと掃除をしにくい。ホコリがとれない。気になって眠れなくなる。だから、買わない。それだけだった。

 荷物をあらかた運び出して、引き払う部屋を一望する。部屋を見ているだけなのに、色々な思い出が溢れてくる。

 中高揃って友達なんて言えるものは出来なかった自分にとって、部屋にあげる人間は仕事関係か、夏目くらいだった。

 御薬袋が夕飯作りに来てくれたり、夏目が就職祝いしてくれたり。熱を出した時なんて、御薬袋が泊まり込んでいたのをよく覚えている。

 

 僕らのアトリエは、場所を移動することになった。もっとも、ネガティブな意味ではなく、とても良い意味の移動だ。

 僕らの仕事が評価をされて、僕らには大きなアトリエを与えられた。あの年季の入ったアトリエも素晴らしかったが、利便性に欠けたり、少し狭くて窮屈なところもあった。それが大方の理由ではないものの、新しいアトリエは大きくて使い勝手が良さそうではあった。

 御薬袋がいなくなってから暫くして、とある修繕依頼が来た。前回の依頼で、想像以上の出来を提供して貰ったので、もう何作品かをやって欲しいという依頼だった。たった一つではなく、複数の作品を、である。

 修繕する作品は、大きさによっては1人で作業をしたり、複数人で取り組むことがある。今回は大きくないため、個々をそれぞれ担当するというプレッシャーある内容だった。

 僕が任されたのは、ゴッホの「ばら」という作品である。こちらは複製画であるため、勿論本物では無いが、年季の入った模造品であり、汚れも目立った。

 修繕した作品を提出した後、依頼人は各々の作品の再現度に対して大いに感動をしてくれたらしい。

 それからオーナーは少し忙しそうにしていた。僕らにも逐一興奮したように伝えてくれていたが、とりあえずわかったことは"僕には到底分からないような色々なことがあったんだ"、ということくらいだった。なんとか委員会がどうとか、評価がどうとか。組織的なものの話はあまり興味がなかった。でも、僕らの仕事が評価されたんだろうなということは推察できた。

 評価を受けた作品は、その依頼を受けるに至ったきっかけになる作品がある。

 それには、御薬袋だって携わっていた。

 でも、御薬袋にはなにもスポットは当たらなかった。

 若いのに凄いね、尊敬する。なんて小綺麗な格好をした人に声を掛けてもらった。胸元で鈍く光るバッチは、何かしらの偉さをこれみよがしに象徴してるみたいな下品さを感じた。

 「ありがとうございます」、とにこやかに挨拶をしても、「若いのに、と言っている時点でこの人は僕を見下してるな」と、心の中で呟いた。

 ここに、御薬袋がいたならな。

 彼はなんて言うんだろう。

 嬉しそうにはにかんでいるのだろうか。

 真っ白なLEDライトが幾本も連なる廊下を、仲間達と歩きながら、あの時はそう思った。

 

 あとで落ち合う引越し業者の人とは一旦別れて、外へ出る。近所を懐かしむように歩いていると後ろからカローラっぽい車がきた。

 窓を開けながらひょこりと頭を出すのが見えた。

 夏目だ。


「よかったー、間に合った」


「よかったーじゃないでしょ。……いいの?お仕事中に」


「いいんだよ。昼休憩前の見回りだし」


「ふーん?」


 

 少し不服そうに返事をすると、夏目は車を道の端に停めた。


「飯食った?」


「いや、まだだけど」


「じゃあ食いに行こう。俺からの餞別」


「悪いよ。というか、また会える距離だし」


「じゃあ引越し祝い。ほら、俺もお腹すいたし行こう」


「うーん…じゃあお言葉に甘えて。」

 

 夏目が食べたいだけじゃないの?なんて言葉は飲み込んで、助手席に座る。

 というか、よくよく思えばこれは警察車両……。と思ってなんだか座りが悪く感じた。


「警察車両だから、綺麗だよ」

 

「夏目の車も綺麗じゃん」


「そう?」


「うん」


 夏目の方を見ても、目はよく見えない。髪の毛でうっすら隠れているからだ。

 運転する時には支障は出ないようだが、邪魔に思わないのだろうか。隠さないといけなくなる程、火傷を気にしている証でもあるが、自分の前では気にしなくてもいいのに。


「警察車両乗るのとかさ、学生の時以来だよね、僕」


「んー?そうだな。そうだったな」


「懐かしいなあ。まさかさぁ〜、あんな風に再会するなんて思わないよ」


「ふふ、お前が元気そうってこと以外は最悪だったな」


「僕はこんな立派な社会人になったよー!って大声で言ってやりたくなってきた」


 夏目は、僕が"あんな目"に逢った……事件に巻き込まれた、時の担当刑事だった。

 当時のことはあまり覚えていなかったが、よく気にかけてくれていたらしい。父さんがそう話していた。

 再会したのは僕が高校二年生の時。クラスメイトと極力関わらないようにしていた事が裏目に出て、一部のクラスメイトと喧嘩のような事になった。

 学校外での暴力沙汰。比較的軽いもので済んだけど、その時たまたま見回りをしていた夏目と、もう1人の刑事さんが止めてくれた。

 それがきっかけで、また夏目と関わるようになった。

 良くも悪くも、縁だな、なんて思った。


「本当に立派だよ、八月一日は」


「うわー真面目に言われるとなんか照れるね」


「照れることないだろ、胸張っていいんだよ」


「ハイハイありがとう」


 横目で夏目を見ると、口元が少し笑っていた。

 それを見て、胸のあたりがじんわりと温かくなった気がした。





 


 *







 夏目に昼食をご馳走になって、少し話した。

「向こうに行ってもがんばれよ」とか大袈裟に言うから、「ここからは割と近いって言ってるじゃん」と返した。夏目はちょっと楽しそうに笑っていた。

 新居の方には電車で行く。バスや電車に長時間乗るのがあまり好きでは無いが、今日くらいの距離なら大丈夫だろう。

 スマホを見ると、時刻は13時15分。待ち合わせまでは時間があったが、少し早めにあっちにいこうかなと思案する。

 なんとなく、スマホを開いて、メッセージ一覧を見る。そして、ピン留めの1番下にいる『御薬袋』の所を開いた。

 ひと呼吸おいて、僕は文字を入力し始めた。



 御薬袋。

 僕、あの家から引っ越すよ。

 君がよく来た僕の家の荷物、ダンボール5箱分しかなかった。びっくりしたよ。君が言う通り、もう少し生活に彩りがあってもいいかもね。

 君は、楽しくやってる?

 どんな景色を見てる?

 僕はね、修繕師として、少しずつ成長できてるよ。そう、胸を張って言えることがあったんだ。君にもいつか、聞いて欲しいな。

 しかもその出来事はね、君のお陰でもあるって思うんだ。君と共に、あの喜びの瞬間を分かち合えたら、どれほど良かったかって今でも思う。

 

 あのね御薬袋。

 君に、もう一度会えたなら、言いたいことが沢山あるよ。

 君から貰ったものは計り知れなくてさ。もっともっと感謝がしたいし、もっともっと君と多くのものを見たかったなって思うんだ。

 この先、君が描く絵を見れないのはやっぱり寂しいし、君と映画を観ることもないと思うと、切なくなる。

 君と過ごした日々はね、何にも代えがたいものだったよ。

 もし出会ってなかったら、心を許せる友達といる日々はどんなにキラキラしていて、友達を失った生活はこんなにも寂しく映るんだなんて、きっと知らなかった。


 御薬袋。君は僕にとって唯一無二の親友だよ。

 

 今までありがとう。

 そしてさよなら。

 

 このメッセージが届いていても、いなくても、もう意味が無いことはしってるんだ。

 だから、さよなら。

 さよならが言えないのは、寂しいからさ。



 送信してから、深く息を吐いた。

 まるで、呼吸を止めていたように息をするのが苦しかった。

 当然の事ながら、メッセージは既読にはならない。

 でも、これでいい。

 僕の気持ちの区切りだ。いつまでも下を向いて、悲しみに沈むことが、良い事だとは思わない。

 また、思い出して泣いてしまう時まで、ネガティブな言葉は出さない。

 そう、決めたのだ。


 穏やかな春の陽気は道を照らし、風は木々を晒す。

 オオムラサキが僕の目の前をふわりと横切り、風に乗って空高く舞い上がるのが見えた。

 それに一笑をくれてから、僕は駅の方面に歩き出した。

 

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